はなさないでほしかったのは。
魚野れん
【上】 放さないでほしかったのは誰の手か。
セーレンは笑顔を取り戻したプラハトに案内され、コックピットへやってきていた。プラハトは嬉々としてその仕組みを説明していく。
「なので、ここにマスターが座ってくださるだけで良いのです」
「プラハト」
「何でしょうか? マスター」
小さく首を傾げるプラハトに、セーレンは言いかけた言葉を飲み込んだ。彼女が宇宙船なのだと分かっていても、見た目は少女である。何となく気が咎めてしまう。
たとえ、レープハフトに似ている、という理由だけでセーレンに笑顔を向けているのだと分かっていても――あの笑顔を曇らせるのは嫌だと思ってしまったのだ。
「僕は、セーレンって言う名前があるんだ。名前を呼んでくれたら、嬉しいな」
レープハフトの代わりにはなれない。本当はそう言いたかった。セーレンはただの人間である。たとえレープハフトのDNAを受け継いでいたとしても、レープハフトにはなり得ない。彼は既に人間としての寿命を全うし、目覚めることのない永い眠りについている。
彼は記録などの情報として残っているだけで、彼自身がプラハトのことについて、どんなことを考えていたのかなどがわかるものは存在しない。つまり、セーレンがレープハフトのことを理解するチャンスが、ほとんどないのであった。
「レープハフトも、名前で呼んでほしいと言っていましたね。やはり、特別な名前というのは大切にすべきなのでしょう」
うんうん、と物知り顔で頷いたプラハトは、セーレンに向けて笑顔と共に名前を送った。
「これで良いですか?」
「うん。良いよ。ありがとう」
セーレンには、それしか言えなかった。会話が成立しているようで、すれ違っている。セーレンは小さな悲しみを覚えながら微笑んだ。
そうして始まったセーレンとプラハトの日常は、ちぐはぐであるものの、セーレンさえ細かいことに目を瞑れば穏やかに過ごすことができるのだということが分かってきた。心穏やかに過ごせるのと、心をざわつかせながらも表面上穏やかな日常を送るのと、どちらが良いのだろうか。
セーレンは答えが出せないまま、日付だけが過ぎていく。
「セーレン、今日は素敵な景色が見れますよ!」
「何が見えるのかな」
「ふふ、目標到達まで秘密です♪」
機嫌よく人差し指を唇に添えて笑うプラハトに、セーレンは微笑みを返す。結局、セーレンはプラハトに強く出ることができないでいる。かみ合わない歯車をどうにかしたい気持ちはあるものの、どうすれば良いのか、人生経験の浅いセーレンにはまったく思いつかなかった。
操縦席にセーレンを座らせたまま、フロイラインは移動し続ける。ふと、唐突にフロントから光が差し込んでくる。星々や他の宇宙船が近づかなければ暗闇ばかりが広がっている宇宙空間において、これは珍しいことであった。
「これ……?」
宇宙空間内にオーロラのようなものが広がっている。
「ここは、大昔に星があった場所です。星は消滅し、いまではその名残だけがこうして美しい景色を見せてくれるのです」
プラハトが解説するその話は、確かセーレンが強制的にインストールされたデータにもあった。
「ここって、プラハトのことをフロスケルと呼んでいた女王様の――」
「そうです。人工惑星の跡地です」
かぶせる様に説明をしてくるのは、その過去に触れてほしくないからか。それともセーレンとは今の話だけをしたいのか。
「あの方は素敵な方でした。その八世代後が問題児でして。あっという間に、こんな姿に」
過去を振り返る彼女の目は曇っていない。むしろ、美しくも切ない景色を目に映して煌めいてすらいる。過去の話が嫌、というわけではないらしい。セーレンは流れに身を任せることにした。
「レープハフトと私が育てたあの子の生まれ故郷。本当は助けてあげたかったんです」
「でも、間に合わなかったんだよね」
「ええ。その通りです」
プラハトはそっと俯いた。また泣いてしまったのかと思った。が、顔を上げた彼女は平然としていた。
「結局、誰も私のところには残らなかったわけです」
