どうぞ悔いのない人生を ―令和死神噺―

ももんが

第1話 あなたの寿命はあと10年

 熊田八郎55歳、独身。その男は閉店間際のスーパーマーケットに入ると、まっすぐお惣菜コーナーに向かった。

 やった、まだある。残りは少なく、選べる種類は限られていたが、まばらに並ぶパック詰めのお惣菜には、みな半額シールが貼られていた。

 ところで割引セールには罠がある。「30」という数字だけみて30%引きと思うのは早計だ。ただの30円引きだったりすることもあるからだ。

 「その点、半額はいい。見間違えることないし、なにしろ半額だしな」

 熊田は半額のちくわ天とひじきの煮たのを無事に手に入れ、ふぅと心を落ち着かせた。第1目標達成。それから野菜売り場に向かい、キャベツの値段が150円以下なのを確かめてからカゴに入れた。

 「キャベツは炒めてもいいし、煮てもいい。生で食べても悪くない。栄養もそこそこあるらしい」

 キャベツはお得な野菜だと思う。本当はほうれん草も欲しかったが、あろうことか1束で200円を超えていた。熊田は値札を一瞥しただけで通り過ぎ、早々にレジに向かった。今日はこれで十分。

 熊田はお金に困っているわけではなかった。高給取りではないが、新卒で入った会社で働き続け、勤続年数は30年を越える。役職はリーダー。一般的に言えば係長くらいだろうか。同年代の友人にはすでに社長や取締役になっているものもいるが、バイト暮らしのやつもいる。このご時世に決まった月給をもらえて、会社でいじめにもあってない。そこそこマシな人生ではないだろうか。

 熊田は悪く言えばケチだが、本人としては倹約家と言って欲しかった。子どもの頃からの習慣というか、1日10円のお小遣いを10日使うのを我慢して、100円のお菓子を買う。貯まったお金で大物を買うことに喜びを見出すタイプなだけなのだ。

 しかし熊田は、その「貯めるスパン」が年々長くなっていることを自覚していた。最後に大きな買い物をしたのはいつだったろう。40歳になる年に5万円の自転車を買ったのが最後だったかもしれない。それも買うのに2年くらい悩んだ。

 外食はほとんどしない。旅行にも行かない。旅行が嫌いなわけではなく、むしろ好きな方だと思う。しかし仕事が忙しかったというのもあるが「今じゃない」という気持ちが増すようになっていた。仕事のことが気になって旅行に集中できないのが嫌なのだ。

 「定年を過ぎて、それまでにお金も十分に貯めて、なんの憂いもなくなってから遊びたい」

 いつ頃からか「定年を過ぎるまで我慢」というのが熊田の行動原理になっていた。

 熊田は六畳と四畳半の1DKの部屋に帰ると、まずスーツを脱いで部屋着に着替えた。ユニクロで買ったスウェットの上下は、買ってからすでに10年になろうとしている。まだまだ使えると熊田は満足していた。

 キッチンに戻り、冷蔵庫から発泡酒を出して一気に飲み干す。倹約家の熊田の唯一の楽しみと言ってよかった。ああ、今日も普通の日だった。何事もなく過ごすことができたことに感謝しよう。

 それから休日に炊いて冷凍しておいたご飯を解凍し、買ってきた惣菜を温め、トレーに乗せて自室に運んだ。そして「ほえぁっ!」と変な声を出して、ひっくり返りそうになった。

 自分が座るはずのちゃぶ台の前に、見知らぬ男が座っていたのだ。

 熊田は何かを言おうとしたが、口がぱくぱくと動くだけだった。 泥棒か? 強盗か? 泥棒も強盗も同じようなものか。いやそんな話じゃない。いつの間に、どうやってこの部屋に入ったんだ? 声を出せ。声を出せ。警察……携帯電話は脱いだ服のなかで、ベットの上だ。玄関は自分の背中側。そうだ、とりあえず逃げよう。外に出るんだ。しかし足に力が入らない。これが足がすくむというやつか……などと思ったとき、

