第5話

 それから、十五年後。


 日差しが傾いてきた午後、暖炉のある談話室で、私は十三歳になる娘のネリーへ、その話を聞かせていた。


 三十一になった私は、少しは大人びて、金髪の巻き毛は毎日ヘアケアを担当するメイドに美しく整えてもらっている。首元からつつま先まで露出のないデイドレスを着ても怒られないし、ヒールは苦手だから平たい底のパンプスを作ってもらって履いていた。


 私と一緒にカウチソファに座って、父譲りの黒髪を緩く三つ編みにした髪型を気に入っているネリーは、綿のワンピースドレスの裾からシルクのペチコートが出ていることにも気付かず、興奮して私にこう訴えた。


「お父様のプロポーズの言葉、直接的すぎない!? もうちょっとこう、雰囲気とかあるでしょう? なかったの!?」


 ネリーの気持ちは分かる、私も同じことを当時思ったから、ついうんうんと頷いてしまう。


 一方で、彼があの場ですぐにプロポーズをしなければいけなかった理由もあったのだ。


「あのころは、本当に切羽詰まっていたのよ。私があのままスネルソン伯爵家や他家に嫁げば、よほどのことがないかぎりもう助けられない。できるかぎり穏便かつ私の身を守りながら——となると、手段は本当に限られていたと思うわ」

「だからって……ありもしない不貞を理由に婚約破棄をさせて、そのままピアラスフィールド公爵領に連れ去るだなんて!」

「ふふっ」


 ネリーは面白いくらい大袈裟に天を仰ぐ。ピアラスフィールド公爵家令嬢として自由奔放に育ったネリーは、父親の血を濃く引き、本当に美しい少女に成長してくれた。


 ネリーの言ったとおり、あの日、私はアイヴァ公爵閣下こと今の夫であるピアラスフィールド公爵アイヴァ=サデウスと密通していたことにして、アンソニーの婚約破棄の意思を確認、その場に大至急召喚した弁護士と司教によって婚約破棄が成立したのだ。前例のない早さで私は次の婚約を成立させ、結婚のためと称してそのままピアラスフィールド公爵領に逃げ込んだ。それ以来、私は領地から出ることなく、結婚式を挙げて公爵夫人となった。


 まるで以前から企んでいたかのようなスムーズさで私とアイヴァの結婚が成立したものだから、余計に密通の話は真実味を帯びて人々の口の端に上った。あの日が初対面だというのに、だ。


 しかし、ネリーは勘が鋭い。


「……お母様、もしかして、だけど」

「何?」

「舞踏会のホールから抜け出して、その暖炉のある控室で……既成事実を作ったなんてことは?」


 私はにっこり微笑んで、肯定も否定もしなかった。


「さあ、どうかしらね?」

「作ったんだ」

「ふふふ。そんなこと、どうでもいいじゃない」


 ネリーがまたしても天を仰ぐ。彼女もしっかり、そういう機微を理解できる年齢になってきたようだった。


「でも、あなたたちのお父様は、ちゃんと私を愛してくれているわ。私は名義上の公爵夫人でかまわない、と言ったのだけれど、側室や情婦を作ることもないし」

「あー……ないわね、絶対。お父様はお母様にぞっこんだもの」

「馴れ初めはただの同情だったとしても、真面目で誠実な方よねぇ」


 私は夫の誠実さに本当に感謝している。


 世間知らずの貴族令嬢など、適当に嘘を吐いて騙し、遊ぶだけ遊んで捨てるような男性は身分を問わずごまんといる。しかし、アイヴァはそうではなかったし、むしろそのような人間を唾棄する性分だった。


 おかげで、私は公爵領にやってきて以来、現実がまるで変わってしまったかのように、穏やかに、暖かい暮らしが営めるようになったのだ。


「そういえば、ピアラスフィールド公爵領へ夜逃げのように馬車でやってくる途中、あの方はずっと抱きしめてくださっていたわ。泣きじゃくる私を誠心誠意慰めてくださったのよ」


 当時十六歳の令嬢にとって、家族を見捨てるかのような選択は、やはり重かった。立てなければならない未来の夫から離れていいと言われ、助けてくれたとはいえ見知らぬ男性と駆け落ち同然に逃げることは、心細かったのだ。


 とはいえ、当時四十三歳のアイヴァにとっては小娘を慰める程度容易いことだったのだろう。どう見ても二十代半ば程度の青年にしか見えないアイヴァだったが、その権力は王配殿下の義弟であり公爵であることからして——国内屈指の大貴族にふさわしいものがあった。私を守り抜くことも、私と家庭を築くことも、そして私の敵となる人々を駆逐することも、彼にはごく簡単なことだっただろう。


「ところで、スネルソン伯爵家って聞かないけれど、どうなったの?」

「ああ……没落したわ」

「やっぱり」

「どうも悪評が立って誰も嫁ぐどころか出入りしたがらなくて、結局伯爵の爵位は返上して鉱山事業の会社は残っているけれど、多分他家の手に渡っていると思うわ。それ以上のことは分からないけれど」


 要するに、そういうことである。私はアンソニーの行方など知らないし、誰もそんな話題を口にしたりしない。ビーレンフェン男爵家との繋がりも、姉と妹が時折遊びに来るくらいだ。二人は私が酷い目に遭っていたことなどほとんど知らず——忙殺されていた父母から忘れられていたのかろくに援助もなかったため、姉がこっそりと必死に働いて妹を学校に行かせていたのだ——互いにどうにも罪悪感ばかりで、謝ってばかりだった。それも少しずつ仲良くなり、二人ともビーレンフェン男爵家のために働くことを拒否して、しっかり独立した。男爵家もまた、私はその行く末を知らない。


