初恋 Ⅱ
「李
先の帝、つまりは夫の父の代から後宮にて頭角を現し、ついに天子の起居を記録する務めを授かった李季青は、
本当の名で誰かを呼ぶのは、父母や天子などの目上の人間でなければ到底許されぬ無礼である。窈児とて、真名である
この後宮だけでなく、宮廷の影の支配者とも囁かれていた――それゆえに己の父とは敵対していた傑物の突然の訃報に、皇后は反射的に問いかける。
「まさか、お父さまなの!?」
疎かにできぬ皇后の務めとして、過日顔を合わせた際、彼は健康そのものだった。とすれば、最もありうるのが暗殺である。そして、暗殺を企てた者として誰もが真っ先に疑うのは、政敵たる己の父に違いなかった。
夫たる皇帝は、教育係の一人でもあった李晴を、良くも悪くも信頼していた。故に即位してすぐに、帝の行動を諫める知諫院・同知諫院の位すらも、彼に与えたのである。その李晴を、下手な手段で排除しては、何氏の存亡すら危うくなる。全く、なんという真似をしてくれたのだ。
――成偉お兄さまはあの子を溺愛しているわ。だけどわたしがいなくなったら、この後宮で誰が龍宝を守るというの?
小づくりだがふっくらとした唇を噛み締め、愛児と己が生き残る術を模索していた皇后の意識を、老女の絶叫が揺るがす。
「……それが、
これは祟りだ。
「……お前、今、何と言ったの?」
表情を消した面で戯言を繰り返す老婆の顔を覗き込むと、震えが一層大きくなった。
「も、申し訳……」
「いいわ。もう下がりなさい。わたしの目の前から、永久に」
「――娘娘!」
お許しください。婆やが間違っておりました。どうか、どうかお慈悲を……。
木霊する哀訴を一顧だにせず、皇后は室から出る。
「李晴の亡骸が発見されるまでの経緯と、発見された際の状況を教えて。今把握できている限りでいいから。まずは、今回も“五行怪事”に当てはまるかどうかよ」
そうして皇后に相応しい衣服が集められた室で、己の髪を梳く女官に問いかけた。
「は、はい! 娘娘のご明察の通りです!」
五行怪事とは、当時は皇太子であった夫に窈児が輿入れしてすぐに巻き起こった事件を皮切りに始まった、一連の怪異の総称である。
第一に、厳
第二に、第一の事件のすぐ、今もなお再建が進んでいない
第三に、
万物は木火土金水の五種の元素からなると語る五行思想において、水は冬と黒に、火は紅に、金は白に結びつく。一つ一つの事件ならば、ただの偶然として処理されたかもしれない。しかし、五行との関連もあからさまな異常が立て続けに発生したため、いつしか三つの事件は「五行怪事」となり、万民の恐怖を煽っていたのだった。これは土徳の国である堉を滅ぼさんとする亡霊の仕業に違いない、と。
けれども窈児は五行怪事についての飛語を信じてはいなかった。皇后としても、堉帝たる
きっと、また騒ぐ者が出てくるだろう。残りは土だけなのだから、なおさら。しかし、自分だけは揺らいではならない。窈児だけは、あの方の潔白を信じなければならないのだ。
まだ赤みの残る目蓋は白粉でごまかし、皇后として恥じる所など一切ない衣裳で武装する。後宮においてはあり触れた容姿の、小柄な窈児が他を律するには、装束で威圧するしかないのだ。
「とてもお美しいですわ、娘娘」
差し出された鏡に映る自分は、装いの力もあってか並み以上には美しくなっていた。もっともどんなに手を尽くしたとて、己を絶世の美女になどできるはずがないのだが。
「ありがとう」
須臾の唇の端に偽りの苦い笑みを浮かべる。すると女官も、安堵したように口の端を緩めた。
「じゃあ、行くわよ」
しかし、次の瞬間、まだあどけない面立ちの女官は、口をぽかんと開いてしまって。
「一体、どちらに……? まだ朝餉も済んでいませんのに」
「李晴の亡骸が発見された場所に決まっているでしょう?」
