初恋 Ⅰ

 黄金のいらかはあまねく世を照らす陽さながらに煌めく。棟木むなぎでは龍と鳳凰が戯れ、てすりでは花々が咲き乱れる宮居。その中でも一層奥深くに坐す紫華宮は、いくの代々の皇后が暮らす椒房しょうぼうであった。

 現在の宰相筆頭である氏の愛娘でもある皇后窈児ようじは、昨年の秋に健やかな皇子の母となった。龍宝りゅうほうという幼名を授けられた皇子は、即位して間もない皇帝の初子でもある。外戚の力を差し引いてもなお、皇帝の溺愛を一身に受ける赤子が立太子され、いずれ至尊の座に就くのは明らかであった。

 国母の地位を約束されたも同然の女は、まだ二十一の女盛り。皇后は顔立ちこそ、数多の名花が咲き乱れる、禁中の苑においては目を引くものではない。しかし肌理細やかな白い肌は凝脂のごとく潤み、結い上げられた黒髪は雲を思わせる豊かさだった。

 欠けたる者はなにもないはずなのに、と市井の関心の的である女は、匂やかに彩った唇を噛み締める。くりくりとした瞳とふっくらとした頬も相まって、地位に見合わぬ幼さと愛嬌を醸し出す女の眼差しは、針よりも鋭かった。

 眦に紅を刷いた双眸の先には、広大な帝国の隅々から集められた、あるいはこの堉を取り巻く蛮国から献上された種々の香料が並んでいる。壁から漂う山椒のそれをも掻き消す香気の源を、白磁の匙で掬う手つきは真剣そのものだった。

 よく手入れされた爪が並ぶ指先が、選び抜いた香料を混ぜ合わせる。茉莉花ジャスミンを主に、沈香に木犀その他の品を混ぜ合わせてできた芳気は馥郁と。漂う甘さは、蓮の花の風情を連想させた。生家から引き連れてきた女官たちでなくとも惜しみなく賞賛を贈るだろう清香に、しかし女は失望の吐息を漏らす。

「……また駄目だったわ」

 それでも女は一縷の望みに縋り、雲紋も見事な香盒を自ら捧げ持つ。ふらふらと己の宮から歩み出た皇后の後を追う者はなかった。他でもない窈児がそうせよと言いつけ、背く者には罰でもって報いたのだから。

 幾ら男子禁制の後宮とはいえ、皇后たる己が独りであちこちを彷徨っては、あらぬ疑いの種となるやもしれない。下々の者への示しもつかない。それぐらい、理解はしている。母からは文で、父や兄からは宮中で顔を合わせるたびに、何度も窘められた。けれども、断ち切れないのだ。優玉への想いを。

 己ではなく何一門に仕える女官たちの、不安と糾弾が入り乱れる面を目の端で捉えるたびに、同じ疑問を反芻せずにはいられない。

 窈児の日課・・は夫たる皇帝にも認められている。学友でもあった彼の魂を慰めてくれないかと、己に頼んできたのは他でもない夫なのだから。だのに未だ供の者を連れて彼が祀られた廟に行けないのは、後ろめたさのためではないだろうか。だがそれは、結ばれなかった愛する許嫁と、堉の臣民として忠誠を捧げるべき帝でもある夫の、どちらへの想いから兆すものなのだろう。答えは、考えずとも導き出せた。

 過ぎ去った春には紅や紫の牡丹が艶やかに咲き乱れていた一画を通ると、いつも涙を落とさずにはいられない。

 目印・・のため。また皇后たる己が頻繁に訪れても違和感がないようにという配慮もあって、この場所に牡丹を植えさせたのも夫だ。もっとも、花の色の趣味はいただけないが。優玉のための花なのだから、窈児ならば白や薄紅を選んだのに。仙女よりも清らかだったあの人には、そんな淡い色合いこそが相応しいのに。画を本業にしているのに、どうしてそんなことが分からないのだろう。

 ああ、まただ。どうしてわたしは、優玉さまと成偉せいいお兄さま・・・・を比べてしまうんだろう。成偉お兄さまは、龍宝をわたしに授けてくれたお方なのに。

 優玉のみならず、あるいは実の兄よりも優しい夫を裏切り続けているという罪への恐れは、溜まりに溜まってもはや深海と化していた。しかし一切の光射さぬわたつみに沈みつつも、女は縫い取りも細やかなくつに包まれた足を止めはしない。

