血涙ー守られなかった者の涙ー
六散人
守られなかった者の涙
生まれた時から貧乏だった。
母子家庭だから仕方がないと、いつも自分に言い聞かせていた。
父の顔も名前も知らないし、知りたいと思ったことは一度もなかった。
母は、昼はスーパーで働き、夜は小さなスナックのカウンター嬢をして、懸命に私を育ててくれた。だから母には、ありがとう、無理しないでという気持ちしか湧いてこない。
学校では、貧乏という理由でよく虐められた。それが理不尽だということも分からないまま、いつも教室の隅で、小さくなっていた。
高校には進まなかった。多分地元の公立高校に行っても、また虐めに合うだろうし、そもそも高校に進む理由が、私には思い浮かばなかったからだ。特に勉強ができた訳でもないし、将来何かしたいことがあるかと訊かれても、まったく思い浮かばなかった。
「高校くらい出たら。お金のことなら心配しなくていいよ」
母はそう言ってくれたが、私は首を縦に振らなかった。
――自分の人生って何なんだろう?
辛いことがあると、いつもそう思っていた。
誰も私や母のことを守ってくれない。
学校の先生も、近所の人も、役所の偉い人も、国の偉い人も。
私は、生まれて一度も、誰にも守られなかった。
母は一生懸命私を守ろうとしてくれたのかも知れないが、その母自身も誰かに守ってもらわなければならい、弱い立場の人だった。だから私のことを守り切れずにいたのだろうと思う。
この先私には、社会の隅っこでいつも周囲に怯えながら、小さくなって生きていく人生しか待っていないのだろう。そう思うと、胸の中には絶望しか湧いてこなかった。
死のうとは思わなかった。死ぬのが怖かったからだ。
中学を出た私は、母が務めるスナックのお客さんの紹介で、町工場に勤めることになった。
初めて社会に出た私は、緊張のせいか、仕事をしても失敗することが多かった。すると、「どんくさい奴だな」とか、「ちゃんとしろよ」とか、周囲の先輩たちからよく叱られた。
中には、何も教えてくれずに作業をさせて、私が失敗するのを待っているような、意地悪な人もいた。
――ここも学校と同じだな。
そう思って、私はますます暗い絶望の中に沈んで行った。
そんなある日。
私は昼休みの時間に、クドウという人に呼び出された。
その人とは、これまで仕事で一緒になることもなかったので、どうして自分が呼び出されたのか、訳が分からなかった。工場脇の車止めに行くと、クドウという人と、他に二人の男の人が立っていた。そのうちの一人が、いきなり私の腕を引っ張って、地面に転がす。そして尻もちをついた私の前にクドウという人が進み出てきて、ズボンのファスナーを下ろすと、おチンチンを引っ張り出した。
「おら、しゃぶれよ」
クドウは怖い顔で私を睨みながらそう言った。横の二人はニヤニヤ笑っている。
私は何が起こったのか分からず、頭が真っ白になった。
助けを呼ぼうと思ったが、恐怖のあまり、声も出ない。
その時。
呆然と見開いた目の端に、人が通る姿が映った。確か、『ジュン』と呼ばれている人だった。
私の目線に気づいた一人が、ジュンさんの方を見て、不味いという顔をする。そしてクドウに向かって、
「クドウさん。ジュンの奴がこっち見てますよ」
と言った。それを聞いたクドウも、ジュンさんの方を見る。そして、
「工場長にチクらねえように、絞めとくか」
と言うと、踵を返してジュンさんの方に歩いて行った。後の二人もそれに続く。
私は、「逃げて」と叫ぼうとしたが、声が出ない。
ジュンさんに近づいていったクドウが、彼の肩を小突くのが見えた。
――ジュンさん、殴られちゃう。
私がそう思った時、信じられないことが起こった。
ジュンさんが、クドウたち三人を、あっという間に殴り倒してしまったのだ。
そしてジュンさんは、クドウの前にしゃがみ込んで何か言っている。クドウは酷く怯えているように見えた。
私は慌てて立ち上がると、ジュンさんの方に駆け出した。
ジュンさんが立ち上がると、三人は慌てふためいて逃げて行く。
私は工場に向かって歩き出したジュンさんの背後から、「ジュンさん」と声が掛けた。
