あおいの場合

第2話 あおいの世界


 わたしはどこにでもいる地方の子供だった。


「ねぇねぇ、アイドルフェスタ見た?」

「見た見た! ムンディバ、生で見てみたかったーっ」


 放課後の校門を出ると、空は薄いオレンジ色に染まっていた。

 アスファルトには水たまりがいくつも残っていて、雲の切れ間から差す光が反射して眩しい。

 吹き抜ける風に、冬の匂いが混じっている。

 そんな中で黄色い声を上げる友達の手には雑誌の切り抜き。聞こえてきたのはテレビで流れたアイドルの話だった。

 わたしは盛り上がっている会話にも興味はなく、隣を通り過ぎる。


「ねぇ、あおいちゃんは興味ないの?」

「うーん、外で遊んでる方が楽しいかな」

「まだ子供だねぇ」


 通り抜けようとした瞬間に、少しだけ馬鹿にしたような笑顔を投げかけられる。

 そんなこと言われても困る。好きじゃないものは好きじゃない。

 体育館の横を抜けると、砂ぼこりが足にまとわりついた。遠くで野球をしている声がする。 空の色はもう夕暮れから青に変わり始めていて、世界全体がゆっくり冷えていく気がした。


「うーん、そっかなぁ」

「キラキラしてて、スゴイじゃん。可愛いし、カッコいい!」


 わたしが首を傾げながら、どうにか吐き出した言葉に、切り抜きを差し出される。

 そこには綺麗な衣装を着てメイクをばっちりした女の子たちが映っていた。

 みんな同じような笑顔で、衣装も髪も似ていて、どれが誰かもわからない。

 見せてくれた人たちに興味を引く人はいない。わたしの心には何も残らない。

 わたしはさらに深く首を傾げるしかなかった。


「ちょっと、わたしには分かんないかな」

「えー」


 わたしはため息を飲み込んだ。

 沈みかけた太陽が、校舎の窓に長い影を作っていた。ガラスに映る自分の顔が、どこか他人みたいに見える。

 キラキラした世界よりも、吹き抜ける冷たい風の方がリアルだった。

 わたしは覚悟を決めて、友達の話に付き合うことにした。


「……誰が好きなの?」

「あのね!」


 わたしは、しばらく見知らぬアイドルの話に付き合った。


***


 晩ご飯のあとの家は、味噌汁の香りがまだ残っていた。

 テレビの音が小さく流れて、お母さんが食器を洗う音がする。

 外は虫の声が響き、秋の夜独特の冷えた風が網戸を通り抜けていった。


「お風呂上がったよー」

「さっさと髪乾かして寝なさい」

「はーい」


 ドライヤーの温風が頬に当たる。

 鏡の前でぼんやり自分の顔を見つめると、そこに特別な何かはなかった。

 普通の顔。普通の髪。普通の毎日。

 嫌なわけじゃない。だけど、胸の奥でなにかが物足りなくて、言葉にならなかった。


『アイドルになるのは誰か』


 テレビから響いた声にドライヤーを止める。

 この時だけ、アイドルの声が聞こえたのは運命だったのかもしれない。だって、初めてアイドルという単語に手を止めたのだから。

 画面の中には、たくさんの人がいた。

 綺麗な人から可愛い子まで。たくさんいるのに、わたしの目にはたった一人だけ輝いて見えた。

 画面の中で、女の子が笑う。その瞬間、空気が変わった。声も、動きも、他の誰とも違う。

 まるで自分にだけ届くように、画面の向こうからまっすぐ見つめてくるように思えた。


「……誰、これ?」

「新しく入ったメンバーの紹介だってさ」


 九条美月。テロップに出た、その名前を焼き付ける。

 九条美月。もう一度、唱えれば胸の奥が熱くなる。

 世界がスローモーションになっていく。


「可愛い」


 漏れた一言がわたしの人生の全てになった。 きらきらした。どきどきした。世界が輝いた。わたしはこの時、初めて生きていることに感謝したのだ。


「なんだ、なんだ? あおいもアイドルに興味を持つ年頃か?」


 側にいたお兄ちゃんのニヤニヤした顔も気にならない。

 画面の中で美月さんが笑うたび、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 知らない世界の光が、部屋の暗がりを照らしているようだった。


