ディアーナ

第1話

 長い夢を見て、一晩の夢を見て、そして覚めて、すべて思い出にするしかなかったことがある。

 その思い出の中で、私は弓をつがえて、永遠に行くことのない大地を駆けている。

 従兄弟から譲り受けた、少しサイズがダボついた詰襟を着ていた頃の話だ。


 私が生まれ育ったのは、列島の南方の、ちっぽけな島だった。

 耕すほどの土地がないから、大体の家が漁業を営んでいて、自分の両親も例外ではなかった。

 物心ついたころには既に潮風の臭いが嫌いで、学校からの帰り道、家とは反対側の林を抜けて、独り、寂れた山に登っていた。

 塩気の強い風が吹きあたるから、山には背の高い木はあまり生えていない。硬く水気の少ない草を、野良牛が食んでいるのを眺めているのが好きだった。

 牛は、明治の頃に、島外から牧畜を試みようと持ち込まれ、結局この小さな島では続かず、放置され、取り残されたものが野生になって繁殖したものだと言われていた。

 絵本やテレビで見るようなでっぷり太った畜牛とは違って貧相な見た目をしていたが、それでも彼らは気楽に生きているように見えた。

 そうやって寄り道をして家に帰ると、ひどく父に叱られたものだ。どの家の子どもも、小学校に上がって読み書きを覚えるより先に、家の手伝いでたも網の修復の仕方を覚えたものだ。

 夏も冬も、朝も夜も、水仕事を手伝うので、いつも手が荒れていた。島は水に囲まれているのに、私の体には常に水が保たれている気がしなかった。


 どの家もたいがいに等しく貧しかったが、一戸だけ例外があった。いわゆる庄屋の一族は、本土の役所から入る金や、島に唯一の旅館を営むことで、常に懐が潤っていた。

 旅館に泊まるのは公人が仕事で来るときだけで、だいたいは寂れているのだが、一度だけ、島が外部からの観光客で沸いた時期がある。

 きっかけは一枚の写真だった。

 オカルトブームの黎明期、島のなんてことのない風景の写真の片隅に、UFOが写っているとかで、スポーツ紙や夕方のバラエティ番組に取り上げられたのだった。

 寂れゆく貧しい島に新たな観光資源ができたと、自治体がそれに便乗して宣伝をして回った。

 島には都会から連日人が押し寄せた。本土の人たちは標準語を話して、おしゃれな服を着こなして、島の不便さに文句を言いながら入れ替わり立ち代わり現れた。

 庄屋の一人息子は私と同級生で、私とは相いれない男だった。都会の空気に憧れ、都会の人々が現れることにはしゃぎ、そのくせ島の外にへ行くことなど人生で一度も考えることのない男だった。

 島外から来た人々の気を引くために、彼がUFOを見たとホラをふくのを、私は冷めた目で見ていた。彼の言葉に惑わされて、多くの観光客がカメラを片手に、彼の生活圏をあちこち駆けずり回っていた。

 私はUFOなんて信じていなかったし、宇宙に興味もなかった。私の興味は昔から、どうにかしてこの島を離れて自由になりたいという一点で、しかし、その方法を具体的に見つけられないまま、中学の卒業の日を迎えようとしていた。


 東京で大雪が降っただとか言う、私たちの生活には何のかかわりもないニュースが一日中TVで流れていた日だった。

 その日も私は授業が終わった後、独りで裏山に出かけていた。

 島は風が吹くと寒く、分厚い上着を着こまなければならないが、生まれてこの方、雪が降ったのを見たことがない。

 そのよく晴れた日、いつもの場所に、牛は一頭だけだった。夏に比べると、少し太っていた。越冬のために脂肪をため込んでいるのかもしれなかった。もくもくと枯草を食む様子をぼんやり眺めていると、突然、頭上がきらりと光って、目がくらんだ。

