息を継ぐもの

春りんご

1章

父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。

しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。

――『ルカによる福音書』22章42節



 これが彼の墓場なのか。帰ってきて初めて、堤井はそう思った。

 幸浜こうはま音楽ホール。新しく清潔で現代チックなこの建物と墓場は似ても似つかない。

 それでも堤井つついにとって、この建造物は墓場という他なかった。

エントランスに設置された液晶掲示板には、『堤井誠二せいじ凱旋ピアノコンサート』の文字が踊っている。

 ここに自分の名前が刻まれているというのが未だに夢のようだ。あるいは悪夢そのものと言ってもいい。だって刻まれるべきは堤井の名前ではないはずなのだから。

 このホールは、堤井の母校である幸浜高校が近隣の高校との合併により取り壊され、その跡地に作られたものだった。

 掲示板の横にはモニターが並べられており、そこから会場内のステージの様子が窺える。その中にはかつての学校の面影が少しだけ残っていた。ステージの中央にはこれから堤井が演奏するグランドピアノが鎮座している。

 そしてそれと同じぐらいの存在感を放っているのが、壁際の古いパイプオルガンだった。この楽器こそ、彼と堤井の高校時代を象徴するものだ。

 あれからもう十五年になる。

 十五年前、堤井はある天才を殺した。


 堤井は人のために生きるのが嫌だった。誰かのために動いて不利益を被ったら、絶対にその誰かのせいにしてしまう自信がある。勘違いしないでほしいが、だからといって人のせいにしたい訳じゃない。そんなことをしたって事態が何も好転しないことを、堤井は理解している。むしろこの性格は、誰のせいにもしたくないという気持ちが人一倍強いが故のものと言えるかもしれなかった。自ら引き起こした事で身を滅ぼすならまだ割り切れる。しかし自分で制御できない不利益は災害のようなものだ。堤井はそんな理不尽に耐えられない。

 その点、堤井がピアノを選んだのは正解だった。芸術は一に自分のために為すものだ。回り回ってそれが誰かのためになることもあるだろう。それを拒むことはしないし、もし見聞きした人を幸せな気分にできたのなら嬉しいとも思う。けれど堤井がそれを理由にすることはない。堤井は自分のためにピアノを弾く。その自覚があるから、どれだけ苦しくても後悔だけはせずに済む。

 だから初めて新川あらかわ一音かずねのピアノを聴いた時も、それが彼の本領ではないと知ってからも、ピアノを諦めようとは思わなかった。ひたすら自分軸の、ある種一貫した己の性質が堤井を挫けさせなかったのだ。ここで挫けていたらあんな風にはならなかっただろうし、ここで上手く挫けられる人がきっと人生に勝つのだろう。そのはずなのに、堤井は今でも後悔せずに生きてこの場に立っている。


 堤井がこの春入学した幸浜高校は、公立ながら音楽に力を入れていることで有名な学校だ。なんでも大昔に建設されたパイプオルガンが、この学校の高水準な音楽教育の元になっているらしい。元はキリスト教由来の学校だそうだが今ではその影はほとんどなく、例のパイプオルガンだけが名残としてある。

 とはいえ堤井が弾くのはピアノでありオルガンじゃない。入学式で見た講堂の一面を飾る大きなその姿に圧倒はされたものの、高校という場所で音楽を学ぶつもりがない堤井には関係のないことだった。高校は高卒資格が取れれば何でもいい。音大を目指す堤井にとって高校はただの通過点だ。それなりに友達と仲良くして、単位を落とさないぐらいに勉強を頑張る。そうやっていれば三年間などあっという間に過ぎる。きっと味気ない高校生活になるだろうが、それで良かった。


 入学式が終わり、堤井たち一年生はそれぞれのクラスに案内された。

席に着くなり前に座った男が振り向き、こちらに話しかけてくる。

「久しぶりだな! うちから幸浜行ったやつ少ないから、堤井が同じクラスで助かったよ」

 そう朗らかに言う彼の顔には見覚えがあった。小学校から同じ学校に通っていた田中たなか清人きよとだ。中学校では同じクラスになることがなかったから疎遠になっていたが、小学校の時はそれなりに仲良くしていた気がする。

「ああ、田中ってお前か。この高校だったんだな」

「そうそう〜まさか堤井も、とはな。でも納得かも! お前ピアノ上手かったもんな」

「いや別にそれは、」

 関係ない、と口にする前にまた田中が話し始める。

「俺はさ、ここの合唱部入るために受験したんだよ。堤井はもう部活とか決めてんの?」

「そもそもあんま入る気がないんだけど……てか幸浜に合唱部なんかあったか? 吹奏じゃなくて?」

 確か幸浜高校の吹奏楽部は有名で、全国大会にも出場経験がある。だが合唱部は聞いたことがなかった。

「部活案内の冊子見てないのか? ほら、ちゃんとあるだろ」

 そう言って田中は冊子を差し出した。その内の一ページの隅に彼は指をさす。そこには確かに合唱部の記載があった。しかしだ。

「総部員数五人って、それ合唱部として成立するのか?」

「ん〜各パート一人以上いるんならギリ?」

「適当だな。ほんとに入りたいのかよ」

「まぁまぁ細かいこと気にすんなよ。それより、どこも決まってないなら一緒に体験行こうぜ!」

「だからどこにも入る気ないんだって」

 やたらと合唱部を推してくる田中にそう言い返すと、彼はふふんと笑った。

「お前先生の話聞いてなかったのか? 新入生は全員、一週間体験入部する義務があるんだよ。結局入らないにしても体験には行かなきゃなんねーの」


 翌日、仕方なく堤井は田中の体験入部に着いていくことにした。特別棟の四階の一番端、そこに合唱部が使用している第二音楽室はあった。かなり広い教室に見えるが、ドアの上に取り付けられた『音楽室』と書かれた木のプレートはひどく古びていて、まさに廃教室同然の様相だ。自分たち以外に入部希望の新入生はいないようで教室の前は閑散としている。講堂に隣接された吹奏楽部のある第一音楽室は、遠目から見ても新入生でごった返していた。同じ音楽系の文化部だというのにえらい違いだ。田中はなんでこんな合唱部に入りたがったのだろう。合唱に興味があるわけでもなさそうだし、それとは別に魅力的な何かがあるとも思えない。