「なんてアイドルなの?」

「Daughtersだよ」

「ドーターズ?」


 画面から顔を少しだけ動かして聞き返す。

 お兄ちゃんはすぐにスマホの画面をスライドさせた。

 画面を指でなぞるたびに、知らないステージ、知らない衣装、知らない歓声が現れる。

 それがすべて遠い場所の話なのに、どうしてか近く感じた。


「そ、定期的にメンバー募集してる、国民的アイドルグループって奴だ」


 国民的アイドル。

 テレビの向こうでしか存在しなかった言葉が、初めて現実に触れた気がした。 遠くの星のように見えていた“光”が、手を伸ばせば届く場所にあるかもしれない。


「また募集するの?」

「するだろうな」

「そっか」


 それから、色々調べた。

 アイドルの側に寄る方法。ううん、美月さんの隣に行く方法。

 テレビ局に入る方法や、マネージャーになる方法も調べた。だけど、最短で近づくには方法はひとつしかない。


「わたし、Daughtersに入る!」


 そう両親に宣言したのは、わたしが美月さんに出会って1年経たないくらいだった。


 ※


 あれから3年。わたしは高校生になった。

 親がどうしても中学の間は勉強するようにと言ったからだ。 美月さんがいなくならないか、ずっとはらはらしていた。


「ここがオーディション会場かぁ」


 わたしは周囲を見回した。

 さすが全員可愛い子ばかりだった。 だけど、自分が美月さんの隣に行くためには受かるしかない。そのために様々な練習をしたのだから。


「これで美月さんに会える」


 それだけがわたしのモチベーションだった。

 建物の奥に続く廊下は、消毒液と香水の匂いが混ざっていて少し甘い。

 足元に響くスニーカーの音や、遠くで誰かが練習している歌声が細く聞こえる。

 大きなガラス扉の向こうでは、スタッフが次々に名前を呼んでいた。

 番号のシールが貼られた胸元が、心臓の鼓動に合わせて揺れる。

 ここから先の空気は、もう“日常”じゃない。


「13番、遠野あおいさん」

「はい!」


 舞台のように広い会議室。白い照明が眩しく、床はワックスで磨かれてぴかぴか光っている。

 冷房の風が少し強くて、手のひらの汗が急に冷えた。

 元気よく返事をする。アイドルの面接の正解なんてわからない。ただ素直に答えるだけ。


「憧れの人はいますか?」


 憧れの人。そんなのは一人しかいない。 わたしは出会ったときから、ずっと変わらずある情熱をそのままに声を出した。

 ここで名前を出さなければ、わたしは何者にもなれない。そんな予感がした。


「九条美月さんです!」

「へぇ、美月……なんで?」


 質問した人とは違う人から問いかけられる。 その顔をわたしは、いやオーディション会場にいる全ての人は知っていた。

 グループプロデューサーのケイツーさんだ。

 数人の審査員が並び、その真ん中にケイツーさんが座っている。一番若く見えた。

 わたしは美月さんのことが話せるのが嬉しくて笑顔で答える。


「最初に見たときに一目惚れしましたっ」

「一目惚れ? そんなに可愛かった?」


 ケイツーさんが目を瞬かせる。

 壁際にあるカメラが一斉に動き始めた気がして、心臓が痛くなる。

 彼女はオフィスカジュアルなスーツを着ていた。緩い着こなしなの、いるだけで場の空気が締まる。


「はい、衝撃でした! あの人の隣に立ちたくて、オーディションに応募しました」

「他のアイドルは?」

「Daughters以外詳しくありません」


 わたしのバッサリした答えにケイツーさんが口角を上げる。一瞬、笑ったような、見透かすような表情。

 会場の隅に座る審査員の一人が、興味深そうにペンを止めた。

 空気が少し動く。冷たい蛍光灯の光の中で、わたしだけが熱を持っている気がした。


「美月以外じゃなくて?」

「一応、先輩方については勉強しました」

「そう」


 ケイツーさんの視線が鋭くなった瞬間、全身の血が一気に上がる。

 まるで審査というより、真っすぐに試されているような目だった。

 何も隠せない。呼吸のリズムすら見抜かれそうで、喉が少し鳴る。

 だけど、逃げたくはなかった。


「美月は歌もダンスもレベルが高い。その隣で踊れるの?」

「そうなるつもりです!」

「じゃ、歌ってみて」


 突然の振り。

 ダンスと歌のオーディションは別のはずだったから、びっくりした。

 だけど、歌えと言われたなら、歌う。

 それが美月さんの隣に行くための方法だから。 わたしは大きく息を吸い込んだ。


「決まりだな」


 ケイツーさんが何か言いながら書類に何かを書き込む。

 ペンの音がやけに大きく聞こえた。 会場の時計の針が動く音さえ、今のわたしには響く。

 歌い終えたあと、胸の奥がまだ熱を持っていて、冷房の風がそれを冷ます。

 ケイツーさんが顔を上げ、わずかに笑った。 その瞬間、光が差し込んだような気がした。

 わたしは、ついにその扉の前に立ったのだ。

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