 私は息を呑んだ。さっきまで草を食んでいた牛が、宙に浮いていた。

 私も驚いていたが、牛も驚いたように、食んでいた草の一部を口から取りこぼして、あたりを見回していた。

「ま、待って……!」

 その、わけのわからない状況で、どうして私は、牛が誰かに攫われようとしているのだと、判断できたのかわからない。

 ただ、直観でそう感じて、私は牛に駆け寄って叫んだのだった。

 息苦しい島の生活の中で、かれら野良牛だけが私の友であり、彼らを眺める時間だけが、私の慰めだったのだ。

 それが壊されようとしている状況に、私は激しく動揺した。

「牛を、連れて行かないでくれ……!」

 そう叫ぶと同時に、もう一度、眼がくらんだ。

 思わずきつく閉じた瞼を開いたとき、私は、見知らぬ場所にいた。

 空の色も、大気の色も、大地の色も、何もかもが、地球とは違う、と感じた。

 そして、目の前にいたのは、見たこともない生き物だった。

 宇宙人といえば、銀色の滑らかな肌と、異様に大きな頭部をもつ二本足の生きものか、タコのような形状のものだろう。しかし目の前にいたのは、名状しがたいグラデーションの虹色をした、粘液に包まれた軟体で、手足の数は多いがタコともイカとも違う形状だった。

 気味の悪い姿に思わず悲鳴を上げかけると同時に、の指の一本がこちらに伸びてきた。

 素早い動きを避けることができなかった。指は私の額を突き、そのまま、私の意識には侵入してきた。

 宇宙の果てから地球にやってきたの、目的も、牛を攫ってどうするつもりだったのかも、結局わからない。

 その短い交流の中で、私たちは言語も思考も共有することができなかった。

 私たちが交換できたのは、感情とイメージだけだった。

 私は、彼の母星での孤独と鬱屈を感じることができた。それはこの小さな島で長年私が持て余してきたものに似ていた。

 私たちは私たちの半生を交換した。彼は私の島での暮らしを垣間見、私は彼の母星での暮らしを垣間見た。人間とはかけ離れた文明と生態なのに、彼の焦燥や寂寥を通じて、受け入れることができた。

 私が彼について理解できた唯一の事実は、彼が狩人であるということだった。

 彼は牛を狩りに地球へやってきていた。理由や目的は結局わからない。そして彼は、私がこの島の牛を愛している感情を共有してくれた。

 私たちはともに、別の牛を狩りにいくことにした。遠い遠いどこかを駆けまわりたいという私たちの感情のエネルギーが、私たちを遠い遠い未来、もしくは過去のどこかへ飛ばした……。

 私たちは、地平線の果ての果てまで見渡せる、荒涼とした大地にたどり着いた。

 そこには何故だかわからないが、バッファローの大きな群れが、すべてを破壊しながら突き進んでいた。轟音が鳴り響き、土埃が舞い、時々、哀れな人々の悲鳴が聞こえた。

 私は彼に、地球での狩人のあり方を教えた。私たちは弓をつがえ、矢を放ち、雄々しい角を振るう勇ましいバッファローを仕留めた。

 私たちは奪った命を悼み、悲しさと昂ぶりを分かち合い……。

 そして、ふいに私たちの別れの時が訪れた。

 何故彼は再び地球を去らなければならないのか、私にはその理由を理解できなかった。ただその事実だけを知っていた。

 彼の、粘液に包まれ、乾燥を知らないであろう手に、私の手指が包まれた。それは、彼らの母星での別れの挨拶の仕草だったのだろう。

 そして、私と牛は、ちっぽけな島に戻ってきた。


 私の、たった一人、私だけの夢。あの宇宙人との邂逅を、誰に話すわけがあるだろうか。

 私は今でも、UFOの目撃や、宇宙人との遭遇を自慢気に語りメディアに露出するような人々を見ると、まるで理解ができないと思う。

 そしてその度に、あれ以来ささくれもあかぎれもできなくなった自分の手指をなぞり、思い出を反芻する。

 この常に潤う手指さえあれば、結局島から一歩も出れずに終わるであろう自分の人生も、悪くはないような気がしてくるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ディアーナ @madokanana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