第9話
言われて、「音だけ聞けば」と怪訝な顔で絃が答えると、ゆっくりと編集長がほほ笑んだ。
この人の笑う姿は、たとえるのならば花笑みという言葉がしっくりくる。
薔薇のような艶やかな感じではないが、芍薬のようなどっしり感と、二度振り返ってしまうような匂い立つ色気があった。
「真白と言います」
なにが、と絃が訊ね返すよりも早く、編集長の唇の脇にある小さなほくろが揺れる。
「僕の名前です」
絃はきょとんとしてしまった。
「……聞いていませんけど」
「ええ、聞かれていません。なんとなく、僕だけ絃さんの名前を知っているのは、フェアじゃないような気がしまして」
そうは言われてもと思っていると、「知っていても呼ばなくていいですよ」と付け加えられてしまう。
「なんですか、それは」
絃は眉を吊り上げた。
この人は突き放したいのか引き寄せたいのか、まったくわからない。たゆたう波のように、押しては引いてを繰り返す。絃は白子をぱくんと一口で食べた。
「あっ!」
もぐもぐしてから、しまったと気がつく。
これでは、白子を食べるたびに、編集長の名前を思い出してしまうではないか。
白子のような白さを連想する、真白という名前。豆腐でも牛乳でもご飯でも、とろろでも。白い物を見るたびに、編集長のことが頭に浮かぶ。
してやられたような感じだ。これだから、この手の大人はずるい。
隣に座っている彼はというと、どこ吹く風でぬる燗を追加している。絃もやけになってお酒を追加した。
「真白さんは、編集長なんですってね」
教わったばかりの名前とともに、絃はじっとりとした目で編集長を見つめた。ちょっと棘があるような言いかたになってしまったのだが、編集長はなんだか嬉しそうにこちらに向き直った。
「みんなからはそう呼ばれています。役職です。本名ではありません。先ほど申し上げたのが、僕の本名です」
ちょっと、つかみどころがない人だ。会話がうまく成立しているのかどうかさえ怪しい。
「それはわかっていますって」
「絃さん、僕の名刺要りますか?」
「要らないって言ったら、どうするんですか?」
絃がいつも通り、胡散臭いものを見る目で編集長を覗き込む。
編集長はおちょこに入っている、とっくに冷め切ったぬる燗をくるくると回した。
「そうですねえ……どうしましょう?」
まるで、暖簾に腕押しのような会話になってしまって絃は脱力した。
「編集長。質問に質問で返事はダメです。必要になったらいただきますね」
絃が椅子の背もたれに背中を預けたところで、引き戸が開いて寒い風が足元に忍び寄った。
いらっしゃいと大将が声をかけたあと、ほんの少しの間が訪れる。大将はほんの少しだけ首をかしげた。
大将につられて入り口を見ると、外国人二人が困ったような顔をしている。
「カウンターでいいですか?」
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