 なんてことを考えていると、扉の向こうから声がした。

「やっぱり俺たちも新入部員の勧誘とかした方がいいんじゃないか?」

「新入部員って要るの? 別に今のままでもバランスいいでしょ。男声二人、女声二人、ピアノがおれ」

 どうやら合唱部員のようだ。ひとりは落ち着いたよく通る声で、なるほど歌うのが似合いそうだった。もうひとり、ピアノ担当らしい男は勧誘に乗り気じゃないらしい。一週間という短い期間の体験入部とはいえ、歓迎されていないとなると気が重い。居心地の悪さを感じながら隣の田中に目をやるが、彼は特に気にも留めていないようだった。

「あのな、合唱コンクールに出るには最低六人必要なんだよ! 去年は諦めたけど、今年こそは絶対出る」

「そういやまもるはちゃんと部活したいんだっけ。じゃあ適当に捕まえてきなよ、おれは待ってるから」

「……わかったよ、お前に何言っても無駄だ。行ってくる!」


 まもると呼ばれた男がそう叫ぶと目の前の扉が開き、音楽室から彼らしき人物が出てきた。そして堤井たちの姿を見て、二、三度瞬きをする。

「も、もしかして入部希望者!?」

「そうです! 一年の田中清人です!」

 目を輝かせる彼に、すぐさま田中が応える。堤井もそれにならって自己紹介した。

「いやぁ二人も来てくれるなんて嬉しいな! 俺は二年の石爪いしづめ護。合唱部の部長だよ」

 石爪ははしゃぎながらそう言った。身長が高く、高校生にしては大人びた声色なのに、どこか小動物じみた愛嬌がある。こうまで喜ばれてしまうと、今更合唱部に入るつもりはないとは言いづらい。そうやって石爪に流されるようにして、堤井たちは音楽室に通された。

 田中の後ろに着いて扉をくぐる。随分古い扉で、閉める時にぎぃっと木の軋む音がした。足を踏み入れると思ったより狭い部屋なのがわかる。二つの教室が繋がっているようで、一つの部屋の大きさは普通教室と同じぐらいだった。授業でも使われていないらしく、片隅に机と椅子がまとめて重ねられている。五線の引かれた黒板の前にはグランドピアノが置かれ、そこに1人の男が座っていた。

「おい一音! 入部希望者だ!」

「戻ってくんの早。幻覚じゃないの」

 手にした楽譜から顔も上げず、その男は興味なさげに言い捨てた。

「幻覚じゃない! ほら、田中くんと堤井くんだ」

 石爪が駆け寄って楽譜を取り上げる。するとようやく彼はその目をこちらに向けた。

 その顔を見て、美人だな、と思った。目の上で重たく切り揃えられた前髪は、下手をすると陰気に見えてしまいがちだ。だが彼にはそれを突っぱねるほどの目力があった。全く気崩されていない制服も、不思議と堅苦しさや野暮ったさを感じない。単調で均整の取れた造形なのに、どこか掴みどころがない、そんな印象だった。

 彼はこちらを一瞥だけすると、石爪に向けて口を開いた。

「こいつら誰?」

「いやさっき言っただろ。こっちが田中くんで、こっちが堤井くん」

 堤井たちの肩を引き寄せ、彼の前に突き出しながら石爪が言う。

 するといきなり、田中が一歩前に進み出た。

「あの、田中清人と言います! 新川一音さんですよね、お会いできて光栄です!」

 緊張気味に放たれた田中のその言葉に面食らう。彼の様子から見て、田中が合唱部に入りたがっていたのは、この新川一音がいるからなのだろう。堤井が知らないだけで彼、新川は有名人なのかもしれない。確かにモデルだとか言われても納得する容貌だ。彼はそれぐらい人の目を引く力がある。田中がそういう芸能人に興味があったというのは意外だけれど。

「あ〜おれのこと知ってる人だ」

 新川は満更でもないのか、少し表情を和らげた。だが口の端は依然として皮肉げに歪められたままだ。堤井に芸能人の心情なんて知る由もないが、同じ学校内、部活内にファンがいるっていうのはどうなんだろう。やりづらそうだな、と勝手に思う。

 なんとなく新川に哀れみに近いような、そんな目を向けていると、彼の目もこちらに向いた。言外におまえは?と聞かれているようで、慌てて堤井も自己紹介する。

「えっと、堤井誠二です。よろしくお願いします」

 彼はふん、と首を傾けるだけで他に何も言おうとはしなかった。コミュニケーションを取る気がないらしい。良い気はしないけれど、こっちだって合唱部に入りたいわけじゃない。むしろ入らない言い訳ができて好都合だ、と思うことにする。