「え……?」
「みんな、私の手を放してしまう。私は、放さないでほしかったのに」
いつの間にか、話が変わっていた。その不自然さに誤魔化されるところだったが、少女の表情が歪むのをセーレンは見逃さなかった。プラハトはメインディスプレイにそっと触れ、頬ずりをする。
「レープハフト、死ぬ前に何て言ったと思います?」
「えっと……」
この情報は渡されていない。レープハフトではないセーレンには、分かるはずのない質問だった。
「“お前を解放する。俺はもう、お前のマスターでも相棒でもなんでもない。ただの家族だ”そう言ったんです」
「ただの、家族」
レープハフトの言葉にプラハトはずいぶんと衝撃を受けたようだが、セーレンにはその意味が分かった気がした。レープハフトは、きっとプラハトのことを大切に思っていた。もしかしたら、愛しく思っていたのかもしれない。
だからこそ、宇宙船とその船長という関係ではないものになりたかったのかもしれない。あくまでもセーレンの想像でしかないが。
プラハトの発言から、まだセーレンが渡されていない情報がありそうである。それを受け入れることができたら、彼の感情を簡単に想像できるようになる可能性は、ある。
だが、少なくとも今は、完全に理解したとセーレンは口にできなかった。
「私は、マスターなしの宇宙船になってしまった。私は、ずっとレープハフトの宇宙船でいたかった。私は……ずっと、彼の所有物でいたかった」
プラハトがぽろりと涙をこぼした。彼女が悲しくする姿は観たくない。セーレンはすぐに立ち上がって彼女の涙を拭う。
「セーレン。あなたは、私のことを手放さないでくださいね?」
涙を拭う手を握り、プラハトが言う。セーレンを見つめてくるプラハトの目には、ひたすら悲しみだけが映っている。惑星の欠片が光を反射することで生み出した美しい景色が、プラハトのガラスのように透き通った瞳を艶やかな色へ変えている。髪色と同じようなシルバーグレイの目が、様々な色に輝いていた。
「約束をするのは、難しいよ。プラハト」
「なぜですか?」
「人間は、変化する生き物だから」
セーレンは、その場しのぎをせずにプラハトに向き合おうとした。頷いてくれると思っていたのだろう。プラハトの瞬き一つが、そして涙を一粒が、そのことを示している。
「僕はまだ大人になりきっていない未成年で、寿命がくるまで何十年もある。だから、その間に考えが変わってしまうかもしれないんだ」
プラハトが理解してくれれば良い。そう思いながら、セーレンは言葉を重ねる。セーレンの右手を握りしめるプラハトの手を、空いている左手で撫でる。そんなことをされると思っていなかったのか、彼女の手がびくりと震えた。
「僕は、プラハトに変な期待を持たせるようなことはしたくない。だから、約束できないよ」
「約束は、できない……」
迷子になった子猫の鳴き声のようなか細いそれに、セーレンは思わず意見を覆しそうになった。だが、それはできない。してはいけないことだ。セーレンがそれをしてしまえば、プラハトは今度こそ壊れてしまう。
精神を壊したアンヘンガーの行く末は、破滅だけである。破滅で済めばいいが、この宇宙船の破滅は宇宙船で生活している仲間たちの破滅でもある。そんな恐ろしいこと、セーレンは想像したくない。
「僕が、約束できるのはひとつだけだ」
「それは何ですか?」
「プラハトとちゃんと向き合うって、約束する」
セーレンは、プラハトが分かるまで根気よく言葉を重ねる。
「僕がプラハトの手を握ってあげても、きっとあなたは満足できない。あなたの心はずっとレープハフトを求めているから。手放されてしまったことを、悲しみ続ける限り。死んでしまったレープハフトを思い続ける限り、僕の手では満足できないと思う。
だから、僕はそんなプラハトから逃げずに、向き合うよ」
「セーレンは、やっぱり優しいです」
プラハトは悲しそうに笑い、セーレンの手を放した。
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