 そうこうしていると、カウチソファの背もたれの後ろから、我が家の家長が姿を現した。


 御年五十八とは思えない、相変わらず艶やかな長い黒髪を垂らし、見事なシルエットを維持した礼服をまとったアイヴァがやってくる。


「何を話している」

「うわ! お父様! 帰っていらしたの」

「あら、お帰りなさいませ。今年も女王陛下はお元気でしたか?」


 年始の挨拶にと宮廷へ出仕していた私の夫アイヴァは、少し目元や口元にしわができたくらいで、やはり若々しい。


「無論だ。まったく聞いて呆れる、舞踏会に今年も存分に出るのだと張り切ってらっしゃるのだからね」

「お元気よねぇ。セナンお兄様も王配殿下のお供で狩猟によく連れて行かれているみたいだし」

「ご夫婦揃って健やかでとてもよろしいわね」


 ネリーの口にした「セナンお兄様」とは、私とアイヴァの十五歳になる長男で、今は王配殿下の侍従見習いとして宮廷で暮らしている。孫のように可愛がられているらしく、狩猟好きな王配殿下についていくために必死で馬術を鍛えているそうだ。


 そういうわけで、私はアイヴァとの約束を果たした。アイヴァの血を引く子どもが、今では四人もいる。これで、一生涯私の面倒を見てくれることだろう。前にそう冗談めかして言ったら、アイヴァは「……ん、まあそうだね」と頬を赤らめていたことを思い出す。


「ネリー、そろそろ家庭教師が探している時間帯だぞ。講義を受けてきなさい」

「もうそんな時間? お母様とおしゃべりしていると時間が経つのを忘れちゃうわ。それじゃあ、夫婦水入らずで過ごしてね」

「……ネリー」

「もう、ネリーったら」


 ネリーは身軽にソファから飛び起きて身を翻し、さっさと談話室から出ていってしまった。


 扉がバタンと閉まり、静かになってから——アイヴァは私の隣に座って、ゆっくりと私の肩に頭を乗せた。


「ふー……やはり君のそばが落ち着くな」

「あなたは本当に老けないのですね」

「そういう家系だ。若作りと陰口を叩かれているらしいが」

「それらしいことは何もしていませんものね。二十歳以上も年齢の違う私と結婚すると聞いて、皆様まずあなたの年齢に驚いていらっしゃったもの」


 それ関連の話は聞き飽きているらしく、アイヴァは「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。魔法も精霊もとうの昔になくなったこの世界で、唯一アイヴァだけが神秘性を保っているようで、どうにも私は誇らしい。


「若いころから私を熱心に口説く女性はいくらでもいたが、どうも誰一人食指が動かなくてな。だが、君を見てピンと来たんだ」

「まあ」

「このご令嬢との間になら子どもが欲しい、とね」


 もう、私は笑うしかない。この方は他に言うべき言葉が見つからないらしく、そんな原始的な、あるいは粗野とも捉えられかねない言葉で、今も愛をささやくのだから。


「好きですよ、アイヴァ様。いつもデートにお誘いいただけるのは、とっても嬉しいです。でも、少しは子どもたちを相手にしてあげたらどうでしょうか?」

「チェリーシャ。君は私の貴重なくつろぎの時間を奪おうと?」

「あなたはいつも私を抱きしめて眠るから、私は一日の三分の一以上の時間をあなたに独占されているのですよ?」

「むう、言うようになったな」

「ふふっ、あなたがたくさんのことを学ぶ機会を与えてくださったからです」


 この土地に来て、この身分になって、子どもができて、いつもいつも私は学ぶことがたくさんあった。教えてほしいと言えば誰もが親切にすべきことを教えてくれるし、学びたいことがあると言えば教え上手な教師を都合してくれる。


 おかげで、私は「愚かなチェリー」ではなくなった。一歩一歩、暗い世界にランプを灯して歩いていくように、私は知恵を蓄え、思考を広げてきた。


 誰かが手を引いてくれれば、愚かだ愚かだと言われてきた私でもここまで来られる。それがとても、嬉しかった。


 長男のセナンも長女のネリーも、愚かではない。次男と三男である双子のエーディンとフィオンも、その頭脳を買われて王立学校へ入学準備をしているくらいだ。彼らもきっと、誰かの手を引いていくだろう。


 すぐそばの、私を甘やかしてばかりの人の耳へ、私はつぶやく。


「ありがとうございます、あなた。お慕い申し上げております、いつまでも」


 その返事は、恥ずかしかったのか、頭をより重く肩へもたせかけることで済ませようとしたから、私は無理矢理唇を奪ってさしあげた。


 十五年経って、やっと年齢が釣り合うようになってきた気がした。




終わり。







☆★ ☆★ 閑話☆★ ☆★


 ——これはチェリーシャの娘ネリーが、父母の馴れ初めを聞いたそのときに思ったことである。


(お父様、ひょっとして薄幸そうなそういう女性が好みだった……? うわー、未亡人とか好きそうだわ)


 ——娘に己の性癖を正確に見抜かれていることなど、アイヴァもチェリーシャも想像だにしていないが、さしたる問題ではない。


☆★ ☆★ 閑話休題☆★ ☆★





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ご覧いただきありがとうございました。

続き書くかもしれません。

載せるところのなかった登場人物のスペル置いときます。


Ivor=Thaddeus

Piarasfield

Cheriesha Argyle=Knott

Beerenfern

Snellson

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婚約なんてするんじゃなかった——そう言われたのならば。 ルーシャオ @aitetsu

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