 しかし田中はそうじゃなかった。このやり取りを見かねて、堤井の肩を叩きながら言う。

「堤井はピアノが上手いんですよ!ピアノだったら、かず……新川先輩にも負けないかも、なーんて」

「おい田中!」

「堤井くん、そうなのか!? 有望な新入部員だな!」

 余計なことを言う田中を咎める堤井をよそに、石爪が弾んだ声を上げる。だがそれを良しとしない人間がいた。

 「は? ピアノはおれがいるんだからもう要らないでしょ」

 つまらなそうな態度から一変、新川はあからさまに不機嫌になっていた。田中が気まずそうに堤井の方を見てくるけれどもう遅い。

「何言ってんだよ一音。俺たちが卒業したら今んとこピアノできる人いないんだし、いるに越したことはないだろ」

「おれたちが卒業した後のことなんか知らないよ。護が作った部活なんだから、護が卒業したら終わりでいいじゃん」

 石爪が窘めるも、彼の気がおさまることはなかった。ここまで剥き出しの敵意を見せられると、むしろ清々しいまである。けれど普通に不愉快だ。関わりたくない。体験期間が終わったらすぐに逃げよう。堤井はそう心に決めた。

「そんな期間限定の部活に誰が入りたいんだよ! 合唱は一人でやるんじゃないんだ、一音にはわかんないかもしれないけど」

「……わかってるつもりだよ。今更やなこと言うなよな」

 そう呟く彼は、仲間はずれにされた子どもみたいだった。部室内に微妙な空気が流れる。

 その時扉が開く音がした。

「ごめんね遅れて。あれ、新入生?」

「ほんとだ〜! 来てくれて嬉しいな」

 入ってきたのはポニーテールとショートカットの女子生徒二人だった。上履きの色からして石爪たちと同じ二年生だろう。

「おい並本! 自分の教科書は自分で運べよ!」

 後に続いて、教科書の束が詰まった袋を両手に抱えた男子が駆け込んでくる。それを見て、石爪が泣きそうになりながら彼女らに駆け寄った。

並本なみもと正見まさみ樹原きはら〜! おまえらナイスタイミング! それじゃあ、部活を始めようか」


 体験入部期間も既に三日が過ぎた。一週間とは言うが、合唱部は土日は休みなので、実質あと二日で体験は終わる。あれから変わったことと言えば、三人ほど一年の女子が体験に来たことぐらいだ。そのまま彼女たちはこの部に留まっているから、おそらくは本入部するつもりなのだろう。

 合唱部の人たちはみんないい人だと思う。人数が少ないのもあってか、仲が良くて空気が穏やかだ。

 なんでも石爪と樹原里支さとし、並本隣花りんかは小さい頃からの幼なじみらしい。石爪が合唱部を作る時、彼がに二人に部に入ってくれと頼み込んだのだと言っていた。

 樹原は体格がよく、パッと見は運動部のようだ。だが並本には頭が上がらないようで、文句を言いながらも顎で使われているところをよく見る。

 並本は短い髪ときゅっと上がった目尻が印象的で、見た目通り強気で活発な人だ。やはり男二人と長年一緒にいると男勝りな性格になっていくのだろうか。

 そしてその並本と仲がいい正見智雪ちゆきは、彼女に誘われてこの部に入ったそうだ。ひとつに纏めた長い髪が大人っぽい顔立ちによく似合っている。穏やかな人で並本と友人だというのが不思議だが、正反対の性格の方が上手くやれることもあるのだろう。

 幼なじみの彼ら三人と正見はよく馴染んでいて、傍目から見れば全員が昔からの仲良しみたいだった。

 その中で彼、新川一音はやはり異質だった。あれから新川は一度も部に顔を出していない。そのことについて石爪は、「よくある事だから気にすることないよ」と笑っていたが、本当だろうか。先輩達はそんな彼に呆れつつも、仕方ないな、と許しているような雰囲気があった。あれだけ攻撃的な人間が受け入れられて、愛されているようなのが分からない。田中は彼がいないことで気を落としていたが、堤井はむしろ安心していた。

 このまま堤井が体験を終えるまで来なければいい。堤井には彼の陣地を荒らす気などさらさらないのだから、これ以上無駄に攻撃されたくない。しかしなぜだかもう一度彼の姿が見たい気もする。あの一切取り繕わず嫌悪を顕にする、その素直さだけは好ましかった。ただそれだけでしかないが、先輩達が彼を憎めないのもそれが理由なのかもしれない。

 

 四日目の体験が終わり、堤井と田中は下駄箱に向かっていた。ほとんどの部活がもう活動を終え、廊下はしんと静まり返っている。

「なぁ、やっぱり堤井は合唱部入る気ねぇの?」

「ないよ。俺あの人に嫌われてるみたいだし」

「一音さんに? そんなこと……まぁ、確かに、そうかもだけど」

 田中は下駄箱に着くまでずっと「でもなぁ」と呟いていたが、知らないふりをする。こればっかりは諦めてほしい。

 鞄から持ち帰らない教科書を取り出してロッカーにしまった。するといつもより鞄が軽い。よく見てみると、筆箱が入っていなかった。

「筆箱、部室に忘れたかも」

「まじ? 四階まで上がんのだりぃな。先帰ってるわ」

「おう。じゃあな」

 田中と別れ、堤井は急ぎ足で階段へ向かった。

 三階まで上がった所で、もう先輩達も帰っているはずだから鍵が掛かっている可能性に思い至った。だったら職員室に一度戻らなければならない。職員室は一階だ。余りの億劫さにうなだれた時、どこからかピアノの音色が聴こえてきた。それなりに近く聴こえるから、その音の出処は第二音楽室のはずだ。誰かが使っているのなら鍵も開いているだろう。助かった。堤井は軽い足取りで四階へ登る階段を駆け上がった。

 音が近付くにつれ、そのピアノの技術が相当に優れていることに気付いた。堤井とてピアノの腕には自信があるし、同年代のコンクールではそれなりの好成績をおさめてもいる。しかしこのピアノを弾く誰かは、堤井より確実に上手かった。一体誰が弾いているのだろう。筆箱などそっちのけで、堤井はその姿を見るために音楽室へと足を早めた。

 ようやく音楽室の前へ辿り着くと、その扉を開けるのが惜しい気がした。もっと聴いていたい。堤井が中へ入ることでその演奏を止めたくなかった。しばらく扉を背に演奏を聴いていると、やがて曲が終わりを迎え、音が止んだ。

