第24話
ちょっと申し訳ないかなと思っていたが、絃の気持ちを察したのか、からい蕎麦が好きなんです、と編集長の独り言が始まった。
語尾が甘くかすれる彼の声は、耳に心地よくてついつい聞き入ってしまう。
そういえば海外を放浪していたという話も途中のままで、いまだにその先を聞いていない。
続きを話してくれる時がいずれ来るだろう。今日は、東京の下町生まれなのだと語っていて、それも初めて聞く話だったので絃の耳に残った。
「東京……それで、からい蕎麦ですか?」
「絃さんは、江戸前蕎麦って食べたことありますか?」
「おそらくないかと。バリバリの関西人です」
標準語が上手ですねと言われて、絃はどうもと頭を下げた。
祖父母も含めて西の生まれだ。しかし幼い時に、同時通訳の仕事をする人を見て衝撃をうけて以来、絃は標準語を使うようにしていた。
それに、敬語を使えば方言はそもそも少なくなる。
「でしたら、きっとお蕎麦のつけ汁をからいと思うんじゃないかな。僕からしたら、からい蕎麦のほうが、いきちょんなんですけどね」
「いきちょん、ですか?」
「はい。関西風にいえば、「バリええかんじ」ですかね」
「めっちゃ現代風!」
絃はおかしくて噴き出してしまった。編集長の関西弁が似合わなすぎる。
正直に、楽しいと思っている自分がいる。
もはや、蕎麦はどうでも良く思えてくるくらいには、いつの間にか会話が弾んでいた。
編集長と、こうして二人で出かけていることが不思議でしょうがない。
そもそも、出会ってそれほど日が経つわけではない。会うのもいつも夜に、お店でというだけで、友達でもなんでもないと言える。
それなのに、気づけば飲み友達になっていたし、こうしてプライベートの時間まで一緒に過ごしている。
大人になると友達を作りにくいというのはよく聞く。自分もそうだと思っていた。だからこうして友人が増えたことに、妙にくすぐったい気持ちになるのだろう。
「編集長は、関西の味も関東の味も好きですか?」
「もちろんです。僕は世界中を色々とほっつき歩いていましたが、結果的に一番おいしかったのは日本酒とそれにあう肴ですかね」
それには絃も同意する。
「ホームシックにはならないのに、日本食は恋しく思うんですよ。自分が、生粋の日本人だったと思い知らされる瞬間です」
ポロリと本音がこぼれて、絃は若干慌てた。あまり自分のことを話さないようにしていたのに、気が緩んでいたようだ。
でももう、声に出してしまった言葉は戻らない。それに今日くらいは多少気が緩んでもいいはずだ。なにしろ休日で、遠出で、昼間からお酒と美味しいお蕎麦なのだから。
「……編集長といると、私はお口が緩くなってしまうようです」
「それはそれは、嬉しいお言葉ですね」
「なんというか、ほだされている感じがして悔しいんですけどね」
「もっとゆるっとしてくださって結構ですよ」
絃はふてくされながら、窓の外の景色を眺めた。
「……そういえば以前、いつから日本食が好きなのかと訊ねられましたが、日本食とお酒が好きなのは、もうずいぶん前からです」
絃は海外が好きだ。
自由で奔放で実力主義で忖度もない。嫌なものは嫌と言え、好きなものは好きと言える。そんな外国文化に、小さい時から興味を持っていた。
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