目覚めて、あの日の後悔②
美咲の名前を見て、昨夜の記憶も一気に脳内を駆け巡った。そうか、ヤったんだ俺は。
──ミサキと、セックスを。
「電話?」
ベッドからミサキが尋ねてきた。
「あ、うん」
「出なよ」
「あ、ああ。そうだな」
俺はミサキの言葉に慌てて通話ボタンをプッシュして、電話に出る。
『もしもし、先輩?』
「ああ」
『良かった。昨日、先輩からの連絡があった後に電話しても繋がらなかったので』
「そうか。すまん」
『ご実家の用事というのは大丈夫だったんですか?』
一瞬、美咲が何のことを言っているのかわからなかったが、そういえばそんな嘘のメッセージを美咲に送ったことを思い出すと、胸がズキリと傷んだ。
「ああ、大丈夫だった」
『ライブの方は?』
「良かったよ。カメラも野々村先輩に返した」
『野々村先輩から私にも連絡きましたよ。とても喜んでいました。打ち上げに誘われたのですが、私はライブ行ってませんし、先輩がいないならいいかな、と断りましたが』
「なんだよ、行けば良かったのに」
『課題が大変なんですよ』
通話先で美咲が大きくため息をついたのがわかった。
「そっか。手伝えることあるなら言えよ」
『ありがとうございます。じゃあ来週、部室でご助言もらえそうなものあれば聞きます』
「えっと……」
俺は時計を見る。午前8時。大学の授業は何限だったか考えようとして、今日は土曜日だから講義はないことを思い出す。
「わかった」
『では先輩、また』
「ああ。美咲も課題、頑張ってな」
──と、俺の肩に何か重いものが乗る。
「ユウくん、電話終わった? 昨日の続きは?」
肩の上に乗っているのは、ミサキの顎だった。ミサキは腰回りから手を回し、お腹の辺りを指先でさわっと撫でる。
「ちょっ……!?」
突然のことにビクッと体を震わせて声を出す。俺は自分の口元を手で覆った。
『先輩?』
「ねえ、あたしまたユウくんとチューしたい」
『ユウくん……』
電話が美咲と繋がっている状態のまま、ミサキがスマホを当てるのとは反対側の俺の耳元に囁いた。
『週末の帰省先で何か良いことがあったようで』
「ちがっ!?」
違うけど違わない。
『そちらに関しても週明けにお聞きしたいところですね。可能であれば今日でも良いですが。今のところ私はお邪魔なようですので』
「美咲……ッ!」
『それでは』
プツン、と美咲との通話が終わる。通話先からはもう何も聞こえない。胸が苦しい。息ができない。喉奥から何かがこみ上げてきて、吐きそうだ。
「お前な……」
俺は肩に乗ったままのミサキの顔を見る。
ミサキはにこりと笑って、俺の頬にキスをした。
「だってユウくんが急にあたしの名前呼ぶから」
「えっと」
美咲の名前を口にしていたのは迂闊だったな、と頭を掻きむしりたくなったが、そんなことを考えていても仕方がない。やりどころのない気持ちに、俺はなぜだか涙を流していた。
「あれ? え? ごめん……そんなつもりじゃ」
ミサキが俺から体を離し、あたふたとしながら立ち上がる。ドタドタとうるさい音がしたかと思うと、俺の目元に何かが当てられた。
「と、とりあえずこれ使って?」
ミサキがハンカチを俺の顔に近づけていた。俺は「ありがとう」と小さく言って、流れた涙を拭う。深呼吸をして、これ以上目から何も溢れないように祈った。
美咲に対しても何か言っておきたいが、今回ばかりは誤解でもなんでもなく、弁解の余地はない。そもそも、何度も自分に言い聞かせているように、俺は美咲の何でもないんだ。それに、そもそもあいつだって好き勝手してるんだし──。
「サークルの人?」
少しの静寂の後、ミサキがゆっくりと尋ねた。
「そう。後輩」
「みさきって言うんだ?」
「うん」
「苗字?」
「名前」
「へえ」
ふーっと俺は目一杯の息を吐く。