 意を決して堤井は扉を開いた。窓から入り込んだ西日が目に飛び込んでくる。眩しさをこらえ、音の持ち主を探る。グランドピアノの前に座るその背には見覚えがあった。

「新川先輩?」

 声を掛けると、彼は静かに振り向いた。柔らかそうな黒髪がさらりと揺れる。新川は堤井の姿を認め、眉をひそめる。それからなぜか少し戸惑ったような顔をした。

「聴いてたの」

「……はい。すごく、上手でした。どこでピアノを習ったんですか?」

 これだけ上手ければコンクールなどで名前を知っていてもおかしくないはずなのに、堤井は新川一音なんか知らない。だから堤井はそう尋ねた。

「ピアノを上手く弾くのに、誰かに習ってなきゃいけないわけ?」

 馬鹿にするような口振りで彼は言う。堤井に対する皮肉のつもりだろうが、そこには彼の本心も混じっている気がした。上手くあるために理由は要らない。ない「理由」を求め、決めつけるのは、相手に対する侮辱だ。

「失礼なことを言いました。すみません」

 素直に詫びると、彼は深くため息をついた。

「そういう顔しないでくれる? おれもピアノについては天才じゃないからさ、なんで上手いのか納得のいく理由を付けてやれるよ。……オルガンをやってたんだ。パイプオルガン。全然違うものだけど、鍵盤を押す技術は活きるから」

「パイプオルガン、ですか」

 人生をピアノ一つにかけてきた自分より上手いのに、簡単に天才じゃないと言ってのける彼に苛立ちを覚えないといったら嘘になる。しかしそれより腑に落ちる気持ちの方が大きかった。

 扉を開けて、その音が新川のものと知った時、堤井は正直驚いた。彼のピアノは文句無しに素晴らしい。まるで豪華な料理を映えさせるための美しい銀食器のような、悪目立ちしない上品な音だ。

 しかし新川一音という我はきっとそんなものじゃない。彼について何を知ってるわけでもない、ただ一言交わしただけの、ちょっと苦手な先輩だ。だがそれでも見えるものはある。

 彼を語るには、ピアノでは音色が足りない。それが見えたのは多分、新川がピアノを弾き、堤井がピアノを弾き続けてきたからだった。その不足を知りたい。それを知るための共通言語を、堤井は持っている。

「新川先輩、俺にピアノを教えてもらえませんか」

「……なんでそうなるわけ?」

 堤井の言葉に新川は目を丸くした。それから意味がわからない、といった風に眉根を寄せる。

「俺より上手いから、じゃ駄目ですかね」

「上手かったら誰でもいいのかよ。おれ、お前のことだいぶ邪魔者扱いしてたよね? もしかして気付いてなかった?」

「気付いてましたし普通に嫌な人だなと思ってました」

「面と向かってそう言われるのは腹立つ。けどその感情は間違ってないよ。今の方がよっぽどおかしいから。おれのピアノが上手すぎるせいでバグらせちゃったのかな……」

 彼は敵意の矛先がわからなくなり困惑しているようだった。

「なんでもいいです。で、どうなんですか」

 堤井が畳み掛けるように問いかけると、彼の常に強気な瞳がぐらりと泳いだ。唇は引き攣ったように震えている。その表情は年相応で、なんというかちょっとかわいい。縄張り意識が強い人は、その内に入ってしまえば案外弱いらしい。そのことを堤井はここで初めて知った。

「いいよ。でも合唱部のピアノ担当の座は渡さないから」

ややあってそう言った彼の言葉にはまだ刺が残っているが、それで十分だ。

「構いません。ありがとうございます、新川先輩」

「その新川先輩ってのやめてくれる? おれ一音って名前が好きだから、そっちで呼ぶがいいよ」


 翌週の月曜日、今日が体験入部最後の日だ。放課後、今日も堤井は田中と共に音楽室に来ていた。鞄には本入部の申込用紙が入っている。昨日まで入部する気は一ミリもなかったからその用紙の存在をすっかり忘れていたのだが、ちゃんとあって助かった。

 部室には彼もいた。またつまらなそうにピアノの前に座っている。田中が石爪に用紙を手渡す。それに重ねるようにして堤井も、少しよれた紙を差し出した。驚く田中と喜ぶ石爪の反応に、妙な気恥ずかしさが湧く。

 だが振り切って、堤井は彼に向かう。

「それでいいですよね? 一音先輩」

 それを聞いて初めて、一音は堤井に笑って見せた。彼の衒いのない笑顔は想像よりもずっと綺麗で、思わず見蕩れる。

「苦しゅうないね。これからどうぞよろしく?」

「はい。よろしくお願いします」

 田中をはじめ、全員のざわつく声が聴こえる。何が起きたのか、なんて堤井だって知りたい。

 堤井が聴いた一音のピアノは、新川一音という大木のほんの小さな枝先に過ぎないだろう。しかしそこに咲く見た事のない花が美しくて、そして何より、言いようもなく不自然で。堤井はそこから目が離せなかったのだ。だから知りたい。何がその花を咲かせたのか、その正体が見たい。こうして堤井は幸浜高校の合唱部員になった。


「なぁ、一音先輩ってどんな人だ?」

 昼休みの教室。目の前で弁当を頬張る田中にそう聞くと、彼はぐっと身を乗り出してきた。

「お? とうとう堤井も一音さんの魅力に気付いたか? っつーか、気になってたんだけど!!」

「何だよ」

 一音についての話題に目を輝かせたかと思えば、急に不満そうな顔になる。堤井を恨めしげに睨みつけてくるが、何が気に障ったのか分からない。

「その一音先輩ってやつ! な〜〜に馴れ馴れしく名前呼びしちゃってんだよ!? こっちは一音さんって呼びたい気持ちを必死に押えて本人の前では新川先輩って呼んでんのに!!」