 どんな土砂降りの日でも。あるいは豪雪の日でも。三年前の秋に皇太子妃としてこの後宮に入ってから、窈児は一日も欠かさず愛しい人の元に通い続けた。だから廟は、閉ざされているにしては清潔な気で満ちているのだ。数日に一度は、窈児自らが掃き清めているためでもあるだろうが。

「優玉さま。小鳳しょうほうは今日も参りました」

 懐かしい完璧な日々にそうしていたように幼名を名乗っても、応えてくれる声はなかった。それでも女は静まり返った廟の、等身大の神像の前へと進んだ。

 奇跡を願って香を焚き占き、拝礼する。だが、奇跡は滅多に起きないから奇跡なのだ。何度も突き付けられた事実に、月草の瞳は再び露に濡れた。

「……また、参ります」

 とぼとぼと本来あるべき場所に戻っていると、懐かしい息遣いを感じてしまった。

「――優玉さま?」

 はっとして振り返っても、求める人の影すらもない。分かり切ったことなのに、どうしてこんなにも心の臓が締め付けられるのだろう。口内に広がる苦味は、どこか蓮子はすのみに潜む芽のそれに似ていた。


 愛する人の元から戻った女が赴いたのは、己の室ではなかった。

「まあ、娘娘にゃんにゃん

 せき大娘だいじょうは、元来垂れ下がっている目元をますます下げ、窈児を迎えてくれた。大娘は、龍宝が生まれた後に窈児直々に見出した乳母である。また、龍宝よりも半年早く生まれた娘の母でもあった。

 一児の母であるとは信じがたいほど若々しい石氏は、嫋やかで美しい人でもあった。一族の権勢ゆえに皇后に選ばれた窈児よりも、よほど。

 麗しい彼女は、いま少し振る舞いや装いを華やかにすれば、貴人の寵を受けるやもしれない。けれども彼女は、娘が腹にいる頃に急逝してしまった夫に貞潔を捧げていた。

「龍宝さまはお休みになっておりますわ」

「そうなの。じゃあ、抱っこは我慢しなくてはね」

 己には貫き通せなかった決意を固く守り抜いている存在への、幽かな嫉妬混じりの憧憬が、じりじりと胸を焦がす。けれども皇后は、己の痛みを黙殺した。

 大娘はこの宮では唯一の、窈児に心から仕えてくれている人だ。衣食は何もせずとも運ばれてくるとはいえ、ただ一人で二人の赤子の世話に勤しむ彼女には、敬意をもって接しなくては。

「あなたの雪蘭せつらんは、どう? あの子の顔も見ていきたいわ。……見れば見るほど、あなたにそっくりなのですもの。将来が楽しみね」

 口先だけでない賞賛を発すると、大娘の細面には淡く紅が刷かれた。

「勿体ないお言葉ですわ。龍宝さまこそ、本当にお可愛らしくて……。雪蘭など、とても及びませんわ」

 窈児にとっては、龍宝こそが天下一愛らしい赤子である。同様に、大娘にとっても本当は雪蘭こそが天下一だろう。だが彼女の賞賛は、窈児の愁いを慰めてくれた。大娘の言葉通り、龍宝は玉のごとく美しい赤子なのだ。整ってはいるが突出してはいない夫の子でもあるのに。

「お母さまですよ、龍宝」

 この子は長じれば、誰もが見惚れる麗しい青年となるだろう。すやすやと眠る我が子の顔を眺めつつ、皇后は来るべき日を夢想せずにはいられなかった。

「わたしがあなたをどんな者からも守ります。わたしが絶対に、あなたを次の帝にしてあげますからね」

 愛しい吾子を即位させる。もはやそれだけが、最愛の人を喪った窈児が依って立つよすがなのだから。

 大娘と、愛らしい赤子たちから別れ、室に戻る。

「……お帰りなさいませ、娘娘」

「……ええ」

 室では、帝室ご用達の茶とかつて好んでいた菓子が、窈児の帰りを待っていた。今となってはもはや味もろくに判じられぬ品を、それでも喉に押し込んだのは、準備をした者への申し訳なさからか。

