メインレース直前、最後の100円

雨水四郎

メインレース直前、最後の100円

 全財産が、100円しかない。


 阪神競馬場、15時25分。

 メインレースまであと10分。この100円以外は、その前のレースで全て溶かした。


 まあ、元々3000円しか無かったが。

 何なら、もう帰りの交通費もない。

 歩けない距離でないが、3時間はかかるだろう。


 だが、仕方なかったのだ。

 明日になればサラ金に5万は返済しなければならない。

 でも、金はない。

 そして、今日は日曜日。

 だったらもう、競馬しか無いのだ。俺にはそれしかないのだ。


「……そう思った結果が、コレかい」


 最初の何レースかは1レース500円を本命の人気馬、その単勝に賭けた。

 そこで少し増やしてから穴目の馬に賭けて大きく増やす算段だった。

 だが飛ぶ。飛ぶ。また飛ぶ。


 あっという間に軍資金の半分を失い、俺は半端にヤケになった。

 穴馬の流れだと言い聞かせていたが、なんのことはない。ただ自分が外したからそう思いたかっただけだ。

 今度は1レース300~400円を穴馬の複勝に賭けた。


 だがコレも当然ダメ。複勝に日和ったにも関わらず全く当たらない。

 俺が賭け始めた途端に1番人気の馬ばかりが勝ち始めた。

 なんなら迷って切った大穴の馬だけは3着に来る。


「アカンわ……ほんっまにアカン……」


 そして結果が、メインレースを前にしての残金100円だ。


「でもまだ、メインがある。コレだけは自信あるんや……」


 これ自体は嘘ではない。

 今日のメインレースに関しては、狙っている大穴がいる。

 しかもなんと、最低人気だ。


「パドックもエエ感じやったし、マイナス20kgはこの場合究極仕上げや……」


 言い聞かせるように呟く。

 俺が目をつけているシルバーオールド号は、2歳の頃にG1を取って大層期待されていた馬だ。

 だが、その後は勝ちに恵まれず、いつしか馬が衰えたのか、あるいはやる気を無くしたのか、全く走らなくなって、今ではもう8歳だ。

 終わった馬がいつまでも走っている。大衆の評価としてはそんなところだろう。


 でも、俺はそうは思わなかった。

 ここ何走か、かつての自分を取り戻そうともがいているように見えた。

 調子を落としてからすっかり最後方からの競馬が多くなっていたが、段々と前に位置取りするようになっていたし、前走に至っては逃げを打った。


 シルバーオールドは元々逃げ馬だ。G1を取ったときもそうだった。

 前走は結果こそ13頭中8着だったが、俺はそこに復調の兆しを見た。


 そして本日のメインレース、G3阪神杯だ。

 阪神競馬場開催週。つまり内の状態が非常にいい状態で、引いたのは2枠3番。

 枠としては最内でこそないが、逃げを打てば間違いなく最内をスムーズに回れる。そういう枠だ。


 しかも、今年のレースレベルは、おそらく低い。

 それこそ、何かがあれば、シルバーオールドでも馬券が狙えるかもしれない。

 そう思わせる不作さだった。

 ただし、図抜けて強い1頭を除けば。


 オーダーイチイだ。


 この馬は、そもそもこのレースが本番ではない。近いG1の叩きだ。

 だが、それでもはっきりと抜けて強い。

 オーダーイチイは昨年のクラシックを勝っている馬だ。

 怪我明けという事情はあるものの、はっきり言って他の馬が相手になるレベルではない。

 だから、本来であればメインまでに多少増やして、オーダーイチイを軸にシルバーオールドとのワイドを厚めに、あとはイチイと2番人気ダブルロックの馬連を買おうと画策していたのだ。


