はなさないで
菅原 高知
1話 犬上奈緒
「こっち見んなっ、ブス!」
朝の教室にそんな声が響いた。
大半の生徒がすでに登校しており、後は始業の鐘を待つばかり。
そんな中響いた暴言に、しかし誰も驚いた様子はない。
「何顔上げてんだよっ! 何? 調子乗ってんの?」
「うわぁ、麗奈可愛そう。大丈夫? どっか腐ってない?」
「マジ最悪何だけど。はぁ、朝から萎えるわぁ」
それどころか、声を上げた女子生徒に便乗しての罵詈雑言。
それが一人の生徒に向って放たれていた。
その生徒――
「何笑ってんだよ!! バカにしてんの? 死ねよマジで!」
そしてやはり、罵詈雑言。
よく見れば、奈緒に暴言を浴びせているのは女子の一グループ――クラスカースト最上位の集団のみであった。
学校――その狭く閉じられた世界の中で、更に狭い
即ち互いに順位を付けていく。
そして、一度下層に決まった順位はそうそう覆る事はない。しかし、転がり落ちるのはいとも容易い。ほんのちょっとの段差に躓いただけで一気に最下層に転がり落ちていく。故に、最上位の者が最下層の者を虐げる。
己の強さ、優位性を周囲に誇示するのは自然界において特に珍しくもない光景だ。
ここで行われている事はその一例に過ぎない。
唯一違うとすれば、イジメられている側が常に優位性を隠し持っているという事。
しかし、奈緒自身はその優位性を誇示するつもりはなかった。というか、誰にも話したことさえない。もしどこからか奈緒の隠し事が漏れれば、最悪学校に居られなくなってしまうかも知れないからだ。
奈緒の家は古くは平安時代まで遡る旧家で、祖父母を筆頭に親族皆世間体を気にするきらいがあった。
奈緒自身学校が絶対とは思っていないが、それでも卒業出来るものならしておいた方がいい。特に、奈緒は……。
その為なら多少のイジメなど苦にはならなかった。
大抵、笑っていれば飽きてどこかに行ってしまう。
まぁ、笑うのが下手なので相手を逆撫でする効果しかない奈緒の笑顔なのだが、本人はその事に気付いていない。
「ただいま」
奈緒は授業が終わるとすぐに帰宅する。
部活か同好会への所属が必須なので、【怪異考察部】という部活に名前だけ置かせてもらっている。
私が【怪異考察部】何て笑える、と自嘲していたが、今思えば逆にピッタリなのかもしれない。まぁ、活動はしないのだが。
「あ、おかえり。今日も早いわね。たまには遊んで帰ってきたら?」
玄関で靴を脱いでいると母親がやって来た。
彼女は私に普通の生活を望んでいるフシがある。自分が手にする事が出来なかった普通の青春。
友達を作り、放課後一緒に遊んだり、お喋りしたり、体育祭や文化祭などの行事にも積極的に参加して、恋して……。
バカみたいだ。
そんな事出来ないことは自分が一番分かっているはずなのに。
「宿題あるから」
荒んだ気持ちを押し殺して、そう告げる。
「また『お犬様』そんなところに付けて。落としたりしないでよ」
無意識に鞄に付けた犬の人形を触っていると、お母さんが目ざとく見つけてきた。
「分かっているよ。ていうか、肌身離さず持ってけって言ったのお母さんじゃん」
「そうだけど、他にも方法があるでしょうが」
これ以上話していると喧嘩になる――感情が大きくなってしまいそうだったので
さっさと自分の部屋に向かう事にした。
「晩御飯の前にお菓子沢山食べたらダメだからね」
「――分かってるッ」
そんな私の気持ちなど知らずに、お母さんの大きな声が廊下に響いた。
「はぁぁぁぁ」
部屋につくと、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。
子供がいくつになっても親は親というが、もう少し放っておいて欲しい。
子供に不自由な生活を強いている事が分かっているから、余計に気を使ってしまう部分もあるのだろうが……。
ベッド脇の机の上に放り投げた鞄に視線を向ける。
高校入学する時に買ってもらったまだ新しい鞄。その横に新品同様の鞄には似つかわしくない古臭い人形がぶら下がっていた。
『お犬様』
ウチの家で代々長女に受け継がれてきたぬいぐるみらしい。私も中学校に入学する時にお母さんから受け継いだ。
人形を受け継いだ犬上家の女子は、その後自分の子供に人形を受け継がせるまでは肌身離さず人形を持ち続けなければならない。
初めて人形を渡された時、お母さんとの会話を思い出す。
「いい奈緒? 『お犬様』は我が家の守り神なの。凄く寂しがり屋だから、ずっと一緒に居てあげて。そうすれば『お犬様』が幸福を運んで来てくれるわ」
「ええ~。こんなボロっちぃ人形いらない」
中学生女子としては普通の反応だったと思う。しかし、それがお母さんの逆鱗に触れた。
「コラッ! 何てこと言うの! 『お犬様』に謝りなさいッ!」
鬼の剣幕とは正にアレの事だ。普段は温厚で笑っている事の方が多いお母さんがあんなに怒ったのは後にも先にもアレっきり。
「ご、ゴメンなさい」
突然の事に、ビクッと身体を震わせ、目に涙を浮かべながら謝った。
「ううん。お母さんの方こそゴメンね。でも、奈緒はちゃんと謝れたから『お犬様』も許してくれたみたいよ」
「ほ、本当? ……良かった」
只の人形がどう許してくれたのか分からないが、その時のお母さんの目は覚えている。
熱に浮かされたような、怪しげな光を宿した目でニッコリと笑うお母さんに私は初めて恐怖を覚えた。だから、その時は話を合わせるしかなかった。
