第3話 出会い
パチッ、となにかが弾けた音を聞いて目が覚めた。
近くに焚き火の残骸があって、これの音かと納得する。燃え残りらしい炭の中に、小さな赤い火がちろちろと揺らめいている。
空は薄明るかった。ひんやりとした空気がどこからか流れてくる。寒さに身震いする。早朝の空気を感じた。
眠い目をしばたたかせながら体を起こすと、かけてあった毛布がずりおちて素肌が露出した。
えっ、裸? なんで?
焦りながら薄い毛布を手繰り寄せる。顔の近くまで毛布をよせると、獣くさいような独特の臭気が漂った。
この毛布と焚き火は誰が用意したんだろう。
近くを見回すと、焚き火の向こう側に人がいた。横になったまま動かない。眠っているんだろうか。
ぱっと見た外見で女の子のようだとわかって少しほっとする。色素の薄い金色の髪と、革で作られたような見慣れない服装が目についた。
この子が助けてくれたのかな。他に人のいる感じもしないし。
女の子の近くには私の着ていた服が並べて置いてあった。
とにかく裸のままでは落ち着かない。毛布を身体に巻いて立ち上がり、寝ている女の子を起こさないようにそーっと近づいて私の服を手にとった。
少し湿ってる。
濡れていたから、この女の子が乾かしてくれたのかもしれない。
湿ってるけど、着られないほどじゃない。
少しひんやりするけど裸のままよりはずっとよかった。服を着るとようやく人心地がついた気がした。
女の子はまだ眠っている。
声をかけようかどうしようか迷いながら、私は女の子のそばに腰を下ろした。
すやすやと安らかな寝息が聞こえる。寝顔はずいぶん幼く見えた。私よりも年下かもしれない。というか、びっくりするくらい可愛い。肩くらいまでの長さの金髪に整った顔立ち。お人形か妖精かってくらい現実感がない。
陶器みたいにきれいなほっぺに、煤かドロみたいな汚れがついている。私はそれが気になって指で拭った。
女の子のまぶたがピクリと動く。目が薄く開いて、寝ぼけたような表情で私の顔を見た。
寝顔を見ていたのが後ろめたくて、どきっとしながら声をかける。
「あ、えっと、おはようございます」
女の子はしばらく私と目を合わせたあと、そのまま何も言わずに目を閉じてしまった。
また寝ちゃったのかな……? と思って顔を覗き込んだ瞬間、女の子が跳ねるように体を起こした。
――ゴッ
鈍い音をたてて私と女の子の頭が激突した。
目の前に火花が散った。後ろに倒れて尻もちをついた。おでことお尻が痛い。
女の子を見ると、おでこを押さえながら私を睨みつけている。
「うう、痛い……。なに、何なの? あなた誰? なんでわたしの部屋に…………あれ、ここ外? ああ、そっか。あなた昨日の……」
女の子はキョロキョロと辺りを見回すと、急に我に返ったように姿勢を直しながら「なんで寝ちゃったのかしら」とつぶやいた。
「コホン……。気がついたのね。身体は大丈夫?」
「あ、はい。なんともないです」
女の子は「そう、よかった」と言いながら落ち着きなく視線を私の首から下の方に送り、落胆したように肩を落とした。
「あ……なんだ。服着てるんじゃない」
「え?」
私が聞き返すと、女の子は慌てて首を横に振った。
「ち、違うわよ。そういう意味じゃなくて、干しておいた服が乾いてよかったって思っただけだから。あと誤解しないでほしいから先に言っておくけど、濡れた服を脱がせたのは体を冷やさないようにと思ったからで、全然見てないし変なことはなんにもしてないから!」
前のめりな声の大きさに気圧されながら私は曖昧に返事をした。
「はあ……。変なことってなんですか?」
「し、知らないわよ! っていうか、なに言わせようとしてるのよ!」
「ええ……」
なぜか怒られた。わからないから聞いたのに。
あ、そんなことより、助けてもらったのにお礼も自己紹介もしてなかった。
「あの、あなたが助けてくれたんですよね。ありがとうございます。私、
「べ、べつに。たまたま通りがかっただけだから。助けただなんて大したことはしてないわ」
女の子が少し照れたようにはにかみながら額の汗を袖でぬぐった。頭の上からかすかに立ち上る湯気が見える。
「まだ朝なのにずいぶん暑いわね」
そう言いながらぱたぱたと手で顔をあおいでいる。
「私には肌寒いくらいですけど……」
「そうかしら。わたしはクリス。あなたの名前、珍しい響きね。この辺では聞かない感じだわ」
「そうですか……?」
私にとってはクリスという名前のほうが珍しいというか、身近にいる感じはしない。
クリスが尋ねてきた。
「そういえば、あなたこんなところで何をしていたの? 町からはずいぶん離れてるし、普通の人が来るような場所じゃないと思うんだけど」
「それが、家に帰る途中で道に迷ってしまったみたいで」
「ふうん。この近くに住んでるの? それならアルメイリアかしら。ちょうどわたしも帰るところだけど。まさかコートランの方じゃないわよね」
クリスの言った地名らしきものは、私にはどちらも聞き覚えがなかった。というか、こんな森の中を通るようなところに住んでいた覚えはない。私の家は――ええと、あれ?
思い出せない。
待って。順を追って遡れば思い出せるはず。熊に追いかけられて……その前は……そうだ、なんだか古い遺跡で寝ていたんだっけ。
私、なんであんなところで寝てたんだろう?
