【KAC20245】約束
下東 良雄
朝気
早朝、五時半。
駅近くの雑居ビル群に朝日が射している――
戸神風俗街の朝は早い。
住宅地からも近いこの風俗街。どの店も住民たちとの共存共栄を目指し、法律遵守で営業をしている。また、過激で派手な看板や外装は無くし、客寄せや声掛けなども行っていない。そのため、一見普通の雑居ビル群にも見えるのだ。
サーッ サーッ サーッ
そんな早朝の雑居ビル群の通りを、ほうきで掃除している金髪で短髪の若い黒服姿の男がいた。
「ふあぁ〜……んー……っと!」
大きなあくびをひとつ、そして大きな伸びをもうひとつ。
個室で女性が男性にサービスする店舗型ファッションヘルス、いわゆる「箱ヘル」の従業員だ。店の名前は『私立ラブラブうっふん学園』。あまりにセンスレスな名前である。従業員は、朝六時からの早朝営業に向けて、準備中のようだ。
そんな雑居ビル群の通りの向こうから、ひとりの女の子が走ってきた。
タッタッタッタッタッタッタッ がばっ
「のわっ!」
ちょっと小柄だけど、出るところは出ているショートカットの女の子に、いきなり抱きつかれる金髪従業員。
「兄ちゃーん、おはよぉー!」
「ま、真奈美! こら、離せ!」
「はなさないよぉー、あははははは!」
「オマエは朝っぱらから元気だなぁ……」
と言いながらも、ぽよぽよしたものが背中や腕に当たり、まんざらでもない金髪。離さないでほしいところだが、真奈美はこの店の「嬢」なので、従業員が手を出すことはご法度だ。
「ほれ、もう離れろ」
「はぁーい」
ちょっと不満気に身体を離す真奈美。
「ほら、真奈美。仕事のルールの確認だぞ」
「うん!」
「はい、じゃあオレに続いてください!」
「はぁーい!」
真奈美は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
金髪も笑顔を浮かべて、真奈美と向かい合う。
「客にはどうする?」
「楽しんでもらう!」
「楽しませるのは?」
「ルールの中で!」
「ホントのエッチは?」
「絶対ダメ!」
「客がお願いしても?」
「絶対ダメ!」
「客がしようとしたら?」
「大声出して、緊急ボタン!」
「いいお客さんには?」
「ありがとう! また来てね!」
「はい、よくできました!」
真奈美に拍手を送る金髪。
とても嬉しそうな真奈美。
「真奈美」
「ん?」
金髪は、真剣な面持ちで真奈美の顔を覗き込んだ。
可愛らしい真奈美の笑顔が眼の前にある。
「無理してないな?」
「うん、大丈夫だよ!」
「辛い時は正直に言わなきゃダメだからな?」
「はぁーい!」
にっこり笑う金髪。
「OK! 今日も一日頑張って!」
「兄ちゃんもねぇー!」
手を振りながら雑居ビルに入っていく真奈美。
金髪も笑顔で手を振り返した。
「きんぱっちゃん、おはよぉ〜」
気怠げな声に振り返ると、色っぽい黒髪ロングのお姉様がいた。
店でも人気の「嬢」である尚美だ。
「あっ、師匠。おはようございます」
頭を深く下げる金髪。
尚美の額に青筋が浮かぶ。
そのまま金髪の両頬をつねる尚美。
「ひたひでふ……(痛いです……)」
「その師匠ってのはやめろって言ったよね」
「ふひはへん……(すみません……)」
「アンタ、私をどう見てんの?」
「けはいほははん……(ケバいオバサン……)」
尚美は今年三十六歳であった。
そんな尚美に「オバサン」は禁句だ。
両頬をつねる力が強くなり、そのまま手をぶんぶんを振り出す。
「ひてててててて!」
「誰がケバいオバサンじゃ、このクソガキ!」
「きへいなほねえはまてふぅ!(綺麗なお姉様ですぅ!)」
実際、尚美は美人である。
にっこり笑って、すっと手を離す尚美。
「はじめからそう言いなさいよ、きんぱっちゃん」
金髪の頬が少し腫れている。
ケンカしているわけではなく、毎朝のコミュニケーションである。
金髪が本気でオバサンと言っていないのは、尚美も分かっているのだ。
「あっ、尚美姉さん」
「ん?」
「今日、真奈美も出勤日なんですよ」
「うん、そう思って私も出勤日を合わせたのよ」
優しく微笑む尚美。
「真奈美のこと、お願いしますね」
「うん、大丈夫よ。きんぱっちゃんは優しいね」
「姉さんこそ」
「じゃあね」
尚美は、手をひらひら振りながら雑居ビルに入っていった。
金髪が通りに目を向ければ、通勤で駅へ向かうサラリーマンの姿がパラパラと見え始めた。
「さて、ひとが増える前に掃除をやっちゃいますか。早朝サービスの準備もしなきゃだしな」
朝日を浴びて髪をキラキラ輝かせながら、金髪は通りの掃除を急いだ。
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