11-7. 水龍の償い
水龍の瞼が降りる。
そして川の流れにしばらく揺れた後、濃い藍色の瞳が、真っ直ぐにハルを見つめた。
『吾は、行く』
「うん。あ、そうだ。中の攻略が終わったら、どこに出てくる? 魔獣が中からたくさん押し出されると予想してる。それをここにいる人間で討伐するんだけど、アズリュシェドも参加する?」
あくまでなんでもない調子で、ハルは六堤に頼まれていた内容を水龍に尋ねる。
水龍は首を伸ばしてわずかに水面から顔を上げ、そして川原に集った
『……ここに、戻ろう。人の子らよ、吾が戻るまでは、その命、散らすでないぞ』
「は!」
野太い声が、一斉に響き、水龍が自分の声を彼らにも届けたことを悟る。
必ずここに水龍が戻り、魔獣たちとの戦いに参加するという約束。
今度こそ、人間たちを守るという務めを果たしに戻ってくる。
うんうんとやっぱりなぜか尊大な態度で、イーズは何度も頷く。
それを呆れた目で後ろから眺めながら、フィーダはじっと水龍の様子を見守る。
前回会った際に告げられた言葉が、胸の中で渦巻いている。
――お主はこれ以上は進めぬよ。
進む先は、どこを指しているのか。
この旅か、それともこの命か。
不意に、水龍の言葉が駆け巡る。
――人は、入れぬ。入ってはならぬ。定めに導かれぬ限り。
この世界に定めがあるのならば、それは何なのか。
見落としているものがある気がする。
女神に創造された龍。
彼らには使命――定めがある。
龍以外に、定めがある存在とは――
「フィーダ?」
口元を押さえ、眉間に皺を寄せるフィーダの名をメラが呼んだ。
思ったよりも響いたその声に、ハルとイーズも振り返る。
だから、その瞬間の訪れに気付くのが、一瞬遅れた。
雨が止む。
空から、太陽の光が降り注ぐ。
濡れた大地を照らした。
『吾は行く。吾の務めを果たしに』
「ああ」
行ってらっしゃいと言おうとしたハルの口が止まる。
顔を上げたままハルを見つめる龍の輪郭が、徐々にぼやけていく。
代替わりが始まる。
一千年に一度。
全ての魔力を解放し、そして新たな器に入る儀式が。
『龍の務めは果たされる』
「そう、だね」
霞のように朧げになる龍の体。
その奥から響く声。
強い意志を孕んだ声が、頭を揺さぶる。
ハルは、ふらりと手を前に伸ばした。
『龍の
柔らかな水に包まれて、ハルは眉を寄せる。
体を覆うその水が、涙の滴のように頬を伝った。
『勇者の咎を拭う日が来た』
「え?」
水が体を覆い、地面を覆い、そして空気中に溢れる。
水が、一方向に引っ張られ始める。
重力に逆らえない万物の法則のように、その魔力は全てを制圧した。
「ハル! 離れろ! 逃げるんだ!」
遠くから、フィーダの焦った声が聞こえる。
ハルは霞のような意識の中で、ふわりと笑う。
なぜ、この心地よい水に逆らうのか。
ここは、ひどく懐かしい。
温泉のような、温もり。
温かな泉に抱かれる。
母の胎の中で子を包む水のように、
命が生まれるその瞬間まで寄り添う母の水のように。
全てが優しい世界。
「――ハル!!」
強い光が、爆ぜた。
光が作り出す影の中から、何本もの黒い紐がハルの体に絡みつく。
「行っちゃだめ!」
イーズの声が届いた。
行く?
どこへ?