窈児の記憶が正しければ、この女官は何一門とは無関係の――父の息がかかっていない者であるはずだ。ごく普通に宮中に召し上げられ、たまたま紫華宮に配属されただけの。だが己が知らぬうちに、取り込まれているかもしれない。だから情報の真偽は、この目で見分けねばならないのだ。
「早くしてちょうだい。道案内をしてくれないと、行くべきところにも行けないわ」
李晴は下女が――女官とは異なり、正式な位を授かっていない者たちが暮らし雑事をこなす区画で発見されたのだという。皇后になるべく迎えられた窈児には、どこにあるのやら想像すらできない場所だった。
人が殺された恐ろしい房になんて、と怯える女官を叱咤しつつ、緑香しい苑を急ぐ。今だけは、幾度となく己を苛んだ花柘榴の朱すらも目に映らなかった。
「――こ、こちらが近道です!」
夫の妃やその配下に見咎められ、後にいかな悪口の的になろうが、知ったことではない。未だ子のいない女たちの、空閨に耐え兼ねての負け惜しみに傾ける耳など、窈児は持ち合わせていないのだから。
窈児は日ごと非業の死を遂げた貴公子を祀る廟に赴いている。けれども裏を返せば、日課をこなす折ぐらいしか体を動かしていないのだ。深窓育ちの窈児では、市井育ちの女官の健脚についていくのがやっとだった。
皇帝を除く男子禁制の後宮であるが、李晴が謎の死を遂げた直後だ。天子に直属し内廷を守る内殿直たちのいかめしい姿が、あちらこちらを飛び交っていた。曲者が潜んでいないか、探索しているのだろう。
人影を察知し、細い背を伸ばした皇后は、しかし直ちに頭を垂れた。
「窈児。どうして君が、こんなところに」
「李どのの身に起きた不幸が事実か、己の目でも確かめたく。我が父が主上の右腕ならば、李どのは左腕ですもの。
それで、李どのは……。
言外に、皇帝として把握している全てを教えてくれと促すと、夫は心細さを隠しきれていない声を絞り出した。
「いいんだよ、窈児。僕のことは普段のようにお兄さまと呼んで、普通に喋っておくれ」
「そのような軽挙に及ぶわけには参りませぬ。群臣の目がありますもの」
夫である成偉はいつもそうだ。
苛立ちを押し殺しつつ面を上げる。庇護者を喪った若き帝の瞳は、不安に揺らいでいた。
「宮廷に上がってすぐの、右も左もわからなかった妾には、あの方のお導きがどんなにありがたかったことか。ですが妾の悲しみとて、主上の悲しみには及びませぬ」
画が巧みで風流を解するものの、政治はからきしの夫の代わりに、国を支える柱の役目を果たしていたのが李晴である。無論、柱は彼だけではなかったのだが。
重責を果たす見返りとして、強大な権勢を誇った李晴は、夫の
「……僕はこれから、どうしたらいいんだろう」
幼子でもあるまいにみっともなく涙ぐんで独り言ちた夫に、皇后は慈愛の笑みを向ける。
「何事も我が父にお任せください。父は主上をお支えするために、恐れ多い位を拝命したのですから」
だからあなたはこれまで通り、本業に勤しめばよいのです。――などという本音は念入りに覆い隠す。
「主上のご心痛を和らげるためにも、まずは李どのに手を下した不届き者を捕らえねばなりませんわね。さあ、陛下。この不肖の妻に、事のあらましを教えてくださいまし。さすれば妾が、父とともに万事御心に適うように取り計らいますわ」
「ありがとう、窈児。でも、僕にも良くわからないんだ。それにこんな話を、幾ら気丈で聡明だとはいえ、女である君に打ち明けていいものか……」
「妾は皇后。国の母です。母とは、どのような痛みに耐えても子を産み、守るもの。ご心配には及びませぬ」
ああ、どうしてこの人は、こんなにも察しが悪いのか。
今にも唇を割って飛び出しそうな叫びを抑えつつ、画業に全ての才を持っていかれた夫を待つ。やがて明かされた事実は、確かに窈児の想定を超えていた。
李晴は、冷宮近くの物置の、円形の
放たれた炎に巻かれて亡くなった許嫁の苦痛を慮ると、紅を刷いた眦を幽かにとはいえ濡らしてしまった。