 田中は唾を飛ばす勢いで、わざとらしく怒り散らした。こんな彼は初めて見る。しかし怒る内容がくだらなすぎる。そんなこと言われても堤井にはどうしようもない。

「その本人にそう呼べって言われたんだよ」

「はぁ〜〜〜〜〜!? なんっっだよそれ!! なんかいつの間にか合唱部入る気なってるし?一音さんとは親しくなってるし?何があったんだよマジで! いやいい、言わなくていい。聞きたくないから」

「めんどくさいな……。お前も呼べばいいじゃん、一音先輩って。別に怒らないだろ」

「無理。一音さん直々に許されてるお前にはわかんねぇよ、俺の複雑なオタク心なんか……」

 喜んだり怒ったり、いきなり落ち込んだり、感情が忙しいやつだ。堤井はそれを無視して話を戻す。

「はいはい、で? あの人って元々なんなの? オルガンやってたって聞いたけど」

「俺が説明するより見た方が早いと思うぜ。ほら」

 田中はそう言ってスマホとイヤホンをこちらに渡した。それを受け取り、イヤホンを耳に差し込む。


 画面に表示された動画に映っているのは、どこかの音楽ホールだった。中央には巨大なパイプオルガン。長さの異なる無数の銀のパイプが金の細工に縁取られキラキラと輝いている。この学校にあるオルガンも相当大きかったが、これとは比べ物にならない。学校のものがパイプの家なら、ここに映っているものはまさしくパイプの城だった。二階にせり出した楽廊には演奏台コンソールと、楽器の大きさに不釣り合いなほど小さな長椅子がぽつんと置かれている。

 そこに画面の端から一人の男の子が歩いてきた。一目見て分かる。一音だ。中学生ぐらいだろうか、未成熟な細い体からは長い手脚が伸び、それを覆う黒のタキシードがやけに大人っぽい。そんな彼の姿は、パイプオルガンの荘厳な様相と重なって得体の知れない神々しさを纏っていた。大して親しくもない先輩の過去を覗き見ていることに、今更ながら罪悪感が沸いてくる。

 その時画面の中の一音がこちらに――正面の客席の方に向いた。口を固く引き結び、どこか焦点の合わない目で客席を見回す。それから彼はゆっくりとお辞儀をした。その一連の洗練された所作は美しく、機械的で冷たい。一音が堤井との初対面の時に見せた刺々しい態度とはまた違って、目の前の客を認識すらしていない無情さがそこからは滲んでいた。

 椅子に座り、鍵盤の下にあるスイッチのようなものを押す。演奏が始まった。低く重厚な金属のパイプの声がうなりを上げる。だが不思議なことに、彼の指は鍵盤の上に置かれたまま動いてはいなかった。カメラが切り替わり、足元が映る。そして気付いた。彼は足で演奏していたのだ。

 堤井はパイプオルガンについての知識はほとんどない。鍵盤を押して弾くのだからピアノと似たようなものだと思っていたのだが、その認識はあっけなく崩れ去った。足元に広がる鍵盤の上を、先の尖った革靴が踊るように動く。やがて指もそれを追うように足とは違う旋律を奏で始めた。

 二つの音が合わさった瞬間、堤井はオルガンというものが何なのか、その輪郭を掴んだ気がした。

 まず驚かされたのはその音色の多様さだった。ピアノは音色はひとつであり、その強弱の差をつけることによって音楽を表現する。しかしオルガンは、複数の音色が、ひとつの楽器に含まれる大量のパイプから放出されていた。まるで一人でオーケストラを動かしているみたいだ。そしてそれを全身を使って指揮する奏者は、さながら全てを従える王である。

 これがオルガン、そしてこれが、新川一音。

 あんなに素晴らしく見えた彼のピアノが、どれだけささやかで優しい光だったことか。本来の彼はこんなに苛烈で痛いほどの光を放っていたのだ。

 両手と両足がまるで違う生き物のように細やかに動く。それなのに一切バラバラには聴こえない。全てなのに独り、圧倒的な個である一音に、堤井は魅了された。

 《パッサカリアとフーガ ハ短調》(BWV582)。後で知ったことだが、これはバッハが作ったオルガン曲だった。堤井もピアニストとしてバッハの曲に何度か触れてきてはいるが、オルガンのための曲として作られたこれは初めて聴く。三声部から四声部にわたる複雑な動きを要されるこの曲を、一音は完全に操っていた。

 最後に厳かな和音が響き、指が鍵盤から離される。立ち上がり、演奏前と同じように彼はお辞儀をした。二階から客席を見下ろす一音の表情は、あれだけの演奏をした後でも冷たい。隔てられたその距離がそのまま新川一音と人間との距離に思える。

 観客が手を叩く音がぱらぱらとまばらに響く。拍手万雷とは言い難いそれは、まだ若い彼がこれを弾きこなしたことへの放心か、それとも戸惑いのようなものなのか、その場にいない堤井には判別できなかった。