ハルは体を震わせる。
自分を照らす光が、体に巻き付いた闇魔法が、ハルの意識を引き戻した。
顔をつたう水を拭い、そして風魔法で体に染み込んだ水を弾き飛ばす。
「くそ、やられた」
強く噛んだ歯の隙間から、低い声が漏れる。
周囲に水魔法の魔力が溢れている。
どういう原理か分からない。だがハルの意識が水龍に引っ張られる。
濃霧のように広がる水の中、片方だけ光る水龍の藍の目を睨む。
「おれは、勇者じゃない。償いは必要ない」
『勇者はただの異界人への呼び名よ。そなたは、確かに勇者だ』
視界が白く染まる。
見えているのは、水龍の瞳とイーズの光魔法だけ。
いや、もう一つ。ハルの体に絡みついた闇魔法。
それは幾重にも重なり、そしてその端は白い空間に消えている。
まさか。
ハルはその行方に向かって叫んだ。
「イーズ、放せ! 魔法を消すんだ!」
この魔法は、イーズに繋がっている。
水龍がしようとしていること――それが、ハルを腐海に引きずり込むことだとしたら、イーズも無事ではいられない。
手を伸ばし、そこにあるはずの闇魔法に触れる。
しかしハルの手は、虚しく黒い帯をすり抜けた。
焦るハルの耳に、穏やかなイーズの声が聞こえる。
「ダメです。一人で行くのは許しません。約束です。ずっと一緒だって。
だから、ハル、置いていかないで」
震えるイーズの懇願。
胸を締め付けるその声に、ハルは強く目をつむる。
何が正解か分からない。
この先に何があるのかも分からないのに……なのに、心が揺れる。
置いていくことはできない。
戸惑いは一瞬で消える。
覚悟はすぐに決まった。
正面の龍を睨みつけたまま、ハルはイーズに向けて冷静に告げる。
「イーズ、こっちに来れるか? 離れていると危ない」
「はい」
河原の石を踏みしめる音が、右後方から聞こえてハルは体をそちらに向ける。白い視界の中に僅かに映った人影に手を伸ばした。
すぐに、イーズがハルの腕の中に飛び込んできて、ぐはっとハルの肺から空気が漏れる。イーズの軽く握った手が、力なくハルの胸を叩いた。
「ごめん」
「バカ」
「うん、ごめん。闇魔法、強くしておいて」
「はい」
二人を繋ぐ闇魔法が、二人の体を強く縛った。
ハルは腕の中のイーズの頭をしっかりと抱え、そして龍に向けて口の端を上げて笑う。
ここはハッタリでも強がりでもいい。自分たちの意思の強さを見せつけてやる。
白い世界の中の、龍の目が細くなった。
『勇者よ、その務めを果たせ』
「知らねえよ。俺は、俺たちの旅を続けるだけだ。その先が腐海にあるなら、行ってやる」
「美味しいお肉があったら、尚いいです」
「イーズ、ここはもうちょっとシリアスに」
「腐海の中ってドロップでしょうか。それとも丸ごとでしょうか」
「……どうだろね」
腕の中でくすくすと揺れるイーズの頭を、ぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
ハルの背中に回ったイーズの震える腕が、ぎゅっとハルを抱きしめた。
軽口は、恐怖をごまかすため。こんな時に意地を張らなくてもいいのに。
ふうっと息を吐き、ハルは遠くから聞こえるフィーダの声に耳を傾ける。
周囲に溢れる魔力に、ノイズがかかったように遠い。
ハルは霞みそうになる意識を繋ぎとめ、頭の中でフィーダとメラに呼びかけた。
(フィーダ、メラ、ごめん。俺たち、行かなきゃ)
(ハル!? おい、ハル! イーズ! 戻ってこい!)
(ダメなんだ。水魔法が使えない。周囲の水は全部水龍の物だ。俺は逃げられない。風魔法で飛ばしてもすぐに制御が奪われる)
(ハルが行くなら、私も行きます。大丈夫です。絶対に戻ってきます。
メラ、フィーダの事、お願いします。私たちの大事な人です。メラも、気を付けてね)
(イーズ? 行っちゃだめ!)
(メラ、頼みがある。魔獣が減った時で良い。一歩だけでもいいから腐海に入って。
そうすればきっと、伝達スキルが俺たちとつながるはず。メラが頼りだ)
(……分かったわ。約束する)
(ありがと。でも無理はしないで)
(それはお前らだ。無茶苦茶だろ!)
(フィーダ、ごめん。ここから先は、俺たちの仕事だ)
(絶対にまた会いましょう。水辺のおうちで)
最後のイーズの声が、霞む。
視界が白く染まる。
まるであの日、あの夏の日のエレベーターの中のように、白い世界が広がる。
吸い込まれるように、落下するように、体が浮遊感に包まれる。
そして、イーズは温かな魔力が胸元で弾けるのを感じた。
強い風が吹き荒れ、何日も降り続いた雨を弾き飛ばす。
それは大河フェラケタニヘルの流れすら、一瞬押し留めた。
そしてまた水が川底を覆い始める。
全てを白く染めていた霧が晴れ、陽の光が雨で濡れた河原に降り注ぐ。
だが、そこにいたはずの水龍も、水龍と対話をしていた二人の姿も見つかることはなかった。
【後書き】
――第三部 完――
読んでくださりありがとうございます。
第三部第十一章 最終話となります。
今回、この章にサイドストーリーはありません。
この話と同時に第三部の後半の人物一覧を掲載しています。
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