第102話 したくなかった喧嘩

 浴室で、奈桐から美森の兵庫行きを提案された。


 俺はそれに対して即座に無理だということを伝えて、理由も説明したのだが、彼女はどうも納得していないようだった。


『父さんと母さんは、まだ美森を傍に置いておきたいと思う。それはわがままとかじゃなくて、教育的な面とか、その他諸々の理由でだ』


 自分で言ったセリフだが、決して間違いだとは思わない。


 父さんと母さん。


二人の意見をまだ聞いたわけじゃないが、きっと美森にはまだ傍にいて欲しい、とそう思うはずだ。


 だからこそ、俺はその思いを尊重してやりたい。


 もう、俺はわがままも言いづらい年齢だし、無理を通すのも嫌になってくる歳だ。


 仁や瑠璃のように子どもがいたって何らおかしくない。


 それゆえに、思いを察した行動がしたい、と。俺自身強くそう考える。


「――だから、奈桐? 俺はあくまでも反対だよ。父さんと母さんに聞くまでも無いと思ってる。美森を兵庫に連れて行くことなんて」


 風呂上がり。


 場所は俺の部屋の中。


 まだ動かすには少し時期外れな気がする扇風機を稼働させ、俺たちは二人そろって涼んでいた。


 涼みながら、さっきの話の続きをする。


 二人きりだ。


 誰も入って来ないよう念を押した。


 もちろん、美森も今はダメ。


 それを伝えると不機嫌になっていたけど、あの子は賢い。


 不機嫌になりつつも、くだらない理由で俺たちが話しているわけじゃないってきっとわかってくれるはず。


 ただ、八歳の子にそこまで我慢させてしまう俺も俺だな、とは思った。


 苦しい。


 でも、今は仕方ない。


 こうするしか最善の案を導き出せる気がしない。


 奈桐とちゃんと話し合わなければ。


「……正直、成がそうやって言う理由はわかるし、私も心の奥底で同じこと考えてたの。お父さんとお母さんは、まだ美森と一緒にいたいだろうな、って」


 結んでいない、下ろされた状態の奈桐の髪が、扇風機の風によって揺らされる。


 あるがままに、気楽に、ただ風に沿うようにして動く綺麗な黒。


 柔軟さを象徴しているかのようなのに、当の奈桐は深刻そうに表情を固めていた。


 うつむき、唇を結んでいる。


 俺は何気なく体育座りのまま天井を見上げた。


「わかってくれているのに、それでも美森を兵庫へ連れて行きたいのか?」


「……っ」


 苦し気に眉を動かす奈桐。


 そんな彼女に対して俺は続ける。


「あと、父さんと母さんはたぶん自分の都合で話を進めない。言ってくるとすれば、絶対に美森の教育を盾にして話してくるだろうな。八歳で親元を離れたら、教えるべきことを教えられない、なんて言って」


「……ありそう」


「だろ? だからなかなか厳しいんだ。残念ながらな」


 俺がそう言うと、場に沈黙が下りた。


 奈桐は何か言い返してくることなく、ただ黙り込んでいる。


 俺の否定を受け入れながら、それでも自分の意思を曲げることをしない。


 そんな思いが滲む顔をしていた。


「って言っても、まあ難しいな。俺だって奈桐の言い分もわからんことはないわけだし」


「……」


「俺たちだけで兵庫に行って、美森を置き去りにするのは、あいつに対して可哀想だって言いたいんだよな。その気持ちはめちゃくちゃわかるよ。うん」


「あの子、私たちのことが大好きなの。たぶん、成と私、どっちに対しても独占欲があるんだと思う」


「欲張りだな。二人共大切だってか」


「欲張りでもいいじゃん。嬉しいよ。やっぱり妹に好かれるのは」


 その言葉は、葉桐ちゃんにも向けられているように感じた。


 しみじみと言う奈桐の気持ちが今の俺にもわかる。


 実の妹がいるっていうのはこういうものらしい。


 凪だとあまり妹って感じはしないからな。奈桐だし。


「じゃあ、奈桐はどうしても美森を兵庫に連れて行きたいんだ。父さんと母さんに無理を言ってでも」


「そういう言い方するのやめてよ」


「やめてって言ったって、実際そうだろ? 俺はあくまでも反対なんだから」


 言い返すことのできない奈桐だけど、別に俺は言い合いがしたいわけじゃない。


 話し合って、どうにか美森の兵庫行きを阻止させたかった。


 たまに会うくらいでいい。


 あの子には申し訳ないけど。


「それに、そもそも奈桐だってまだ二人の許しが出たわけじゃない。転校するって勝手に言ってるけど、そっちだって父さんと母さんの説得が必要なんだ」


「……っ」


「まずは自分のことを考えて、そこから美森だろ? まあ、二つのことを一気になんて無理だ。だから、そこは俺がもう話をつけて――」


「――わかってない」


 ……え?


 口で言葉にするよりも先に、心で疑問符が浮かぶ。


 俺のセリフを遮るようにして、奈桐の声が重なった。


「成は、わかってるようで何もわかってない」


「……そんなこと――」


「あるよ。あるの。今のセリフでわかった。成、美森の気持ちも、私の気持ちだって、何一つわかってない」


「っ……!」


 そんなことない。


 反射的に強めの口調でそう言ってしまう。


 バカだ。大バカもいいところ。


 奈桐と今喧嘩してどうする。


 何を言われようと抑えなければ。


 そう思っているのにも関わらず、溜め込んでいたものを吐き出すように、俺は奈桐へ言葉をぶつけた。


「奈桐と美森の気持ちがわかってないなんて、そんなことあるはずないだろ!? 俺はいつだって二人のことを考えてる。考えてるからこそ無理だって言ってるし、今は奈桐には自分のことに集中して欲しいって言ってる。俺のこの考え、間違ってるか? 間違ってるなら、納得できるように説明してくれ」


 つらつらと出る言葉。


 だが、心の奥底では深いため息をついていた。


 行動と気持ちが一致しない。


 ダメだ。


 とにかくダメ。


 上手くいかない現状が、俺に混乱を招いている。


「……そんなの……」


 目の前にいる奈桐は、俺を見据え、その瞳をじんわりと濡らし始めていた。


「……自分で考えたらいいじゃん……!」


 言って、俺の部屋から飛び出していく彼女。


 一瞬にして、部屋は孤独の色に染まる。


 俺はしばらく呆然とし、自分の考えと、口にした言葉を反芻して、やがて顔を手で覆った。


「……バカ過ぎるだろ……」


 いくら後悔しても遅い。


 奈桐とは力を合わせないといけない。


 力を合わせて、現状を乗り越えて行かないといけない。


 そう思っていたのに、まさか美森だけじゃなく、奈桐まで不機嫌にさせてしまうとは。


 自分の不甲斐なさに呆れ、俺はしばらくため息をやめることができなかった。

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