「ええ、もちろん。ほら、優しいお顔をされているでしょ」
そう言って、目の前に差し出された犬の人形の顔は、推し置いた老婆が歯をむき出した笑っているように見え、全身に鳥肌が走った。
「そうだね」
ブルっと震えながらも、どうにかそれだけ言えた。
「うん。この調子なら大丈夫ね。『お犬様』も奈緒の事気に入って下さったみたい。はい。これからはしっかり『お犬様』のお世話をするのよ」
「うん」
それから朝起きて洗面所で歯を磨く時も、顔を洗う時も、ご飯の時も、通学中も、学校でも、トイレもお風呂……全部『お犬様』と一緒だった。
初めの頃は人形を見る度にお母さんのあの鬼のような顔が脳裏にチラつき、恐怖で持ち歩いていた。そうするとお母さんは――いや、家族みんなの機嫌が良かった。お父さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも褒めてくれた。
『しっかり、お犬様のお世話が出来て偉いね』と。
その度に私は下手くそな笑顔を浮かべるしか出来なかった。
しかし、人間大抵の事は慣れるらしい。
『お犬様』を持ち歩くようになって三年。今では傍にあるのが当たり前になっていた。感情が爆発しそうな時に無意識に撫でるくらいに、心の拠り所にもなっている。
それでも、たまに考えてしまう。
今とは違う生き方があったらと。
『お犬様』を渡された日に、他にも言われた事があった。
「いい? 『お犬様』は寂しがり屋で嫉妬深いの。だから他に友達や彼氏何て作たらダメよ。もし、約束を破ったら酷い事が起こるからね」
「……酷い事って?」
「怖がることはないわ。奈緒が『お犬様』を唯一の友達って分かっていれば良いだけなんだから。それでももし約束を破っちゃったら――――相手の子が可哀そうよね?」
そう言ったお母さんの顔は笑っているけど、笑ってなかった。
初めの内はお母さんが怖くて友達の誘いも断っていた。
しかし、そんなある日。
サッカー部のエースで男女問わず人気がある佐藤君の誕生日会に誘われた。誘ってくれたのは性が学校の時の友達――『お犬様』を渡されてからは、私が意図的に遠ざけた一番の友達の綾香ちゃん。綾香ちゃんは私が佐藤君を好きな事を知っていたから声をかけてくれたのだ。
少し迷った。
でも、嬉しくて。久しぶりに友達を話せたことも、好きな人のお誕生日会に呼ばれたことも凄く凄く嬉しくて。
私は始めた約束を破った。
週末佐藤君の家で行われたお誕生日会は殆どのクラスメートが参加していたのではないだろうか。大勢の人が集まっており、そしてとても楽しかった。私も佐藤君におめでとうと言って、綾香ちゃんに選ぶのを手伝ってもらったプレゼントを渡した。殆ど話したことがない私からのプレゼントに驚いて様子だったが、それでも佐藤君は笑顔でありがとうと言ってくれた。
本当に、楽しい一日だった。
久しぶりに、心の底から笑う事が出来た一日だった。
そんな、最後の日だった。
その日、家に帰ると鞄の中に入れていた『お犬様』の人形が見当たらない事に気がついた。少し焦ったが、今日は佐藤君の家にしか行っていない。忘れたとしたきっとそこだろう。明日聞けば良い。
心に満ちた幸福感に酔いしれ、この時私は約束を忘れていた。
次の日。
佐藤君と綾香ちゃんは学校に来なかった。
次の日も、その次の日も……。
そして、その次の日。全校集会が開かれ、二人が大怪我を負って入院中だという事を聞かされた。もちろん名前は伏せられていたが、みんなが薄々気が付いていた。
翌日お見舞いに行った子たちが、沈痛な顔で登校してきた。中には休んだ子もいた。
他の人たちは二人の状態を聞きたがったが、みんな口が重く、泣き出す子さえいた。
ただ事ではない。
そう。ただ事ではないのだ。
私は鞄の中に入れた人形――以前より汚れが落ちているが、毛羽立った『お犬様』に視線を向けた。
お誕生日会の次の日の朝。
私は『ひっ!』という悲鳴と共に『お犬様』を見つけた。
朝起きると部屋に赤黒い染みがあった。それはどうやら部屋の入り口から点々と続き鞄のところで途切れていた。
まるで小さな何かが歩いた跡のような、その赤黒い染みに嫌な予感がし、頭の中で警鐘が鳴り響く。
恐る恐る鞄を開けると鉄の不快な臭いがした。
そして、ソレは――『お犬様』が鞄の中にいた。その白かったはずの毛を赤黒く染めた状態で。
その後、半狂乱になった私が立てた音で、お母さんが部屋にやって来た。
泣き叫ぶ私の様子に驚いた様子だったが、部屋の様子を見てすぐに状況を察したのか、何も言わず鞄の中を見て『お犬様』をとれ出した。
「奈緒、『お犬様』をキレイに洗ってきなさい」
「……でも!」
「奈緒!」
「――ッ⁉」
泣きじゃくる私をお母さんが一括した。
それで、ようやく私は状況が理解できた。
「わ、分かった」
私は泣きながら『お犬様』を洗った。どこには、毛の一本にも赤が――血の色が残らない様に。
「約束破ったのね」
「……」
「あれだけ言ったのに」
「……」
「誰が犠牲になったのかは分からないけど、コレで分かったでしょ。アナタは独りでいないといけないの」
「――ッ! ごめっ ごめ、ごめんなさいぃ!……」
後悔と絶望。懺悔と決意の慟哭を上げる私をお母さんはただ優しく撫でてくれた。
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