第10話

 大将の声に、観光客であろう二人がさらに困ったように顔を見合わせている。すみません、と片言の日本語のあとに、どうしようとぼそぼそ会話している。


〈――どうしました?〉


 絃が外国語で声をかけると、二人は表情を明るくした。

 聞けば迷子になってしまったらしく、道が暗すぎてわからないという。


 ついでに携帯電話の電波も使えなくなってしまったところで、お店を発見したのだと、身振り手振りからして相当困っているのがうかがえる。


 たしかに、このあたりは暗いし道も狭いしわかりにくい。おおかた、面白そうだと探検しているうちに、どんどん奥まったところに入り込んで大通りから逸れてしまったのだろう。


 外国人によくあることだ。


「絃ちゃん、悪いね」


 大将に申し訳なさそうに言われて、絃は瞬時に仕事モードにスイッチが切り替わった。


〈ホテルの場所はどこですか?〉


 絃が訊ねると、二人は近寄ってきて名刺を差し出してくる。それほどこの店から離れているわけでもないゲストハウスだ。


 絃は少し待ってと彼らに声をかけると、壁に吊るしておいたコートを羽織る。


〈道案内しますね。すぐだから〉


 絃の申し出に彼らは両手を合わせて喜んでくれる。


「大将、この人たちは迷子だそうです。なので、ゲストハウスまで送ってきます。戻ったら熱燗と、生牡蠣ふたっつ食べます。財布を人質に置いておきますので」


「絃ちゃんが食い逃げするわけないやろ。気いつけてな。ほなまたあとで……熱々用意して待っとるで」


 大将に見送られ、絃は店を出ようとした。カウンター席から編集長の甘ったるい声が追いかけてくる。


「絃さん、〆の鍋を一緒に食べましょう。お待ちしています、早く戻って来てください」


 〆の鍋という単語にきりりと身が引き締まる。瞬時に、胃袋にそれが入る余白が出来上がった。


「言われなくともすぐ戻ります」


 暖簾をくぐって外に出ると、ぎゅっと目をつぶってしまうほど寒い。しかし、このボランティアが終われば、牡蠣と熱燗が待っている。


 それに、二人前からしか頼めない鍋も。考えただけで妙に酒が回ってきて、必要以上に戻るのが楽しみになっていた。


 外国人たちの宿泊しているゲストハウスは目と鼻の先、とまではいかないものの、歩いて十分ほどで到着した。


 地図も見にくい月の翳る夜に、携帯電話もおじゃんな状態で、さぞかし困ったに違いない。


 他愛のない話をしながら送り届けると、最上級のお礼の言葉をのべて、たっぷりとハグをしてくる。


 外国の香水の香りが鼻をくすぐった瞬間、懐かしさが込み上げてくると同時に、ああ今ここは日本なのだとはっきり理解する。


 絃が外国にいた時には、香水の香りなど気にも留めないほど日常的だった。今やそれが、香水がきついと思うのだから日本人だなとつくづく思う。


 なぜか、きゅんと胸が締めつけられるような感覚に襲われた。

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