内緒
新座遊
隠すのは森
「はなさないで」とベンチの横に座った妙齢の女性がこちらを向かず、こっそり言った。
見知らぬ女性だ。しかし俺にはわかる。こいつはエージェントだ。
情報機関の仕事は二種類ある。
防諜と諜報だ。
国内で敵国の諜報活動を防ぐディフェンスと、国外で敵国の情報を探るオフェンスだ。どちらも合法非合法両面を兼ね備えている。まあざっくり言えばスパイである。
大国は情報機関の重要性を本能的に理解しているので、そこに投じる予算は莫大なものであり、幾つかの組織が複雑に機能することで、外部に実態を把握させないように工夫もしている。
我が国のように、人口百万規模の都市国家だと、なかなか人材を集めるのが難しく、通常の仕事をしながら、副業で情報機関にも属している者が多い。
屯田兵的なスパイ、言ってみれば国民総スパイ国家と言っても良いだろう。だから、まああまり自覚はないが、俺もスパイなのである。
日本の一地方都市が、経済特区になり、海外と独自の関係性を築き始めた結果、日本からの独立と相成った。国連に加盟するために、様々な工作をした伝説のスパイマスターの話は小学校の道徳の時間に聞いたものだった。
俺はおそらく、この国の防諜側の役割を持っているはずで、国外の敵対勢力が国内で諜報活動するのを阻止あるいは無力化する生業である。
問題は、だ。俺もこの国の秘密が何なのか知らない点にある。知らないものを守るっていう無茶振り。
だから基本的には普通に暮らしていて、近所で何かしらの異質な動きを見つけたらアメーバ長に連絡をするくらいなものだ。
アメーバとは、情報共有のコミュニティ単位であり、誰がどのアメーバに属しているのかも判らない防諜組織の末端だ。それぞれ独自のSNSで連絡を取り合う。アメーバ長は、レイヤの一段上のアメーバにも属しているらしく、何段階か階層を経ることで国家中枢まで情報が届く、という按配らしい。
俺は、公園のベンチに座り、まだ満開には程遠い桜を眺めていた。犬の散歩の途中、ちょっと休もうっていう態度で。犬は、ベンチ横で寛いでいる。スパイ活動はさりげなく日常に埋没する。
実は俺は二重スパイなのである。
この国の国民ではあるが、日本国の国籍もあり、いわゆる二重国籍の立場だ。その為、日本の諜報機関にスカウトされた。
不定期に日本の工作員と接触し、情報を渡すのである。もちろんこの国の秘密を知っている訳ではないので、渡す情報に価値があるのかさっぱり判らない。
さて、冒頭に戻る。ベンチの横に座った女性は、「はなさないで」と言ったきり黙りこんだ。
話さないでと言われたからにはこちらから話しかけるのも難しい。もしかするとこのエージェントとの接触を監視している防諜アメーバが居るのかも知れない。
とは言え、このまま何もアクションを起こさないと情報伝達も出来ない。例えそれがどうでも良い情報だったとしても。
とりあえずきっかけを作るため、犬のリードをハーネスから外して、公園で自由に遊ばせることにした。犬は嬉しそうにしっぽを振り、俺の投げるボールを追ってベンチから離れていった。
「はなさないでって言ったでしょ」
女性が慌てたように俺を見た。
「犬嫌いなのよ」
「え?そっちの意味?」
ナゾめいたセリフには二重の解釈があり、立場や状況で意味が変わってくる。
この国はみんながスパイ。それぞれがお互いの立場を探りあい、相手を信じることもなく表面的な会話に本当の意味を潜り込ませる。だから嘘か信かを判断することも出来ない。
秘密を守るには、国民全員がスパイという状況こそが相応しい。木を隠すには、ってやつだ。
ハーネスの裏に隠した情報を、どうやって渡そうか、いやそもそもこの女性は日本国のエージェントなのか、無関係な市民なのか、あるいは別のアメーバに属した防諜員なのか、途方にくれるのであった。
内緒 新座遊 @niiza
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます