逆コクハク、これからの継続

 朝起きると、茉莉綾さんがテーブルの前にいた。ヘアアイロンで自分の髪を整えており、俺の気配に気付くと、その手を止めてベッドの方を見た。


「あ、ハルトくん。おはよう」

「おはよう茉莉綾さん」


 昨日ワインをこぼした服はすっかり乾いたらしい。バスローブも脱いで、昨日の服装に着替え直していた。


「あ、朝食頼んだよ」


 見ると、確かにテーブルの上にトーストセットにベーコンエッグ定食、サンドイッチセットの三種類の朝食が並んでいる。


「皆起きてからでもいいかな、とは思ったんだけど、結構ぐっすり寝てたみたいだし。起きたらすぐご飯あった方が良いかなって」

「いや、助かる。ありがとう」


 俺はベッドから起き上がる。そこで気づいたが、ダブルベッドの方で茉莉綾さんと隣で寝ていた筈の美咲が、俺の布団に潜り込んでいた。


「あ、美咲ちゃんね。私が起きた時はもうそこにいたよ」

「寝相悪いな」


 美咲はまだ目を覚ます様子がなく、規則的な吐息が美咲から聞こえる。俺は思わずそんな美咲の髪を触った後、茉莉綾さんもいることに気付いて慌てて手を引っ込めた。


「なんか焼いちゃうなあ」


 茉莉綾さんが意地悪そうにそんなことを言う。


「なんかごめん」


 俺のその言葉に、茉莉綾さんはビシッと人差し指を立てる。


「謝るの禁止。オーナーからもよく言われるでしょ?」

「そうだな、ありがとう。歯磨いてくる」

「はーい」


 俺は布団から降りると、シャワー室横の洗面台に向かい、備え付けのアメニティから歯ブラシと歯磨き粉を取り出して、歯を磨いて顔を洗った。そうこうするうちに美咲も起きたようだった。


「おはようございます。先輩、茉莉綾ちゃん」

「ああ、おはよう」

「美咲ちゃんおはよー。朝ごはん食べる?」

「いただきます」


 美咲は起き上がるとすぐにボサボサの頭のまま、テーブルの前まで来て座った。俺はそんな美咲の隣に座って、洗面台から持ってきた櫛を渡した。


「せめて髪くらい梳かしとけ」

「ありがとうございます」


 美咲は俺から櫛を受け取ると、自分の髪をその場で梳かした。その様子を見て、茉莉綾さんが溜息まじりにクスクスと笑っているのが少しこそばゆかったのだが、何も言わずにいた。美咲は手で自分の髪を触って、櫛である程度整えられたのを確認したのか、櫛をテーブルの上に置いて、茉莉綾さんが頼んだ朝食を見た。


「どれが誰のです?」

「決めてない。美咲ちゃんはどれが良い?」

「私は定食が良いです」

「そっか。ハルトくんは?」

「どっちでも良いけど、強いて言うならトーストセット」

「おっけー」


 茉莉綾さんは頷いて、それぞれの朝食セットを三人の前に置いた。


「茉莉綾さんがトーストの方が良いなら譲るけど?」


 俺は茉莉綾さんにそう提案したが、彼女は首を横に振った。


「大丈夫。私も元々サンドイッチ食べたかったから」

「そっか。じゃあいただきます」

「いただきます」


 俺に続く形で美咲と茉莉綾さんも、声を合わせて食前の挨拶をし、それぞれの朝食に口を付けた。そういえば古宮さんと一緒にラブホに行った時はホテルではなく牛丼屋に寄ったので、こういう朝食メニューは頼まなかったけれど、また来たら他のメニューも頼もうかと思うくらいには美味しかった。