 ただこの演奏が恐ろしいほど魅力的であることは間違いない。正しいオルガンの奏法など堤井は知らないけれど、それだけは確かだ。

 しばらく呆然とした後、イヤホンを耳から抜き取る。そうすると昼休みの教室の喧騒が帰ってきた。スマホとイヤホンを田中に返すと、なぜか彼は苦い顔をした。

「なんか、堤井に見せなきゃよかったかも……。そういう反応されると気まずいっつーか、俺の方が先に好きだったのに、的な」

「……俺どんな反応してた?」

 あれを聴いていた自分は一体どんな顔をしていただろう。ほとんど我を忘れて演奏に没頭してしまっていた。田中はさらに眉を顰めるとそっぽを向く。

「言わせんな。言ったら本当にそうなりそうで嫌だ」

 どういう意味だよ、と聞こうとすると、彼が穏やかなトーンで遮る。

「でもまぁ分かるぜ? 俺は音楽とか全然わかんないけど、一音さんの演奏聴いて、オルガンってやべぇな! って思ったから」

「そうだな。俺もオルガンはよく知らないけど、あれは凄いと思う」

 凄い、の一言に内包される言い表せない感動を、田中は恐らくその実体験をもとに見抜いているのだろう。彼はため息をついて卵焼きを口に放り込んだ。堤井も残った弁当を片付けにかかる。いつもより味がしないそれは、けれど不快じゃなかった。


「ピアノを教えろとは言うけどさ、おれ教えたことないからどうやればいいのか分かんないよ」

「それでもいいです。俺が弾くので、違和感あるとことか指摘してください」

 合唱部の練習後。堤井は一音を引き留め、ピアノと対峙していた。一音はピアノの横に余った椅子を置き、そこに足を組みながら座っている。ふらふら揺れる足は堤井と同じ上履きに包まれていて、あの演奏をした足だというのが嘘みたいだ。

 ゆっくり息を吐き出し、鍵盤に向かう。自分から頼んだ手前逃げ出す訳にはいかないが、彼に演奏を聴かせるのがこんなに緊張するものだとは思わなかった。冬の寒い日のように固まる指を軽く揉み、堤井は最初の音を鳴らした。

 堤井が選んだのはモーツァルトの《ピアノソナタ18番》、モーツァルトが最後に作曲したクラヴィーア・ソナタだ。これを弾こうと思ったのは、一音の《パッサカリアとフーガ》を聴いたからだった。

 この曲も彼が弾いた曲と同じく、対位法的な手法が使われている。八分の六拍子、ニ長調で進む第一楽章。アップテンポで軽やかな印象のこれは、《パッサカリアとフーガ》のような重厚感とは全く異なる。しかしあの回る指と踊る足に似たものがあると、堤井は思う。

 あの演奏を思い出しながら指を動かす。そうするといつもより鍵盤が軽く感じられ、いつの間にか緊張は解れていった。

 演奏を終え、恐る恐る一音を見る。彼は思案げな表情で堤井とピアノを見比べた。

「お前はどういうピアニストになりたいの?」

「どういう……わかりません」

「理想のピアニストとかは? いる?」

「ぱっと思いつく人は、いないかもしれません。ピアノそのものが好きなので」

 好きなピアニストはいくらでもいる。けれどそれが理想なのかと言われるとぴんとこなかった。ピアノが好きで、ピアノをこの先もずっと弾いて暮らすにはピアニストになるしかない。ただそれだけで今まで弾いてきたのだ。

 煮え切らない返答をする堤井に、彼は目を細めた。羨望と嘲りが混じるようなその目線にたじろぐ。彼がそんな目をする理由がわからない。

「堤井って結構、自分勝手なんだね。だけど演奏にはほとんど癖がない。へんなの」

 たった少しのやり取りだけで「自分勝手」判定されるのには納得いかないが、そう言う一音がなんだか楽しそうだったので堤井は黙った。

 実際、自分勝手だというのは本当だろう。自分のためだけに弾く。それが許されているのは、ピアノが誰も傷つけない楽器であるからだ。これが武器や兵器ならそうはいかない。

「好きって気持ちは大事だよ。続けていくのに一番重要なことかもしれない。ただそれを通すには圧倒的な個性か、何にでも対応できる柔軟さが必要になる。今のお前はどっちもない。個性がないのに我が強すぎるんだ。水が食べ合わせを気にすんなって話だよ」

 かなりキツいことを言われている気がするが、彼の言葉は純粋に響く。一音の実力を分かっているからかもしれない。歳はひとつしか違わないはずなのに、その差が大きすぎる。

「あんまり独りよがりになりすぎるな。居場所あってこその音楽だよ。……まぁ堤井の演奏なら居場所がなくなることはそうそうないだろうけどね!」

「それ褒めてます? けなしてます?」

 含みのある物言いに思わず食ってかかると、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。

「褒めてるよ。ふわふわの毛玉振り回したところで武器になりようもないもん、脅威かそうじゃないかってのはピアノ以前に対人関係で最重要視すべきじゃん」

「ピアノはともかくとして、あんたに対人関係を説かれたくないです! 俺、初対面の時のあんたの態度忘れてないですから。それにやっぱり馬鹿にしてるでしょ」

 彼の笑みにほんのり影が落ちる。いつもは鋭い目力も、少し伏せられると柔らかく見えた。でもどこを見ているのか分からない故に居心地が悪い。

「喜べばいいのに。無害であることは立派な才能だよ。あといい加減忘れてよ。あれはあいつ……なんだっけ、お前と一緒に来たもう一人の一年。あいつが俺よりお前のピアノの方が上手いとかぬかすから」

「田中です。そういやあいつ、一音先輩って呼びたがってましたよ。呼ばせてやったらどうですか」

「やだね」

 即答だ。名前を忘れられている挙句、嫌だと言われる田中が少し哀れに思えてきた。可哀想な彼のため、食い下がって理由を尋ねる。

「なんでですか、名前の方が好きって言ってたじゃないですか。それに俺だけそう呼ぶと僻んでくるんで、なんとかしてください」

「あいつにはそういう一線が必要だろ。存分に僻まれてな」

 悪戯っぽく上目遣いをしてくる一音が憎らしいほどにチャーミングで、堤井は言葉に詰まる。そんな風に言われると僻みぐらい受けてやろうという気になってしまう。それに一線を引くべきだというのは正直分からないでもない。ある意味田中のための措置とも言えるだろう。心の中で田中に謝りながら、せめてもの抵抗として一音を睨み返した。