「すまない。やはりか弱い女性に頼るべきことではなかったね」
「あ、ありがたい配慮ですが、無用です。夫のために身を尽くすのは、妻の務めでもあるのですから」
淡く色づいた涙はそのままに、皇后は夫に続きを促す。
「首を……。李どのはどんなにか苦しまれたのでしょう」
李晴の遺体の近くには
「え……? 李どのがいたのは、誰も出入りできなかったはずの房だった……?」
だのに、その物置の引き戸は内側からつっかえ棒がされていたため、誰かが出入りできる状態ではなかったなんて。
李晴の姿が長く見えなかったため、探し回った末に窓を覗き込んで亡骸を発見したという宦官の証言を、窈児は俄かには信じられなかった。窓も、位置する高さこそ並みの背丈の女の顔と同じくらいだが、幼児であれ大人であれ、人間が出入りできる大きさではないのだという。また、壁を円形に刳り貫いたような恰好の漏窓には、格子状の飾りが嵌め込まれてもいる。だから、人間どころか鼠よりも大きな動物は、李晴が死亡した房には一切出入りできない。つまり、李晴は密室で絞殺されていたのだ。
「……一体、どういうことですの?」
途方に暮れた皇后の、紅も鮮やかな唇から漏れたのは、この場に居合わせる全ての者の総意でもあった。
◇
穏やかな春の風が、梨の花弁をはらはらと散らした。まるで涙のごとく。
春の愁い。昨今巷を風靡している詞そのままの情景に、少年ははっと息を呑んで立ち止まった。
「何事も粗相のないようにね。宴だからといって、羽目を外しすぎてはいけませんよ」
科挙によって官僚を選ぶ世になってからは没落著しいものの、過去の王朝の末裔でもある
「また母上のいつものお小言ですか? ぼく、もう聞き飽きちゃいましたよ」
「もう! 減らず口ばっかり達者になって!」
仙女も羨む美貌で、皇后すら輩出した司馬一門に迎えられた、﨟󠄀たけた母。
息子である優玉はとうに見飽きてしまったが、母は天性の麗質において当代で敵う者なしとも称えられていた。何より母は、既に鬼籍に入ってしまったとはいえ、主上の寵愛を一身に受けていた叔母と瓜二つなのだという。一回りも年齢が離れていなければ、誰もが見間違えただろうと言われたほどに。けれども齢十の少年にとっては国一の誉れ高い美女も、時に煩わしいほどに心配性で小言が多い、ごく普通の母親でしかなかった。
「まあまあ、
「そりゃあ、この婚約も宴も、あちらから申し込まれたものですけれど。でも……」
「お前は折角の月の面を曇らせてばかりだなあ。私のためにも、たまには輝く満月になってほしいものだよ」
「巧言には誤魔化されませんわよ。全く、わたくしがいつもどんな思いで……」
父母の痴話喧嘩は右から左に受け流し――どうせ常のごとく、両親が互いに惚気だすに決まっているのだから――少年は生家に勝るとも劣らない威容を誇る門に向かって歩む。
この屋敷の奥深くでは、いつか妻となる少女が優玉を待ってくれているのだ。今日は特別に、宴の前に互いの二親も含めた対面の場を設けてくれているのだという。
母上みたいに小言ばっかりの子だったらどうしよう。
まだ小さな胸を騒めかせる不安は、しかしすぐに吹き飛んだ。
「あなたが、優玉さま……?」
あどけない笑みで優玉を迎えてくれた少女は、確かに母のようには美しくないかもしれない。けれども、小動物を想わせる瞳や、ふっくらとした桃の頬。まろやかで甘い鈴の音の声と、ころころと変わる表情が、何とも言えず愛らしくて。それでいて才気を漂わせていて――
「ねえ、優玉さま。小鳳といっしょに遊びましょう! どちらが上手く曲に合わせて詞を作れるか、比べっこするの!」
「え、ええ。喜んで!」
つまり優玉は、一目で彼女に魅了されてしまったのである。
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