「そのみさきちゃんのこと、好きなの?」
「……」
また俺は答えられない。我ながら情け無い。また泣きそうだ。
「あたしと同じ名前だから?」
「それは違う……いや、どうだかな」
ミサキのその問いには反射的に答えたが、改めて考えると自信がない。ミサキがいなくなり、同じように俺に接してくれた女子のことをその代わりにしていたのかと言われれば、俺はそれを完全に否定しきれない。
ミサキはまた俺の肩に手を置いて、頭を背中に乗せる。
「もしかしてキスしたのも?」
「あー、それはまた別」
「何それ。ユウくんモテモテだな」
ミサキは肩に置いた手を脇の下に潜らせて、俺の胸を抱く。
「ユウくんは本当に隠しごと下手」
「そうかな」
「そうだよ。ううん、あたしもごめん」
ミサキの言葉に、俺はまた思い出す。そうだ、それよりも俺は彼女に言わないといけないことがあって。
「俺の方こそ、謝らないと」
「何が?」
ミサキの吐息が背中にかかる。こんな時でも勃起をし始めるのは、朝勃ちのせいだと思いたい。
昨日のことを俺は改めて思い返す。俺はミサキに吸い寄せられるように肌を重ねた。頭を支配する快楽をもっと欲しがってミサキを求めた。
「俺、その、中に、何も」
俺はさっきスマホを取り出したばかりで、チャックの開いた自分の鞄をちらりと見る。あの中には、古宮さんと一緒にラブホに行った時にもらったコンドームが未開封のまま、まだ入っている。
「俺、夢中で。ゴム、してなかった」
そうして事実を言葉にして、また俺は血の気が引く。やってしまった。バカが。自分の欲望に任せて、俺は何も考えずに──。自分への嫌悪感が高まる。このまま誰か喉を掻っ切ってくれて構わないと思ったが、そんなものは逃避に過ぎないと頭の中で色々な思いが逡巡した。
なんでこんなことをしてしまったのだろうと思いながらも、そんなことを思ってしまってはミサキに悪いとも思う。後悔と苦しみと、快楽と欲求を肯定しようとする気持ちの板挟み。
「ごめん」
自身の顔を覆い、目を閉じる。そうしないと、また情け無くも涙が溢れそうだった。
ミサキはそんな俺の気持ちを知ってか知らずか、鼻息を吐く。
「そんなこと?」
「そんなこと、ってダメだろ」
「あたし、低容量ピル飲んでるから大丈夫だよ」
「ピル?」
そういえば古宮さんに聞いたことあったっけ。毎日低容量ピルを飲んだ時の避妊率は99.7%でコンドームよりも高いとか。そんな風に、データ好きでセックス好きの彼女が、得意げに語っていたことを思い出す。
「でも、絶対じゃない」
「そんなこと、何したってそうだよ。動揺し過ぎ」
そうなのかもしれない。ミサキの言う通り、俺は初めてのセックスで動揺し過ぎているだけなのかもしれない。
「あ、でも本当にできたらユウくんに責任取ってもらわなきゃ」
「取るよ」
「……あっはは」
ミサキは俺の背中からまた顔を離す。俺もミサキの方を向き直す。一糸纏わぬ姿のまま、正座の体勢で座っているミサキは、困ったように自分の頬に両手を当てていた。
「真面目だなあ、ユウくんは。だから好きなんだけど」
ミサキは「ふう」と口から一息吐く。
「ちょっと困らせようとしただけなのに」
「えっと」
「それにユウくんを誘ったのはあたしだから」
「でも」
「もう! だから、そんな泣きそうな顔することないの!」
ミサキはムッとした顔で俺を睨みつけた。
「そっか、ごめん」
「ユウくんはごめん禁止」
なんか前も似たようなことあったな。
「とりあえず、服着たい」
「えー、このまま寝ないの?」
「でも」
「さっきはごめんだったけど、あたしがまたユウくんとキスしたいってのは嘘じゃないよ?」
ミサキは俺に向けて、両手を広げる。