 一音の部活態度がろくでもないことは程なくして知れた。体験入部の時に彼が部に来なかったのは、堤井を避けるためもあるだろうが、普通に面倒くさかったのも半分あったらしい。本入部をしてからはそのとばっちりを堤井が受けることになった。

「堤井くんがいて助かるよ〜!悪いけど今日も音取りお願いね」

 ちっとも悪いと思っていなさそうな声で、並本隣花はそう言った。

 合唱部では基本、ピアノの音に合わせて歌の音程を覚えていく。そのために誰かがガイドメロディーとしてピアノを弾かなければならないのだが、合唱部の中でそれができるのは一音か堤井だけだった。だから一音がいなければ当然その役目は堤井に回ってくる。

「ごめんね、私も弾けたらいいんだけど。発声練習のピアノぐらいならできても、曲を弾くのは初心者には難しくて」

 並本の隣に立つ正見智雪が、本当に申し訳なさそうに詫びる。

「智雪はよくやってるって! あたしなんか、発声のやつすら弾けないから」

「隣花は練習しないからでしょ。あなたの方が筋が良さそうだし、真面目にやればきっと私より上手く弾けるよ」

「どうかな〜? ま、だとしても今は堤井くんがいるからあたしの出る幕はないよね!」

「確かに、堤井くんはすごく上手だし。上手い人がやる方が良いっていうのはその通りね」

 別に音取りぐらいならある程度詰まらず弾けたらそれで十分だろう。そう思うけれど、あえて口にすることでもない。適当に愛想笑いを浮かべているとそこに田中が割って入った。

「俺たちが入る前はどうやって練習してたんですか? その、新川先輩が来ない時は」

「ピアノの音を録音して流してやってたよ。でもそれだと巻き戻したりテンポ落としたりするのが大変だから、結局ピアノでやるのが一番なの」

 彼の問いに正見はそう答えた。それに重ねて並本が不満を垂れる。

「だから一音がいない時はほんと捗らないっていうか! 困っちゃうよね、去年はゆるっとやってたから良かったけどさ」

 彼女に視線を投げられた石爪が苦笑いする。

「あいつもあいつなりに多少頑張ってるっぽいんだけどな。元々俺が無理に誘ったみたいなもんだし、もう半分諦めてるよ」

「いや護が諦めたら終わりだって。今更抜けるとか言われたら嫌だし、構ってやれよ。お前あいつの保護者だろ」

 そう言う樹原はぶっきらぼうだが、それなりに一音に対する仲間意識のようなものはあるみたいだ。並本も文句を言いつつその顔は穏やかだった。

「いつから保護者になったんだよ! ……とりあえず堤井くんのおかげで一音のご機嫌取りをしなくて良くなった。ありがとうな」

 石爪に感謝されてしまい、吸い込む空気に棘が混じるのが分かる。それはある種の疎外感だった。一音の代わりにされていることへの反感か、一音をそんな風に言える彼らへの嫉妬か、多分両方だ。

「ちぇっ、堤井ばっかずりぃ。俺もピアノ練習しよっかな」

 そんな堤井の気持ちも知らず、田中が呟く。ずるくなんかないと言い返したいが、きっとそれも嫌味に聞こえるんだろう。

 こういう時だけは自分がピアノを弾けることが少し嫌になる。口をとがらす田中をなだめる先輩たちの笑い声が耳に痛い。なんの役目も与えられず、それでも彼らに受け入れられている田中が堤井は羨ましかった。互いにないものねだりなんだろうとは思う。でも彼のようにずるい、と口に出すことは、こちらには許されない。そんなことを言えば、「才能があるくせに、求められているくせに」と言われるのがオチだ。だからせめてそれを不公平だと心の中で吐くことぐらいは許されたいのに、それを聞いてくれる人は誰もいないのがどうにも遣る瀬なかった。


 GW開けの初日、幸浜高校のあるこの街は今年初めての真夏日を観測した。梅雨明け前だというのに尋常じゃない暑さだ。この異常気象が当たり前になるのかもしれないと思うとげんなりする。

「あっちぃ〜! プロのオルガン演奏聴けるのは楽しみだけどさ、この暑さで講堂はきついわ」

 手で首元を扇ぐ田中のシャツの袖は、肘まで捲られている。ついこの間までブレザーを羽織って丁度いいぐらいの気温だったのに、やっぱり春が短すぎる。

「だな……。演奏する方もきついだろ。こんな時期にやるもんじゃないよ」

 今日は文化学習の一環として、プロのオルガニストが学校に来て演奏することになっている。そのために堤井たち一年生は、この暑さの中で空調もない講堂に押し込められていた。だが一番地獄なのは演奏者だろう。それを分かっているからあまり大きな声で文句は言えないが、こんな誰も得をしない催しをやるな! というのが本音だ。

 それはそれとして、田中の言った通りプロのオルガンが生で聴けるのは純粋に嬉しかった。ピアノもそうだが、管楽器のような音が響くものは特に、生で聴くのと録音で聴くのではギャップが激しい。だから一度は生でオルガンの音を聴いてみたかったのだ。入学時はどうでもいいと思っていた講堂のオルガンが、今ではまるで違って見える。一音の影響をモロに感じてちょっと悔しいが、それだけじゃない。彼の演奏を抜きにしてもパイプオルガンは面白い楽器だと、堤井は思っていた。


「皆さんこんにちは。オルガニストの前田まえだ啓洋あきひろです。そしてこの幸浜高校の卒業生でもあります。ですから今日ここで演奏することができて、とても嬉しいです。本日はどうぞよろしくお願いします」