そのあたりで、確か……光る大きな石を見たような気がする。
なんとか思い出せたのはそこまでだった。それよりも前のことは夢の中の出来事みたいにぼやけてしまっていた。
「私、どこから来たんでしょうか……」
「わたしに聞かれても知らないわよ……」
私はこれまでのことを、かいつまんでクリスに話した。
「記憶がないって……記憶喪失ってこと? 大変じゃない」
「そう、大変ですよね。でも、なんだか実感がわかないんです」
「のんきね……。わたしもこの辺りの地理にはそれほど詳しいわけじゃないけど、そんな遺跡は知らないし、聞いたこともないわね」
「川に流されてきたので、もっと上流のほうだったのかもしれません」
「そういえばあなた、滝から落ちたって言ったけど、この川に大きな滝なんてひとつしか……。まさか、あれのことじゃないでしょ?」
クリスが送った視線の先には、壁のようにそびえたつ灰色の崖があった。
ここからはかなり距離があるようなのに見上げるほどの高さがある。その崖のてっぺんから、白い糸のような滝が流れ落ちているのだった。
落ちたときに見た景色の記憶と照らし合わせると、ぴったり当てはまるような気がする。
「あ、あれです。きっと」
「そんなわけないでしょ。あんなところから落ちて生きてる人間なんていないわよ。あんた怪我ひとつしてないじゃない」
「それは……。確かにそうですね」
とは言ったものの、落ちたときの感覚とか見えた景色からすると、やっぱりあの滝のような気がする。
でもクリスの言うことももっともで、滝から落ちて無事だった理由がわからない。なんだろう。すごく運が良かったとか?
……………………ん?
川の向こう岸になにか動くものが見えた気がする。森の中に……いた。黒くて大きな影が動いている。
まただ……。
あの真っ黒な二つの目には見覚えがある。私に襲いかかってきたクマだ。
「どうして、こんなところにいるんですか……」
「なに? …………うそ、あれヒトクイグマじゃない! しかもかなりの大物。ふうん……あんなのが居たのね。森が騒がしくなるわけだわ」
まさか、ここまで私を追いかけてきた?
獲物を奪われたクマはしつこく追ってくると聞いたことがある。でも私はクマの獲物に手を出すようなことはしていない。それは間違いない。
いや、でもばっちり目があってるしなあ……。
クマの見分けはつかないけど、これは同じクマのような気がする。
どうしよう。逃げ場がない。なにより悪いことは、ここにいるのが私一人じゃないということだった。私が襲われたら、クリスが巻き添えになってしまう。
「悪いけど、話はまたあとで聞かせてもらうわ。まずはあれの相手をしてくるから、あんたはここで――」
私は立ち上がり、クリスに言った。
「逃げてください!」
「――は?」
「あのクマ、たぶん私を追いかけて来ちゃったんです。私の近くにいると巻き添えになってしまいます!」
「ちょっと」
「私ができるだけ引き付けます。その隙に逃げてください。大丈夫、これでも私、運は良いほうなんです」
そう、滝から落ちて助かるくらいには。
「いやだから話を――」
「さあ、クマさん! 私はこっちです!」
引き留めようとするクリスの声をふりきって私は走った。クマは私だけを見ているようだ。それでいい。
あとは、できるだけクマを引きつけて私が逃げ切れればいい。でも……どうやって?
考えなんてなんにもないけど、クマが川を渡ってくる間に森の中へ隠れてしまえば逃げ切れるかも!
ここまでなんとかなってきたし、今回もきっとうまくいく。そう信じるしかない。
クマが走ってくる。巨体を揺らしながら、四つの足がどかどかと地面を叩きつけている。まっすぐ川に突っ込んだ。水しぶきが何メートルも高くあがった。
川の中をざぶざぶと走って進んでくる。陸の上を走ってるのと大して変わらないスピードだった。
クマに背を向けて必死に走る。重い足音がどんどん近づいてきている。
あと少しで森に――
「あっ」
浮き石に足をとられてつまづいた。ばんざいの姿勢でべちゃりと川原に倒れる。
起き上がろうとする私の影を、大きな黒い影が覆い隠していった。
追い付かれた。
倒れた姿勢のまま首だけで後ろを向くと、真っ黒なクマがいた。前足を上げてクマパンチを振りかざした姿がスローモーションのようにゆっくりと見える。
あ、これ、もうだめかも……。。
でも、あの子、クリスが逃げて無事でいてくれれば、私の命も無駄じゃなかったっていうことになるんじゃないかな――
風が吹いた。
反射的に目をつぶった私は、クマパンチの衝撃を覚悟して身を固くした。
――どさっ
なにか重いものが地面に落ちるような音が聞こえた。クマパンチはいつになってもやって来なかった。
「………………?」
閉じたまぶたを開くと、日の光が目に入ってきた。
眩しさに目を細める。
「まったく。どこが大丈夫だっていうのよ。あと一歩わたしが来るのが遅かったら大変なことになってたわよ」
私の目に映ったのは、横たわった巨大なクマと、剣を握ってその上に立つ小さな女の子のシルエットだった。
「クリスさん……?」
金色の髪が、後光のように朝日をあびてきらきらと輝いている。
クリスはクマの上から軽快に飛び降りると、私に向かって手をさしのべた。
「サクラシホ……だったわよね。怪我はしてない?」
私はうなずいて、癖のあるイントネーションで私の名前を呼ぶクリスの手をきゅっと握った。
「シホでいいです。シホって呼んでください」
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