すると彼は、怪訝な顔で振り返る。その顔を見た私は、頭が真っ白になって、
「助けてくれて、ありがとうございます」
というのが精いっぱいだった。
「別に気にしなくていいよ」
そんな私にジュンさんは言った。初めて聞いた彼の声は、とても静かで暗かった。
ジュンさんが再び工場の方に歩き出したので、私は慌てて彼の横に並ぶ。
そして彼の横顔を見上げ、自分の名前はユキコと言い、今年中学を出て、この工場で働き始めたといった、そんなどうでも良いことを一方的に話していた。ジュンさんの顔を見ると、私の話にまったく興味がなさそうだったが、それでも止めろとも言わず、聞いてくれているようだ。その時私は、自分の馬鹿さ加減が、急に恥ずかしくなった。
「私、バカなんです。どんくさくて、いつも周りの足手まといで。相手にされなくて。だからさっき、ジュンさんに助けてもらって、本当に嬉しかったんです。ありがとうございました」
私はあまりの恥ずかしさに、慌ただしくそう言うと、その場から逃げるように走り出していた。
工場に戻っても、家に帰っても、彼のことで頭がいっぱいだった。
――何で自分は、こんなにジュンさんのことを考えているんだろう。
夜、布団の中に入ってからも、ずっとそのことを考えていた。
多分今日、生まれて初めて誰かに守られたからだろうと、私は考えた。ジュンさんは、単にクドウたちに絡まれてやっつけただけなのかも知れないが、それでも結果的に、私は彼に守られたのだ。そのことが嬉しくて、私は一晩中興奮して眠れなかった。
翌日から、工場の中でジュンさんを見かけると、その姿を目で追うようになっていた。それで集中力を欠いた結果、失敗をして先輩怒られることもしょっちゅうだった。それでも以前ほど暗い気持ちになることはなかった。
工場で見かけるジュンさんは、いつも一人だった。誰かと共同で作業している時でも、一言もしゃべらずに、黙々と作業をしていた。休憩時間もいつも一人だった。
――ジュンさんは、どうしていつも一人なんだろう?
そのことが知りたくて、何度も話し掛けようとした。でも結局勇気がなくて、声を掛けることも出来ずにいた。それでも何故か、私は幸せだと思うようになっていた。
しかし、そんな私の細やかな幸せは続かなかった。
週明けの朝礼で工場長から、絶望的な話を聞いたからだ。
週末にジュンさんとクドウたちが喧嘩をして、ジュンさんがオートバイに撥ねられて、重傷を負ったというのだ。クドウたち二人が死んだと、工場長が言っていたが、そんなことは耳に入らなかった。
――私のせいだ。私のせいで、ジュンさんが。
何が起こったのか、混乱した私の頭ではまったく理解できなかったが、そのことだけは、はっきりと分かった。自分を守ったせいで、ジュンさんが大怪我をしたのだ。
私はその場に泣き崩れていた。
ジュンさんが入院したのは、警察病院だった。何とか面会できないかと思って問い合わせたが、救命センターという所に入院していて、面会は出来ない状態だということだった。そのことが彼の怪我の重さを表していると、私にも理解できた。
私は何もせずにはいられなくて、周囲の人に聞いたり、新聞のニュースを必死で探したりして、ジュンさんに起こったことを知ろうとした。
ジュンさんは、工場の休みの日にクドウたちに襲われたらしい。
そしてあいつらに反撃して、クドウともう一人を殺してしまったようだ。その後、残った一人がオートバイでジュンさんを撥ね飛ばして、瀕死の重傷を負わせたのだ。
事情を知れば知るほど、私は絶望に包まれて行く。
「別に気にしなくていいよ」
たった一度だけ聞いた彼の声が、何度も何度も頭の中を駆け巡っていた。
結局私は、工場を辞めてしまった。
まともに仕事など出来る筈がないと思ったからだ。
突然工場を辞めて家に引きこもった私を、母は何も言わずに心配そうに見ているだけだった。
しばらく経って、家でぼんやりテレビを見ていると、ジュンさんが警察病院を退院して、拘置所という所に移されたというニュースが放送された。彼の事件は発生当初、地元ではかなり大きなニュースとして取り上げられていたので、その後追いのニュースだったようだった。