 深くなる一方の皺に埋もれた目でこちらを探る女官は、まだ幸福だった頃から窈児の世話をしてくれていた、いわば腹心であった。毒殺の可能性を考慮せず、彼女が整えた品を口に運べる程度には信頼のある。しかし彼女が現在の窈児に向ける双眸には、隠しきれぬ恐怖が潜んでいた。

「言いたいことがあるのなら、早く言ってしまいなさい」

 だから彼女にかける声は、己でも驚くほどの棘が潜んでしまうのだろうか。

「……娘娘がお求めだった書物が届いております」

 恐る恐る、という体で老女が絞り出した返事には、戦慄が奔っていた。

「――こんな茶と菓子を用意している暇があるのなら、それを早く伝えなさい!」

 しかし、久方ぶりの歓喜に身と心を震わせる女は、腹心の異変に気づきもしない。

「もういいわ、下がって」

 無言で差し出された書は巻物ではない。近年流通しだした印刷術とやらで形にされた一冊は、紐解かずとも頁を捲れば、確かめたい箇所に辿り着けるのが特徴である。

 しかし皇后は、高名な道士の著作であるという書を、始めから読み進めた。一文字すらも見逃さぬ熱意でもって。

「娘娘。お食事が届いているのですが……」

 外界からの音の一切を遮断し、書の世界を探索する。女が俗界に戻ってきたのは、夏の気だるい暑さも和らいだ時分であった。

「下がれと命じたのに、まだいたの?」

 眉根を揉み解しつつ、置物でもあるまいに微動だにしない女を、凍てついた眼差しで咎める。すると老いて丸くなった背がびくりと震えた。

「……娘娘。どうか、お父君のお言葉に耳を傾けてください」

「煩いわ。黙って」

 常ならば、窈児が一喝すれば項垂れて下がる老女は、この時ばかりはなぜだか執拗だった。

「もういないお方に縋り続けるのはお止めください! 娘娘は今や皇后。あらゆる栄耀栄華をほしいままにできますのに――」

「――黙れと言っているでしょう!」

 荒れ狂う胸の裡のままに、近くの卓に置かれていた粥の椀を、老婆のすぐ傍の床目掛けて投げつける。晴れ渡った春の空をそのまま映した青磁の椀は、悲鳴を上げて砕け散った。

「あなただって、あんなにも優玉さまのことを褒めていたじゃない! “身目麗しいだけでなく、聡明なお方です。お父君と同じく、いずれ宰相の位に登られるでしょう。小姐おじょうさまは良縁に恵まれましたなあ”って! なのにどうして、あの方がお亡くなりになったぐらいで、言葉を翻せるの!?」

「……小姐。小鳳さまは、その、本当に……」

「あの方は何もしていなかったのよ! 謀反を企んでいたなんて、濡れ衣に決まってる! よしんばお父君や司馬しば廃后などの、司馬一族の者が関わっていたとして、優玉さまご自身は関与していなかったに違いないわ! なのに、なのに……」

 飛び散った陶器の破片も、その中身も。一切が存在しないかのごとく、女はその場にしゃがみ込み、拳を床に打ち付けた。

「お兄さまも、お母さまも、優玉さまを悼んでくださらない。お父さまなんか、優玉さまのお父君がいなくなって、副宰相から筆頭宰相になれたのを喜びさえして……みんな、みんなおかしいんだわ!」

「……」

「優玉さまを返して! あの頃にわたしを戻してよ! だったら、反魂香のことだって諦めるわ!」

 いつの間にやら泣き疲れて眠っていた窈児を、ねどこに運んだのは誰なのか。鴛鴦おしどりの文様も虚しい上掛けに包まっていた女は、慌ただしい足音によって微睡みから呼び覚まされた。

「大変です、小姐!」

 昨夜の錯乱も、娘娘という尊称も忘れてしまったのだろうか。息を切らして皇后の室に飛び込んできた老女は、肩で息をしつつ驚愕の事実を絞り出した。

季青きせいどのが――同修起居注どうしゅうききょちゅうにして知諫院ちかんいん同知諫院どうちかんいんである李どのが、ご遺体で発見されました!」

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