 でも、そういうわけにはいかなくなった。

 オーダーイチイとシルバーオールドのワイドは今およそ100倍程度。

 馬連でも350倍、つまり3万5000円だ。


「足りへん……」


 かといって3連系は当たる確率が低すぎる。

 それに最大限に確率が高い2番人気ダブルロックとの3連複だと450倍程度。ギリギリ足りていない。

 そして、足りていたとしても全部をサラ金に持って枯れて終わりじゃつまらない。

 であれば、答えはひとつだ。


「馬単しか、ないわ」


 1着シルバーオールド、2着オーダーイチイの馬単だ。

 調べたところ1500倍以上になっていた。


 時間は15時32分。出走まであと3分。もはや迷っている暇はない。

 急いで馬券を購入し、スタートのときを待った。


「頼む……。頼むで……。」


 そう祈っている間に、馬たちが続々とゲートに入っていき、そして、全頭が入ったところで、ゲートが開いた。


「ああっと、落馬! 落馬です!」


 実況が派手に叫んだ。


 最内の馬がスタートとほぼ同時に落馬。その隣の2番人気ダブルロックは大きく接触したのだ。

 ダブルロックは競争中止こそしていないものの、あからさまにやる気を失っている。


「嘘やろ……奇跡や」


 落馬した馬から2つとなりのシルバーオールドは大丈夫だ、影響を受けていない。

 むしろ内の2頭が脱落したことで、最内が空いた。

 いや、それどころか。


「ああっと逃げる! 3番シルバーオールド逃げる! まるであの頃のような大逃げだ!」

「よおおおっしゃ!! ええぞ菅ちゃん! そのままや! 離せェーーッ!」


 俺は思わず全力で叫んだ。

 獅子奮迅の大逃げ。これだ。全盛期のシルバーオールドというのはこういう馬だった。


「5馬身、6馬身、逃げる逃げる、折り返し800m地点でおよそ後続と8馬身差だ!」

「そうや! 離せ! 離せ! 離せェ!!!」


 そうだ、いまのうちに、できるだけ離さなければならない。

 このハイペースの中、最後方で不気味に抑える、あの馬が来る前に。


「3コーナー、ここで動いた! オーダーイチイだ! 昨年のクラシック覇者! 最後方からぐんぐん出てきた!」

「う、嘘やろ……?」


 モノが違う、そう思った。

 ごぼう抜き、という言葉が陳腐に思えるほどの加速。一応は同じG1ホースでも格が違う。


「残り200m直線に入って先頭は変わらずシルバーオールド! だがオーダーイチイが3馬身、2馬身差まで迫る!」


 アカン。まだ200あってこの差は抜かれる。

 しかもシルバーオールドはかなりバテてきているように見える。逃げ馬の宿命だ。

 一方で控えていたオーダーイチイは余力がまだある。


「頼む……ッ! 頼む!」

「残り100m、オーダーイチイが迫る、迫る! 勝利の命を受けた馬が、今度もその使命を果たすのか!」


 誰もがオーダーイチイの勝利を革新した、その時だった。


「だがまだ伸びる、シルバーオールドここで再度伸びる! 老兵の意地、ここにあり!」


 最後の数十m、今に抜かされるというところで、シルバーオールドが最後のひと伸びをした。

 老兵の意地とはよく言う。本当にそうとしか思えないような執念のひと伸びだった。


「ここでゴール! 一着はオーダーイチイかシルバーオールドか、微妙なところ! 写真判定に委ねられます」


 正直、俺にはオーダーイチイが差し切ったように見えた。少なくとも、シルバーオールドの勝ちはない。

 だが、オーダーイチイが差し切ったなら的中ならずで払い戻しゼロ。俺はおしまいだ。


「ハナ差、ない。ハナ差ないで……ハナ差ないで!!!」


 思わず叫んでしまう。ハナ差はない。完全な同着だ。そうであってくれ。

 同着なら馬単は両方のパターンが的中となる。

 払い戻し金はおそらく3分の1くらいにはなるだろうが、十分だ。ひとまず5万以上は残るはず。


「頼む、同着や。ハナ差はない、ハナ差ないで……」


 祈るように呟く。そして、無情にも掲示板には「ハナ」の文字が。


「1着、3番……?」


 3番、つまりハナ差はハナ差でもシルバーオールドが1着のハナ差だ。


「ハナ差、あったやんけ! あっていいハナ差や! やったああああ!」


 ほとんど泣きながら力のかぎり叫ぶ。競馬場といえど、周りの目が痛い。

 だが、そんなこと全然気にならなかった。


 払戻金、160,340円、最初の3,000円を勘定に入れても50倍以上だ。

 

 やっぱり俺には競馬しかない。心からそう思う。

 借金したのもそもそも競馬のせいだが、そんなことは関係ない。

 明日返す5万は所詮利子でしか無い、そんな現実も今だけは関係なかった。


 この勝った時の感動と、脳がしびれる感覚。何者にも代えがたい喜びだ。

 とにかく今日は焼き肉を食おう。それで、ちょっといい酒を買って帰ろう。

 俺は一気に暖かくなった懐に誇らしさを覚えながら、今年一番の笑顔で競馬場を出た。

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