そのニュースを見た私は、居ても立っても居られなくなり、アパートを飛び出した。気が付くと警察署に行って、ジュンさんと面会させて欲しいと、必死で懇願していた。私のあまりの必死さに困惑したのか、対応してくれた中年の警察官が、今は取り調べの最中で面会は出来ないが、少し経ってから拘置所に面会の手続きを出せばよいと教えてくれた。
その日から私は、毎日のように警察に問い合わせ、ジュンさんの取り調べがいつ終わるのか尋ねた。あまりにしつこいので、担当の人に呆れられる程だった。そしてジュンさんの取り調べが終わったことを知った私は、すぐに拘置所に出向いて、面会の手続きをする。
しかしジュンさんは、私の面会を拒絶した。何度も手続きをしたが、その都度担当の人から、彼が誰とも面会しないと言っていることを伝えられただけだった。
私は途方に暮れてしまい、また家に引きこもってしまった。
そんなある日、ジュンさんの裁判が始まることを、母が教えてくれた。
母は何も言わなかったが、私のことをずっと気にかけてくれていたのだ。母に心配をかけて、本当に申し訳ないと思った。
母は、裁判というのは誰でも傍聴することが出来ることや、裁判に日に裁判所に行って、傍聴券というものを貰わないと、中に入れないということも教えてくれた。
ジュンさんの裁判の日。
私は早朝にアパートを出て、裁判所に行った。早く行って並ばないと、傍聴券というものを貰えないことがあると、母から聞いていたからだ。私は1番の傍聴券を貰うことが出来たが、何となく気後れして、法廷の一番後ろの席に座ることにした。
そしてジュンさんの裁判が始まり、制服を着た人が押す、車椅子に乗ったジュンさんが法廷に入って来た。随分と痩せてしまった姿が、とても痛々しかった。
彼は一瞬こちらを見たような気がしたが、私には気づかなかったようだ。
裁判が始まり、色々な人がジュンさんに質問したが、彼は淡々と訊かれたことに答えるだけで、自分を守るような言葉は一切口にしなかった。そのやり取りの中で、ジュンさんが一生自分の足で歩くことが出来ないことを知った私は、胸が締め付けられるようだった。
その後も何度か裁判は行われ、判決が言い渡される日が訪れた。
判決は、懲役15年だった。
それを聞いた私の中で、何かが爆発した。
――私のせいで、ジュンさんが15年も刑務所に。
――私のせいで、ジュンさんは一生歩けない。
――私のせいで。私のせいで。
気が付くと私は法廷を飛び出して廊下に蹲り、号泣していた。
私の両眼から、血の涙が滴り落ちていた。
その後、どうやってアパートまで帰ったのか、まったく覚えていない。そのまま私は死んだように、畳の上に蹲ってしまった。胸の中は、真っ黒な絶望で一杯だった。
――どうしたこんなにも切ないのだろう。
――どうしてこんなにも苦しいのだろう。
――どうしてこんなにも悲しいのだろう。
そんな思いが、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。
翌日母が、シズさんを連れてアパートに戻って来た。シズさんは、母が務めるスナックの経営者の人で、ママと呼ばれていた。シズさんとは何度か会ったことはあったが、何故母が今日彼女を連れて来たのだろう。私はぼんやりと思った。
シズさんは私の前に座ると、落ち着いた声色で話し始めた。
「ユキちゃん。あんたの母さんから、話は聞いてるよ。ジュンっていう子は、気の毒だったねえ。でもね。それはあんたのせいじゃない。あたしも、あんたのことが気になって、店のお客さんに色々と訊いたんだよ。みんなが言ってたよ。あんたに悪さをしようとした三人組は札付きの悪で、どうしようもない奴らだったんだそうだ。だから、あんたのことがなくても、遅かれ早かれジュンっていうことは悶着になっていた筈さ。運が悪かったんだよ。そんな連中に目を付けられて」
私はシズさんの言っていることが理解できなかった。
――運が悪い?
