第19話
はいよ、とマスターは後ろへ下がって行った。
「いい感じです、美味しいです」
「今頼んだものも、きっと美味しいと思いますよ」
ぼちぼちと厚揚げと熱燗で身体を温める。やっと腹のあたりがぽかぽかしてきたときに、マグロユッケとラッキョウが先に出てきた。
身を乗り出しそうになってしまい、絃は慌てて自粛する。編集長を見れば、お先にどうぞ、という顔をしている。
「いいんですか?」
「どうぞどうぞ」
さっそくマグロユッケを混ぜる。ネギがたっぷり入っているのを見つめながら、絃はさっそく口へ入れた。
「あー……」
こってりとした味と卵黄のとろみ、さらに胡麻油の芳しさが口の中に広がっていく。ネギがシャクシャクといい歯ごたえだ。あまりに美味しくて言葉を失っていると、マスターが塩のたくさんついた海苔を持ってくる。
店の合格が決まった、といっても過言ではない。
大急ぎで杯を酒で満たし、こぼれそうになったことに慌てた。お行儀が悪いとわかっているが、こぼすよりましなので唇でお迎えにいかせてもらう。
舌下に染み入るさっぱりとした味の酒に、言わずもがな箸が止まらなくなっていた。
「絃さん絃さん。ラッキョウ、このお店の自家製なんですよ」
「えっ!?」
自家製と言われて、食べないという選択はない。
ラッキョウの爽やかさと酸味を食べれば、疲れた身体が回復するに違いない。
「美味しそうでしょう?」
「たまりませんね。いただきます」
絃はつやつやに輝く、まるで宝石のようなそれを口に入れた。
コリコリシャクシャクと齧ると、じゅわっと独特のさわやかな味と塩気が口の中に広がっていく。
なるほど、絶妙で繊細な味付けに加えて、後から唐辛子のピリリが心地よい。
「……また、なんでこう、お酒に合うものばかりを。これじゃあ、飲まないつもりだったのに、深酒しそうです」
「おやおや、嬉しい文句ですね」
「しかもこのお酒はダメです。これはザブザブ飲めてしまいます」
「最高の誉め言葉ですね、絃さん」
編集長があまりにも嬉しそうに笑うので、絃までつられて笑ってしまっていた。楽しいお酒というのは、一緒に飲む相手も重要なのだということを思い出していた。
悔しいくらい、編集長に好みを熟知されているらしい。
それとも、ただ単に好みが同じだけなのか。
いつかこの人に、一泡吹かせることができるかと思考を巡らしていると、お上品にそぎ切りされた鶏肝が目に入った。
無理だ、と絃は思った。これは絶対に美味しい。間違いなく美味しい。
複雑な顔をしていると、横からやんわりとした編集長の視線が向けられてくる。
「これもとびきり美味しいですよ。多分、絃さんならずぶずぶにハマるかと」
絃はずぶずぶにハマるわけにはいかないと、心を鬼にして箸を伸ばす。
「…………もうやだ……」
砂肝を口に含んだあと、言葉が続かない。
絃の反応に編集長はご機嫌な様子で笑顔を弾けさせていた。
「どうです? たまらんでしょう?」
絃はごくんと砂肝を呑み込んでから、箸を箸置きに戻して口を真一文字に引き結んだ。
「完敗です。負けました。私の負けです編集長……これはたまらないです」
憎らしいくらいに美味しい砂肝を睨みつけたが、結局止めることができず、もう一切れを取って、口に入れてしまっていた。
「美味しいです、編集長」
こっくりとした濃い甘じょっぱい味に、舌の上で滑らかに広がる味噌の芳醇な香り。
噛むたびにじゅわじゅわと、美味しいとしか言えないそれが、口の中を幸せにいっぱいに満たす。
絶妙な甘辛の味噌が滲みこんでいるのが悪い。
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