 「どうもはじめまして。私、死神と申します」

 と男が言った。


 「いやどうも驚かせてすみません。あれこれ驚かせない方法を考えたのですが、それだとどうもうまくいきそうにない。なのでこうさせてもらいました。どうかご勘弁ください。それで今日伺ったのは、ちょっと聞いてほしい話があるからなんです」

 その男は正座をしたまま、やたら丁寧に話をした。普通なら何を言っているかわからない話だ。しかし奇妙な納得感が急に押し寄せてきた。

 この男は本当に死神かもしれない。いや、死神かどうかはわからないが、この世のものではないのではないか。それは直感のようなものだった。泥棒や強盗といった生々しいものではなく、お化けの類と言われたほうが納得がいく……。

 熊田は逃げるよりも、この状況を理解しないままこの場を離脱する方が余計に不安になるだろうと思った。正体を把握できないほうが気持ちが悪い。ただしそれらを自身で認識できているわけではなかった。

 熊田はようやく「しに、がみ?」とだけ言葉を発することができた。

 「はい、そうなんです。こうしてお目にかかっておりますがこの世のものではありません。また驚かせては恐縮ですが、今ちょっと消えて見せますから、それでどうか信じていただければと思います。それでは3、2、1」

 と言った瞬間、確かにぱっと消えた。熊田があっと思った次の瞬間、死神を名乗る男がまた目の前に現れた。

 「どうもこんな具合でして」と男は口籠り、ちょっと俯いた。何やら照れているようにも見えた。

 恐怖というのは未知のものに出会ったときに起こる心理現象だ。それが例えば「襲ってくる」とか「怒鳴る、恫喝する」というようなことがなければ、次第に恐怖は落ち着いてくる。

 確かに今、目の前で超常のことが起きている。しかし男は、死神を名乗る男の紳士さに一種の安堵感さえ覚え始めていた。

 「それで……どういったご用件で」

 と、自分でも間抜けに思える言葉が口から出てきた。この状況を受け入れていいのかという自問が頭のなかで渦巻いていたが、何かしら自分から言葉を発しない限り、状況が進まないように思えた。

 「どうもどうも、ありがとうございます。私が言うのは何ですが、私が座っていて貴方が立ったままというのも恐縮です。お盆を持ったままというのも何ですし、ちょっと腰をかけてくだいませ」

 そう言われて熊田は初めてトレーを握りしめたままの手がしびれていることに気づいた。我ながら晩飯をひっくり返してはもったいないと、無意識下で努力していたことに情けなさも感じた。死神を名乗る男……死神から目を逸らさぬままキッチンテーブルにトレーを置き、椅子を引き出して座った。

 「ありがとうございます。それでは話を始めさせていただきます。単刀直入に申し上げますと、貴方、65歳で死にます」

 「え?」

 熊田は今度こそ何を言われたのかわからなかった。無意識のうちに今の自分の年齢を65から引いて、残りは10あることを計算していた。

 「え、俺あと10年で死ぬの? 何で?」

 「何でと言われましても困るのですが、寿命でございます。人の寿命というのは生まれたときから決まっておりまして、本来なら死ぬその時までわかるものではありません。ですが今回は少々わけがありまして、貴方には特別にお知らせに参った次第なのです」

 「え、何で?」

 と熊田は先ほどと同じ言葉を繰り返した。しかし死神はその質問には答えなかった。熊田の顔をじっと見つめ、

 「貴方が亡くなるのは65歳の大晦日、夜10時でございます。どうか安心してください。痛みや苦痛はありません。突然死のようなものです。私はこのあと消えますが、これが夢でない証に、あなたの足の裏に星型のあざを残しておきましょう。どうぞ悔いのない人生を……」

 と言い、両手をついて頭を下げたかと思うと、こつ然と消えて、もう二度と現れなかった。

 熊田はしばらく呆然としたあと、冷めた晩ごはんを冷蔵庫にしまい、その代わりに発泡酒をもう1本開けて飲んだ。その後、風呂にも入らずに寝た。

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