「あの、二人とも良いですか?」


 食事を終えると、美咲が俺と茉莉綾さんの顔を交互に見た。


「お二人さえ良ければ、ここでも記念に写真を撮りたくて。三人で」


 俺と茉莉綾さんはお互いの顔を見合わせて、頷いた。


「良いよ。俺が撮るか?」

「待って。私のスマホで撮って良い? 後で二人に送るから」

「グループでも良いですが」

「それは駄目」


 俺と茉莉綾さんは、呑気な美咲に対して声を合わせて拒否の言葉を口にした。茉莉綾さんがスマホを構えて、三人が写るような構図で何枚か写真を撮り、すぐに俺と美咲に写真を送ってくれた。見る人が見ればラブホの写真だとすぐわかりそうだ。俺は別ファルダを作ってカメラロールから写真をそちらに移した。

 写真撮影を終えた後、三人とも各々の荷物をまとめてチェックアウトした。支払いは予約時に美咲がクレジットカードで行ったらしく、迷惑をかけたお詫びにと全額負担しようとするのを、俺と茉莉綾さんでそれぞれ美咲に自分の分の料金を押し付けた。

 帰りの車を美咲は問題なく発進させた。今度は茉莉綾さんが助手席、俺が後部座席に座る。美咲はまず車を茉莉綾さんの家に向かわせた。茉莉綾さんの家の前に美咲が車を停めると、茉莉綾さんは助手席から後部座席に顔を出す。


「じゃあハルトくん。また今度も飲みに行こうね」


 昨夜もベッドの中で言っていたが、これからも変わらない関係を築こうという茉莉綾さんのその言葉に、俺も頷いた。


「ああ、夏休みも長いし、またどこかでな」

「その時は私も呼んで欲しいのですが」


 俺と茉莉綾さんのやり取りに、美咲がどこか拗ねたような言い方でそう割り込む。茉莉綾さんは美咲の手を握り、大きく頷いた。


「もちろん! 三人でまた遊びに行こ?」

「ラブホは勘弁な」


 そう言う俺に茉莉綾さんは首を傾げる。


「そう? 私は別に良いけど?」

「色々と気を張るんだよ。行くとしても宿泊はなし」

「なるほどね。それもそっか」


 茉莉綾さんは屈託ない笑顔を見せる。やはり昨日のダンスを披露してから、何か吹っ切れた様子があると思う。茉莉綾さんは車から降りると、俺と美咲に手を振って、自分の家に帰って行った。


「このまま先輩の家で良いですか?」

「良いよ。ありがとな」

「はい。了解しました」


 俺の言葉を聞いて美咲は車を再発進させる。朝でも車の外は夏のジメジメとした空気の肌触りがあるが、車内だとクーラーがすぐ効いてそれも気にならないのは良いところだな、などと思う。


「先輩、昨日のことですが」


 ハンドルを握りながら、美咲は後部座席の俺にも聞こえるようにか、いつもより少しだけ大きめの声でそんな風に言った。


「昨日のこと?」

「茉莉綾ちゃんにも言われた、私が先輩の気持ちを勝手に決めてるって話です」

「ああ、あれか」


 それはずっとそうだ。美咲は俺の気持ちなどお構いなく、独りよがりで勝手に突っ走る。それはよく言えば行動力があるということで、美咲の持ち味の一つと言えばそうだが、ずっと付き合わされるのも疲れはする。


「私、その通りだと思いました」

「マジか、偉いな」


 俺は、それは美咲にとってはかなりの前進じゃないか? などと偉そうなことを考える。


「はい。先輩の為だと思って色々として来ましたが、そっちの方が迷惑ですもんね」

「全部ダメってわけでもねえよ」


 美咲が突っ走ったおかげで手に入れたものは沢山あると思う。俺が見学店でカメラマンを始めたのも、美咲がバイトで金を貯めて、こうして皆で遊びに行けたのも、美咲の行動力あってこそだ。