俺の頭の中では、さっきの電話のことが頭に引っかかっている。昨夜、俺は自分の欲望のままミサキとキスをして、身を重ねたけれども、今の俺は臆病にも、彼女に自分から近づくことができない。ちくしょう、手に力が入らない。俺がこんなにダメな奴だとは思わなかった。
真面目だとか言われても、そんなのは言葉だけだ。
ミサキはまた鼻息を吐いて、膝立ちをして首に手を回し、俺の頭を正面から抱きしめる。ミサキの胸の重みが、直に顔を圧迫した。
「ごめんね、初めてだもんね」
謝る彼女の声は、その言葉とは裏腹にとても嬉しそうに聞こえる。
「ふふ、ユウくんの初めて、もらっちゃった」
「……」
「わかった。着替えよっか。そうだなー、下はそのままで良いとして、多分グッズTシャツあると思うんだよね」
ミサキはすっくと立ち上がり、裸のまま寝室から出ていく。俺はぼけっとその様子を見送る。バタバタとした音が引き戸の向こうから聞こえてきて、しばらくするとミサキが下着を身につけて戻ってきた。手には中に服の入った未開封の袋をふたつ持っている。ミサキはその袋をふたつとも開いて、片方を俺に投げた。
俺はミサキから投げられた服を広げた。桔梗エリカのキャラクターが印刷されたTシャツだった。
「ほら!」
ミサキはいつの間にか自分の分のシャツを着ていた。少しサイズが大きめで、シャツだけでショーツまで下着が全部隠れている。
俺も広げたTシャツを着た。サイズはピッタリだが、素材が少し安っぽいのか、布の感触が気になる。
「お揃いだねー」
ミサキは楽しそうにそう言って、ベッドのしたに落ちていたスカートを拾ってから少し考えこむ素振りをして「えい」とベッドの上に放った。
「いいや、ユウくんの服と一緒に洗濯するからしばらくこのままで」
「……下なんか履けよ」
「今更いーでしょ」
よくはない。けれど、それ以上俺は何も言わなかった。
「俺は流石に下は履きたい」
俺は部屋の中をきょろきょろと見回す。服どこだ。
「下着はコンビニで買ってくるか。そうだ、腹減ったろ。朝飯も買ってくるよ」
「コンビニ行くならあたしも下履かないと」
「いや、ミサキはあんまり……俺と一緒に外にいない方がいいんじゃないか?」
俺は自分の着ているTシャツに印刷された桔梗エリカのイラストを見下ろす。
コンドームなしでセックスをしてしまったことも、俺の美咲に対しての気持ちが整理し切れていないのもそうだが、それよりもこいつは一応アイドルなんだった。
駄目だ。考えることが多過ぎて何もかもを投げ出したくなる。けれど、ここで投げ出してしまってはそれこそただのクズ野郎に成り下がってしまう。
「ライブでしか顔出ししてないって言っても、ヤバいもんはヤバいだろ」
「あんま気にし過ぎることもないよ。彼氏のいる地下アイドルって多いよ?」
「そうかもしれないけど」
そうなのか? 俺はあまり地下アイドル事情に詳しくないからわからない。野々村先輩や古宮さんなら詳細を答えられるかもしれないけれど。
「いいよ、俺だけで行く」
「置いてかれるの嫌だ」
「洗濯物あるだろ、戻ってくるって」
「その服で行くの?」
「まあ、しょうがないだろ」
俺は未だにぶるぶると震える手を、反対側の手で押さえつける。それから部屋の端にあるダンボールの上にあった自分のズボンを履いて、俺のことを上目遣いで見るミサキの頭を撫でた。
「じゃあ行ってくるから」
「すぐね? 連絡送るからね? あ、電話繋げる!?」
「それでも良いよ」
俺はミサキに手を降って玄関まで足を運ぶ。ミサキもその後ろをついてきて、俺が靴を履くまでじっと俺のことを見つめていた。
「行ってきます」
俺が言うと、ミサキがまた俺に唇を重ねた。今度は俺も拒まなかった。
「行ってらっしゃい」
俺は改めて手を振って、玄関の外に出た。
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