第53話 奈桐は可愛いとかいう次元にいない。

 芳樹父さんに母さん、じいちゃんばあちゃんと奈桐の両親、つまり守さんと陽子さんにすべてを話した兵庫旅行を終えて、俺たちはいつもの日常に戻っていた。


 俺は大学に通い、奈桐は幼稚園に通う。


 芳樹父さんと母さんは、昼間から食堂の運営や出前に勤しんでいて、なんともまあ忙しそう。


 ただ、二馬力になったことから、営業範囲を拡大させようとか色々考えてるらしく、忙しいながらやりがいを感じてるようで、二人ともイキイキしてる。何よりだ。


 夜のバイトにも、最近新しく大学一年生の女の子が入ってきたし、ますます橋木田食堂は活気付いてる。


 雛宮家の方も、守さんと陽子さん、それから葉桐ちゃんが元気を取り戻し、昔のように俺の家に来たりすることが増えた。


 特に守さんと芳樹父さんは完全に飲み仲間になり、自分の娘の可愛いところを語り合ったりしてるし、こっちからすれば微笑ましい限りだ。


 一応、呼び方は『凪』で統一させてるけど、守さんはたまに『奈桐』って呼び間違えたりして、父さんからツッコまれたりもしてた。その辺りは難しいところだろう。俺はあんまり奈桐と二人でいる時に『凪』とは呼ばないし。


 まあ、その辺りは臨機応変だ。


 とにかく、一件落着し、今の俺たちはそれぞれがそれぞれの場所で平和に日常を送れてる。


 芳樹父さんのご両親の方にも一度皆で顔出ししたい、なんて母さんは言ってたけど、それはもう少し先。盆くらいになりそう、とのこと。


 とりあえずは夏が来る前の梅雨。


 六月になるし、ここを乗り越えないと夏は来ない。


 七月になれば、花火大会もある。


 生まれ変わった奈桐と再会して、初めての夏。


 楽しみな気持ちと、切ない気持ちと、それから思い切り楽しみたい気持ちが混在して、今からでもソワソワする。


 まあ、その前に大学のテストとかもしっかり乗り越えなきゃなんだけどな。


「ふぅ……」


 色々なことを考えながら、俺は二限目の授業会場である、大教室に辿り着く。


 適当に一人で左側の隅っこの席に座り、一息ついた。


 外はもう蒸し暑い季節だ。


 曇りだけど、少し汗ばんでいた。


 明日からもう半袖一枚で来よう。


 長袖はしばらく封印だな、これは。


「橋木田成」


 横長の講義机に突っ伏そうとしていたところ、聴き覚えのある声が俺の名前を呼ぶ。


 気だるげに振り返り、俺はそっちの方を見やった。


「なんだ、一人? 迫中は?」


 そこにいたのは、予想していた通りの女の子。


 赤坂瑠璃だ。


 栗色の髪の毛が特徴で、それが肩辺りまでで丁寧に切り揃えられてる。


 清潔感があって、可愛いイマドキの女子大生という感じ。


 お世辞抜きで可愛いと思う。


 奈桐がいなかったら、俺はこの子に惚れててもおかしくなかった。性格の方も面倒見が良くて優しいし。


「おはよ、赤坂。迫中はまだ来てないんじゃない? ざっと後ろから見渡してみたけど、それっぽい奴いなかったから」


「やっぱりそうなんだ。私も見渡してみたけど、橋木田成しか見つけられなかった。どうしたんだろ? 昨日、LIMEグループで早めに行っとくって言ってたのに」


 確かに言ってた。


 俺たち三人のLIMEグループで、あいつは『一限あるし、明日は早めに二限行っとく』とか呟いてた。


 それなのに見当たらないってのはちょっと不自然だ。


 急に腹が痛くなったとかだろうか。


 トイレに篭ってんのかな?