「ただ、俺が嫌な筈だとか、俺に迷惑かもしれないとか、そういうの理由にして変なことされるとムカつくってだけ」

「そうですよね」


 車は走り続ける。美咲はその後少し口をつぐんで、しばらくしてから言葉を続けた。


「私、都合の良い女はやめます」

「そもそも始めさせたつもりもないが」


 それ言って変に満足してたのお前だけなんだよ。お前の独りよがりの象徴みたいな言葉だよ。ただ、それに気付いてくれたというなら俺はありがたい。


「私、先輩のことは好きではありません」

「何度も聞いた」


 そのことは、もう重々承知している。わざわざ繰り返し確認することでもない、と俺は既に思っているが、美咲が言いたいと言うなら止めはしない。


「でも、ですよ? でも、私は先輩のこと、すごく大事です」


 それは、美咲が初めて口にした俺への感情だった。急なことに対応できず、今度は俺が押し黙ってしまう。


「美咲──」

「先輩に他に恋人ができた方が良いんじゃないかとか、そう思う気持ちもまだあります。でも、それは先輩のことを私が、大事に思っているからで……」


 美咲の声がどんどん小さくなって行く。言いづらいことになると、口の中に言葉を閉じ込めるのは相変わらずか。


「ありがとう。良いよ、俺はそれも分かってるつもり」


 俺に聞こえない声で何か言っているらしい美咲に対して、俺はそう返事する。


「美咲のこと、俺も大事に思ってる」


 恋人とは言えない。だからと言って、もうただの先輩後輩の仲でもない。そして、俺は──おそらくは美咲だって、この関係を壊したくない。ただそれは、友達を続けたいから自分の気持ちを隠すのとは違う。昨夜だって、その前だって、俺と美咲は自分自身の気持ちを、その時に伝えられる全力で伝え合って、付き合って来たと思う。


「それは私も嬉しい、です」


 美咲の声が、またさっきの調子に戻った。ごちゃごちゃと考えるのではなく、こうしてお互いの気持ちを言葉でぶつけ合えることは、俺も嬉しい。


「先輩、夏休み中また連絡しても?」

「好きにしろ。その代わりと言っちゃなんだが、俺も好きに連絡する」

「めんどくさかったら無視するかもしれないです」

「お前な……そんなこと言ってないで運転に集中しろ?」


 自分勝手さを全て捨てたわけでもないらしい。俺は勝手にツボに入って、笑いを堪えきれなくなった。


「先輩?」

「いや、良い。美咲はそうでないとな?」

「何か馬鹿にされているような気が」

「気のせい気のせい」


 そして気付けば俺のアパートの前に、車は到着していた。駐車場までは入らなくて良いことを美咲に伝え、近くに路駐してもらって俺は自分の荷物を持つ。


「じゃあ美咲、運転お疲れ様。またな」

「はい。先輩、また遊びましょうね」


 俺が車を降りた後も、美咲は車を発進させずに俺の方を見て、手を振ってくれた。俺もそれに手を振り返す。美咲の顔が俺から見えなくなったくらいのところで車は発進し、遠くの方へと走って行く。

 家に帰ると、茉莉綾さんからメッセージが送られて来ていた。


『ハルトくんの撮った写真なので、ハルトくんにも送ります』


 メッセージと一緒に、昨夜俺が茉莉綾さんのスマホで撮った、茉莉綾さんの裸の写真が添付されていた。自身のスマホで撮影させたのは、俺のスマホに裸のデータを残したくなかったのかと思ったが。いや、実際にあの時はそう思っていたんだろうけど。


『やっぱり綺麗だね』

『ありがとう。私がまた踊ることあれば、その時はよろしくね』


 俺が返したメッセージに、茉莉綾さんもすぐにそんな風に返してきた。また踊ることがあれば、か。今回の一件で、茉莉綾さんも一皮剥けたようだし、彼女が本当に劇場の舞台に出ることも、そう遠いことではないのかもしれないな、と思う。俺は茉莉綾さんから送られてきた写真は保存せずに、スマホをしまった。

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