キングスマン

「はなさないで」


 少女の言葉に男は戸惑いを隠せない。


 状況が把握できずに困惑する。


 今日、男は死を決行しようとした。


 つらいことがあったからではない。


 むしろ、何もなかった。


 何もなさすぎたのだ、自分の人生には。


 世界を祝福したくなるような幸運に恵まれたこともなければ、神を呪いたくなるような不運に見舞われたこともない。


 ただ坦々と、公園の片隅で転がりつづける枯れ葉のような毎日。


 それが四十九年、繰り返されてきた。


 同世代の成功者を妬む感情や、落ちぶれた者を見て嘲笑う感覚もいつしか消えてしまった。


 年を重ねるとはそういうものだと受け入れていた。


 しかし、どうやらそうではなかったらしい。


 それは何の予告も前触れもなくおとずれた。


 ある日、ゲームが楽しくなかった。


 飽きたのかな、と思った。


 気晴らしに映画を見た。


 面白くなかった。


 好きな作家の漫画や小説の新作が、突然ただのチープな作り物としか受け取れなくなった。


 何を食べてもおいしくない。


 そして何もしなくなった。


 非生産的というより、不生産的な日常。


 鬱病。


 自律神経失調症。


 自分の症状を偉大なるインターネットにたずねてみたところ、そんな答えが表示された。


 ネットは嘘をつかないので、きっとそのどちらかなのだろう。


 どんなにつらい状況にあっても人は想像の中では自由だというメッセージは、まるで呪詛のように社会に蔓延している。


 間もなく五十歳を迎える男は知っている。


 想像の世界にも賞味期限はあるのだ。


 中年と呼ばれる年齢になっても、男は少年時代からの想像を持続していた。


 正義のヒーローとなり、悪を倒す物語だ。


 いつしかそれは、彼の唯一の娯楽となっていた。


 数日前から、それができなくなってしまった。


 頭の中に映像が再生されない。自分を持ち上げるためだけに生成されたキャラクターたちが現れてくれない。


 ついに、自分の妄想すら自分で操れなくなってしまった。


 男は決意した。


 そうだ、死のう。


 子供のころから好きだった近所のお好み焼き屋とタコ焼き屋で、お気に入りのメニューを注文して、最後の晩餐とする。


 夏の夕暮れ。


 乗用車やトラックが衝突すれば即死できる速度で行き来している。


 頃合いをみて道路に飛び込もうとした。


 そこで少女に抱きしめられた。


 一瞬、自分の動きに不信感を覚えた警察に抑止されたのかと思った。


 ところが、自分を抱きしめる柔らかさと、相手の髪から流れる甘い香りで、そうではないと気づく。


 制服を着た、あどけない少女。見知らぬ少女。


 中学生なのか高校生なのかわからない。


 生物的な本能なのか、生命を放棄したくないという無意識の本音なのか、男は少女を抱きしめ返していた。


 あきらかに不審者の行為だと思い、手を離そうとすると、少女は大きな瞳で見つめながら言った。


「離さないで」と。


 理解できなかった。


 どういうことだ?


 もっとも、お互いで抱きしめあっているこの状況で自分だけ手を離したところであまり変化がないのは確かだが。


 しかし、この子は何がしたいのか?


 それをたずねようと、口を開きかけると「話さないで」と少女は男を制した。


 何も言わないで、わかるから、とでも伝えるように。


 もしかして、この子は自分を救おうとしてくれているのか?


 こんな価値のない命でも輝ける道はある。それを見つけることから逃げるな。


 そういうことを言いたいのか?


 もちろんそれは男の妄想でしかなく、実際そのとおりだった。


 突然、悲鳴を上げる少女。


 こちらに注目する道行く人々。


 ここでクイズです。あなたは道を歩いています。近くから少女の叫び声が聞こえたので見てみると、制服を着た少女が中年の男にからまれていました。一体これはどういう状況でしょう?


 少女は男にだけ聞こえる声でこうささやいた。


 財布をくれたら助けてあげる、と。


 男は理解した。


 なるほど。きっとこの少女はこれを生業にして金銭を得ている賞金稼ぎのような存在なのだろう。


 ふいに、男は本来の目的と過去の自分の妄想を思い出した。


 男は少女を抱きしめたまま、歩道から道路に飛び込んだ。


 仰向けに倒れる男の上で、彼の腕に拘束されている少女。


 離して、離して、と暴れるものの、力に差がありすぎる。


 男は少年時代からの妄想を現実にしようとしているのだ。


 悪は、倒さなければ。


 男はこうささやいた。


「はなさないで」

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