第6話
店から一歩出た先は月明りもないただの暗闇で、さぶい風が吹き抜けている。思わず幽世かと思って赤ちょうちんを確認したが、極めて確実にこの世であった。
「……きれいな星月夜ですよ」
横から急に、甘ったるい響きの声が聞こえてくる。
絃を待っていたのか、月を見上げていたのかはわからないが、仕立ての良いコートを羽織った紳士が暗闇の中に立っていた。
ずいぶん背の高い彼の影に近寄って行き、絃は「ごちそうさまでした」と頭を下げる。
彼と同じように空を見上げれば、なるほど、高いところで明るく星たちがピカピカと光っていた。
「星月夜とは、またなんとも古風な言い回しですね」
「ええ、古い人間ですから」
ふふふと笑って、紳士はポケットに手を突っ込みながら歩き出す。
濃い暗闇に、すぐにでもとけてしまいそうなその背中を絃は追いかけた。
賑わいの残る人の多い通りに出ると、急に現実が押し寄せてくる。観光客たちがまばらに歩いており、外国人たちが騒いでいる。
酔っぱらったサラリーマンたちが、肩を組みあいながらあやしい足取りで歩いていくのが見える。
酒で温まったはずなのに、その光景を見るとすっかり心が冷え込んだ。
よっぽど絃が嫌そうにしていたのか、紳士が近づいてきて顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか? 一人で帰れます?」
寂しい気持ちになったのを見透かされたような問いかけに、絃はうんと頷いた。
「帰れますよ。いつも一人で帰れます」
強がっているように聞こえただろうか。自分で言っていても、なんだか寂しそうに聞こえてしまったような気がする。紳士は絃に向かってやんわりと微笑んだ。
「乙女の夜の一人歩きは危ないです。気をつけて帰ってくださいね」
あっさりした言葉に、絃はほんの少しの心細さと安堵が広がっていく。
「あの、今日は本当にありがとうございました」
軽い会釈とほほ笑みを返して、紳士は賑やかな喧噪の中に立ち去って行く。まるで似合わない姿に、絃はふふふっと笑ってしまった。
「面白い人」
絃は今いる場所からは反対方向、静かに夜に沈む昔ながらの町並みの中へ歩を進める。
マフラーに顔をうずめて冷気を遮断していたのだが、なんとなく空を見上げてみた。
急に温さが消えた頬と鼻が痛むが、それを我慢して息を吐くと、白い呼吸が夜の空気に溶けるように消えていく。
電信柱を繋ぐ電線の隙間から、星々がピカピカと光っていた。
「……あぶすき、美味しかった」
夜空の星は、あぶすきのてりてりの表面に映り込んだお店の照明に似ていた。
「また食べたい」
熱々のあぶすきに熱燗で手酌をしながら。黙々と、ただ黙々と美味しいだけを感じていたい。
あの甘ったるくて語尾がかすれる独特な声で紡がれる、うんちくじみた感想を聞きながらでも良い。
そう思いながら右手をぐーぱーすると、すぐさま寒くなってきてしまう。
火傷しなくて良かったが、もし怪我をしていたとしても、この寒さならば瞬時に冷えて治ったかもしれない。
それにしても外気が寒すぎて、絃は右手をすぐにポケットの中へひっこめた。
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