「……んー。赤坂、俺ちょっとあいつに電話してみる。てっきりお前と一緒に来るのかとばかり思ってたから」


「ごめん。お願い」


「うん。……にしても、なんか今日の赤坂、いつにも増してこう……なんつーか……綺麗だな」


「んぇっ!?」


 一瞬で頬を朱に染める赤坂。


 堂々としてたのに、速攻でそれは崩れ、あたふたし始めた。


「あっ……!? ちょ、な、何だ、いきなり……!? ど、どうして急に……わ、私を褒める流れになるんだ……」


「どうしてって、それはまあ……普通に可愛いと思ったから……?」


「っ……! か、可愛いと思ったら誰にでもそうやって言うのか……!? は、はは、橋木田成には奈桐ちゃんがいいい、いるのにぃ!」


「奈桐は別だよ。奈桐はもう……なんていうか、可愛いの次元を超えてる。神の領域なんだ」


「ぅぐっ……! ふ、ふざけんなぁ! 比べるな、比べるなよぉ! そうやってぇ!」


「おべっ!」


 べしーん、と思い切りビンタされてしまう俺。


 講義机に突っ伏し……というか、叩きつけられ、頬の痛みを実感するしかなかった。


 さすがに心の声をそのまま言ってしまうのはマズかったか。赤坂相手でも。


「ふ、ふんだ! 本当に橋木田成は! 橋木田成は!」


 怒りながらも俺の横に座ってくる彼女。


 まあ、確かにな……。


 奈桐が好きって公言してるのに、こうやって『可愛い』なんて言うのはデリカシーがなかった。


 反省でしかない。


「そんなのだと、奈桐ちゃんにも愛想を尽かされてしまうぞ……? 浮気するな、って」


「浮気ではないんだけど……悪かった。そして安心してくれ。こんな発言、奈桐以外だと赤坂にしかしない」


「っ〜……! ほ、ほんとにお前って奴はぁ……!」


 口元を押さえ、朱に染まった顔のまま、ふるふると震えて言う赤坂。


 これもまた失言ということなんだろう。


 頭を掻き、ただひたすらに謝った。ごめん、と。


「し、しかし、いくらなんでもテンション上がり過ぎなんじゃないか……? 奈桐ちゃんのことを皆に伝えられたからって」


「本当の意味で皆ってわけじゃないけどね。芳樹父さんの両親。新しくできたじいちゃんばあちゃんには凪の正体について何も教えてない……というか、俺はまだその二人に会ったことがない」


「これから会う予定は?」


「夏休みだろうな。盆辺りに家へ行くって言ってる。九州の方。確か熊本県」


「へぇ、熊本なのか」


「そうそう。まあ、楽しみにはしとく。その前に七月が待ってるけど」


「七月……?」


「奈桐の誕生日。生まれ変わってくれて、初めて一緒に過ごす誕生日」


「あぁ……なるほど」


「今から考えてんだ。何渡そうかって。高一の頃よりかは金持ってるからね。渡せるプレゼントの幅も広がった」


「ふふっ。そうか」


 クスッと笑み、それからすぐジト目になる赤坂。


「けど、そういうことであるのなら、なおさら私に『可愛い』だの何だの言わないことだな。変に言い過ぎると、女の子は勘違いしてしまうぞ? 気を付けないと」


「大丈夫だって。そんなこと、奈桐以外だと赤坂にしか言わないから」


「っ……。だ、だから、そういう言い方もやめておけ。ダメだ」


「……? 赤坂相手でも?」


「私相手でも……!」


 顔を赤くして困り眉を作り、ため息をつく赤坂。


 そういうことだったら、と俺は素直に謝った。


 うかつに言うのはやめておきます。


 可愛いなんて。


「それにしても、本当に迫中来ないな。どうしたんだろう? 風邪でも引いたのか?」


 咳払いをしながら場をリセットし、赤坂はスマホの電源入れた。


 どうも奴からのメッセージは何も来てないらしい。


 俺の方にも何もなかった。


「ちょい、電話かけてくる。授業そろそろ始まるだろうし、出席カードとプリント、三人分取っといてくれるか?」


「ああ、わかった。すまない。よろしく頼む」


 そう言って席を立ち、俺は大教室の外へ出る。


 そして、すぐさま迫中の番号に電話を掛け、何気なく窓から外の景色を眺めたのだが……。


「……ん?」


 ちょうど校門前辺りに見覚えのある男がいた。


 そんな見覚えのある男が、園児用のスモックを着た子二人と手を繋いで右往左往している。


 あれは……。


「さ、迫中と……も、もしかして、奈桐!?」


 そう。凪ちゃんこと、奈桐が迫中と一緒にいた。


 他に、もう一人小さい女の子を連れて。

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