デイブレイク

第1話

「やっぱりさァ、ルールは守んなきゃいけないよな。それが俺らみたいな日陰者だったとしても。いや、だからこそか……」


 廃工場、密室、午前2時。部屋の中央に吊り下げられた麻袋には、質量がある。血と糞尿の混ざり合う饐えた匂いが充満し、床の血溜まりはまだ乾かない。

 積み上げたパレットに腰掛けた縁堂さんが指示を出すと、俺たちは吊り下げられたサンドバッグを金属バットで打ち据える。機械的な反復にくぐもった嗚咽が交じる。その中身が何であるかは、薄々察しが付いていた。


 縁堂さんは厳しい人だ。ダブルスーツをしっかりと着こなし、磨かれた胸元の代紋はいつも輝いている。背中に彫られた刺青と真っ白な左眼から『片眼の白鶴』と畏れられた嘗ての武闘派の現在は、組の新米を束ねる教育係だ。

 当時の俺は盃を交わしたばかりの18にも満たないガキだった。喧嘩とケチな犯罪に明け暮れた日々に終止符を打てたのは、カシラである縁堂さんの折檻と教育に依るものが大きい。病身の組長オヤジに代わって組を束ねる凄腕の極道は、債権回収キリトリ抗争カチコミもお手のものだった。

 今でも思い出す。“実習を兼ねた初仕事”と聞かされた俺が最初に行った行為が、この『サンドバッグ殴打』だ。


「お前ら、組のルール復唱しろ」

「ハイ、兄貴!!」


 親兄弟の言う事は絶対。

 罪なきカタギとヤクには手を出さない。

 組を裏切らない。


 シンプルにして、絶対の掟だ。どれも正しく、真っ当なものだと思える。

 俺たちはバットを振りかざしながら、その文言を声を張り上げて復唱する。麻袋の呻き声を掻き消すほどに、何度も、何度も。


「…‥よし、そろそろ頃合いか。袋から出せ」


 隣の新人が震える手でナイフを構え、袋の縛り口を切り落とす。重力に負けて血溜まりに落ちた麻袋から血と糞尿の混じった赤茶色の液体が漏れ出し、縁堂さんは小さく舌打ちをした。

 サンドバッグの正体は、逆さ吊りにされた半裸の男だ。舌を噛み切って死なないように猿轡を噛まされ、袋越しに殴られた箇所は赤黒く変色している。折れた鼻から出た血が行き場を無くして鼻腔に溜まり、荒い口呼吸でなんとか生命活動を維持していた。重力によって逆流した血液が頭部に集まり、その顔は河豚のように醜悪だ。

 同族だ。既に小指のない左手と背中の刺青を見て、俺は反射的にそう思う。


「殺すなよ。俺たちは脅しのプロであって、殺しのプロじゃない。そこを履き違えるな。これはあくまでも示威行為で、生きて帰すんだ。そっちの方が、俺たちのルールが広く伝わるんだよ」


 縁堂さんは煙草の煙を弄びながら、俺たちを一人ひとり順番に見定める。俺を含めた全員が顔を見合わせ、震えていた。

 今ならこの拷問の意味も分かる。これはルールを破った者に対する粛清で、俺たちへの教育だ。まだ“本物の暴力”の味を知らない俺たちへの、歴としたイニシエーションだ。

 縁堂さんが俺の右隣の奴に猿轡を外させると、吊り下げられたヤクザは俺たちを順番に睨み付ける。咽せるように口内の血を吐き出すと、嗄れた声で呪いの言葉を吐いた。


「こ、ころしてやる……全員、殺してやるからな……」

「“殺してくれ”じゃないところは、流石ヤクザだな。その気概だけは褒めてやるよ。爪と耳、どっちがいい?」


 ヤクザが不始末の責任として小指を詰めるのは、“拳を握れなくする”という意味があるらしい。その上で爪まで剥ぐとなれば、コイツは二度と暴力の舞台に立つことはできない。苦しそうに頭を振るヤクザにもう一度猿轡をさせるよう指示すると、縁堂さんは火がついたままの煙草を放り投げた。


「アンコウの吊るし切りってあるだろ? あれはまな板の上で捌きにくいアンコウを効率よく調理する為に生まれたものだ。逆さ吊りにされた人間も、痛みを感じると同じように身を捩る。生きる上で当然の反射だ。だから、殴るんだよ」


 立て掛けていた金属バットを手に取り、縁堂さんはソイツの顔面にフルスイングを見舞う。前歯が砕け、血の筋と共に冷たい床に転がった。その光景を見て微かに震えた俺の背に、縁堂さんの手が伸びる。


「お前、やれるよな?」


 手渡されたのは果物ナイフだ。日本刀やナタではなく、玩具のように刃渡りの小さなナイフ。人を痛めつけるにはこれで充分なのか、“これの方がいい”のか。その真意は、あの人だけが知っている。


「でも、俺、初めてで……」

「大丈夫だよ、誰だって最初の一回はある。俺が見守っててやるから、やれ」


 耳の奥に残るような粘り気のある、温かい声だ。その瞬間に俺が感じたのは、奇妙な安心感だった。


「自分に責任を持て。男になるんだ」


 縁堂さんから、認められている。あの強くて厳しい極道が、俺を一人前だと認めてくれている。

 隣の奴はプレッシャーに負けてゲロを吐いた。もう一人は、今にも失神しそうなほど脂汗をかいている。どっちも半端者だ。俺は違う。

 目を逸らしながら、一歩ずつにじり寄る。意識を失いかけている標的の視線が、俺の顔からナイフに移る。猿轡越しに漏れる呻きは、もう発せない叫びだろうか。


「ちゃんと前見ろ。手が滑ったらどうすんだよ?」


 赤く熱を持った耳の付け根に刃を添わせる。脱力し、自重で揺れる標的を前に、俺は小さく息を呑んだ。

 今までの喧嘩なんか遊びだ。今から俺が振るう力は、強者から弱者への一方的な蹂躙なんだ。


 ぶちぶちと音を立て、肉を断つ。失禁が床を濡らす。苦悶の叫びは、もう聞こえない。


 返り血に染まり、“部品”を掲げた。足元で転がる肉の塊は、未だピクピクと痙攣している。

 縁堂さんの満足げな笑みが、今でも脳裏に残っている。

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