 教頭に促され登壇したのは、四十代ぐらいの中年男性だった。背筋がぴんと伸びていて、髪にも艶と清潔感がある。いかにも勝ち組の大人といった風体だ。

「皆さんはオルガンのことをどこまでご存知でしょうか? 今日はまずその歴史からお話しようと思っています。少々長くはなりますが、お付き合いください」

 彼は話しながら壇上を歩き、オルガンの前で足を止めた。そしてひとつ鍵盤を押す。フルートのような、力強くも柔らかい真ん中のドの音が講堂内に響いた。

「見ての通り、オルガンは鍵盤を押すことによって発音する鍵盤楽器です。皆さんに一番身近な鍵盤楽器といえば、やはりピアノでしょう。実はそのピアノの元となったのがこのオルガンなのです」

 解説をする彼の生き生きとした表情が、オルガンへの愛を伝えてくる。一息つき、その歴史を語り始める。

「ここにあるのはオルガンの中でもパイプオルガンという種類のものですが、その起源は紀元前に作られた水オルガンになります。水オルガンとは水と空気を利用して音を出す楽器です。しかし安定した空気の供給ができず、音にばらつきが出てしまうのが難点でした。それからふいごという装置が発明され、安定して空気を送れるようになったのが現在のパイプオルガンです」

 さらっと放たれた紀元前という言葉に愕然とする。気が遠くなるほどの昔に、これほどの楽器の原型が既に作られていたなんて信じ難い。

 水オルガンとやらを想像してみるが、紀元前と目の前のオルガンが上手く結び付かない。ぼうっと想像にふけっていると、彼がまた話し出したため、堤井も慌てて意識をそちらに戻した。

「パイプオルガンにはその名の通りたくさんのパイプが付いており、それに空気を吹き込むことで音が鳴ります。ですからその音はピアノというより管楽器に近い。また十五世紀には、オルガンの鍵盤の仕組みを利用したチェンバロという楽器も生まれました。こちらは管ではなく弦を鍵盤と掛け合わせており、弦楽器のような音を奏でます。パイプオルガンとチェンバロ。どちらもよく似た鍵盤楽器でありながら、掛け合わせるものの違いにより、その音は全く異なるということです。しかしこの二つには同じ弱点があります」

 なんだと思いますか、と聴衆に投げかける。疑問符を浮かべる会場をゆっくり見渡してから、彼はその解答を口にした。

「それは鍵盤を叩く強さでは音の強弱は出せないこと。そこでパイプオルガンでは、複数のパイプを組み合わせて音を大きくしたり、パイプの入った箱の扉を閉めることで音を小さくしたりします。チェンバロなら、レジスターというスイッチを入れ、自動で上段と下段両方の鍵盤を押すなどといった手法で音に厚みを出します」

 そう言って彼はオルガンの椅子を引き、ペダルを踏む。するとその上部に露出していたパイプ群が、扉の内側に隠された。音を鳴らす。扉を閉める前に比べると音が小さく、こもっているのがわかった。原始的なわかりやすいシステムだ。

「対して音の強弱を打鍵の強弱のみで表現できるようにしたのが、ピアノフォルテ。いわゆるピアノです。音楽の授業で勉強したことがおありだと思いますが、ピアノは弱く、フォルテは強く、という意味です。このピアノフォルテという名前は、打鍵による強弱がつけられないオルガンやチェンバロとの比較によって生まれたものなんですね」

 習っている以上、ピアノの正式名称が「ピアノフォルテ」だということは知っていた。しかしオルガンやチェンバロという楽器の特性ありきのものだとは思わなかった。別の角度から見て初めて気付くこともある。当然のことかもしれないが、こうして実感するとずっと楽しい。

 それから十分ほどオルガン講義が続き、本題である演奏が始まった。

様々な曲、様々な音色が講堂を埋める。

 パイプオルガンには各パイプごとに特色があり、トランペットのような音、ホルンのような音、クラリネットやオーボエのような音、色んな音を出すパイプがひとつの楽器に納められている。

 前田の話によると、その中のどのパイプを鳴らすか決めるのが、「ストップ」と呼ばれる鍵盤の隣にずらっと並んだレバーらしい。そのレバーを引くとレバーに対応した音が鳴るというわけだ。トランペットのレバーを引けばトランペットの音が鳴り、複数の楽器のレバーを引けば、それこそオーケストラのような音の厚みが出る。

 引くストップを曲ごとに変え、組み合わせていき、彼は音楽を作っていた。ピアノとは全く違う原理で音を魅せる楽器。改めて堤井はパイプオルガンの魅力を知った。

 しかし、その興味は楽器に対するものでしかなかった。一音の演奏を聴いた時のような音そのものへの熱はなく、明日には忘れてしまうような薄い関心が湧くだけだった。

 一体何が違うのか、今ここに響くオルガンの音色から意識を逸らし、彼の演奏を思い出す。そしてはっとした。

 前田の演奏はオルガンが王なのだ。一音は一音自身が楽器を操る王であったが、前田はどちらかというと楽器に操られる従者に見えた。 

 もちろん彼はプロであるし、卓越した技術を持っていることは間違いない。これだけ大きく音の幅も広い楽器だ。楽器の魅力を最大限引き出すという意味では、従者に徹する前田の演奏も正しいのだと思う。

 けれどやっぱり、堤井は一音のオルガンが好きだ。それが彼の演奏を聴くことではっきりした。堤井が魅了されたのは、全ての音を受け入れ理解した上で矛盾も不和も無視して一つの曲に纏めあげる、傲慢な一音の演奏なのだ。

 前田の演奏を最初に聴いていたなら、ここまでオルガンに興味を持つこともなかっただろう。堤井にとっての至上はどうあがいても新川一音だった。ただの部活の先輩に抱くには重すぎる憧れ。ずっとそれだけであれば良かった。憧れはどれだけ重くても、ひたすらに純粋だった。

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