そんな言葉で、ジュンさんの悲惨な運命を片付けて欲しくない。
そう思った私が、顔を上げて何か言おうとするのを、シズさんは遮った。
「あんたの母さんはね。あんたが壊れてしまうんじゃないかって。ずっと心配してるんだ。あんたの体だけじゃなくて、あんたの心がね」
――私の心…。
その言葉が、私に刺さった。
あの日。ジュンさんに助けてもらったあの日。私はどうしてあんなに嬉しかったんだろう。
あの頃私の心は、絶望で壊れそうだったんだ。
それをジュンさんは守ってくれたんだ。
私の心が壊れてしまわないように。
ジュンさんには、そんなつもりはなかったのかも知れないけど。
でも、ジュンさんのおかげで、私の心は壊れずに済んだんだ。
だから私は嬉しかったんだ。
今まで誰にも守られなかった私の心を、ジュンさんだけが守ってくれたんだ。
だから私はこんなにも、ジュンさんが愛おしいんだ。
私の中を何かが駆け巡る。
「だからね。辛いと思うけど、母さんのために、そのジュンってこのことは忘れなさい。これから15年も刑務所に入るそうじゃないか。出てくる頃には、あんたのことなんて忘れているかも知れないじゃないか。あんたはその子のことを好きなのかも知れないけど、待っていたって結婚なんて出来ないかも知れないじゃないか。ずっと待っていたって、幸せになんかなれないと、私は思うよ。あんたは自分の幸せを考えなきゃ。そうじゃないと、ジュンって子も報われないじゃないか」
私は、シズさんの言っていることは違うと、はっきりと思った。しかし口をついて出たのは、お礼の言葉だった。
「シズさん、ありがとう。私分かったよ」
「そうかい。それは良かった。あんたと話した甲斐があったよ」
シズさんは、そう言って私の肩を軽くたたく。そして立ち上がると、部屋を出て行った。母も彼女を見送るために後に続く。
残された私は思った。
シズさん。シズさんが私のことを真剣に思って、今日来てくれたのは分かるよ。
でもシズさんが言ってくれたことは、多分間違っていると思う。
間違ってはいるけど、シズさんは、私が気づいていなかったことに気づかせてくれた。
私はジュンさんと結婚したい訳じゃない。幸せになりたい訳じゃない。
私は、私の心が壊れてしまわないように、ジュンさんに守って欲しいんだ。
だから、ずっとジュンさんと一緒にいて、私の心を守って欲しいんだ。
そうするために、私は何をしたらいいんだろう?
それから私は、再び仕事を始めた。そして定時制高校に通い始めた。
時間はかかったが、高卒の資格を得た私は、介護の専門学校に通い始めた。生活は苦しかったが、夜はシズさんに頼んで、彼女の店で働かせてもらった。昼は勉強し、夜は働く生活はとてもきつかったが、辛いとは思わなかった。
漸く私は、自分が生きている意味を見つけたからだった。
そして15年が過ぎて、その日が来た。
私はジュンさんを出迎えるために、刑務所の前にいた。扉の前に立ってよいかどうかわからず、少し離れた場所で、扉が開くのを待っていた。
1時間ほど経った時、扉が開いて、中から車椅子に乗ったジュンさんが出て来る。
その瞬間私は走り出していた。
前に立った私を、ジュンさんは不思議そうに見上げていた。前より少し小さくなったように見えた。
私はしゃがみ込んで、動かなくなった彼の両足に縋りつく。気が付くとぽろぽろと涙を流していた。
「ジュンさん。お帰りなさい」
そう言った後、私の胸の中の思いが爆発する。
「ジュンさん。本当にごめんなさい。私のせいでこんな体になって。それに15年も」
そこまで言って、私は絶句してしまった。
「あんたのせいなんかじゃないよ。俺が勝手にやったことだし。それにあいつらとは、元々因縁があったんだよ」
15年前と同じ静かな声が返って来た
その声を聞いた私は、袖で涙を拭って立ち上がると、車椅子の後ろに回って押し始める。
するとジュンさんは驚いたような顔で私を仰ぎ見た。
私は涙をぽろぽろ流しながら、まっすぐ前を向いて車椅子を押して行く。そして言った。
「私、ジュンさんのことを待ってました。ジュンさんが、下半身不随になったと聞いて、一生懸命働いて、一生懸命勉強して、学校にも行って、介護士の資格も取りました」
――ジュンさん、きっと私のこと、バカと思ってるよね。
だから私は、精いっぱいの声で、思いをぶつけた。
「言ったじゃないですか。私バカだって。だから私、これからずっとジュンさんと生きていきたい。いえ、ずっとジュンさんと生きていきます」
その言葉を聞いたジュンさんは、俯いてしまった。体が小刻みに震えている。
その時ジュンさんが、「ユキコ」と小さく呟いたような気がした。
その声を聞いて私は、人生で二回目の、血の涙を流した。
了
血涙ー守られなかった者の涙ー 六散人 @ROKUSANJIN
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