ある一般男子大学生の遠征

千艸(ちぐさ)

異国で独り歩きしようとした僕が悪いんだけどさ

 ……暑い。

 よく考えたら当然、八月の香港は東京と同じくらい暑いんだろう。

 でも昨日まではホテルと大会会場とを往復する生活で、日中に外を出歩くことはなかったから、今日自由行動になって初めてそれを実感することになった。

 僕は大学のサークルの用事で香港に来ている。チームが国内大会で優勝し国際大会に出場することになって、その大会会場が香港だったのだ。

 結果は四位、まあ僕はメインメンバーではなかったので、正直裏方としての悔しさよりも、チームの健康管理担当として無事に誰一人体調を崩させることなく全力を出させてやれたことの満足感の方が大きかった。

 それで気が大きくなったのか。

 香港科技大学との見学交流会を僕だけ蹴って、香港大学の医学部……シン醫學院というらしいところを見に行ってみようかな、と思い立った、のだけど。

 地下鉄の香港大学駅を降りると、ものすごい熱気。

 地下でこれだと、地上が思いやられるな……。

 僕は売店に寄って水を調達してから、エスカレーターに乗った。


 地上は風が強く、意外にもむしろ過ごしやすい体感温度だった。というか結構、森。いや、うちの大学も森っちゃあ森だから、どんぐりの背比べというやつだろう。


「すみません、リカシン医学院はどこですか?」


 適当にその辺の学生っぽい人に声を掛ける。


「えっ……?」


 僕の発音が悪かったのか、それともクリスこのからだのデカさに圧倒されたのか、声を掛けた相手は困ったように聞き返してきた。


「あー、あの、医学部はどこ?」

「ああ、あっちの端の方だよ、災難だねー」

「ああ……確かに遠いね、でも大丈夫、ありがとう」


 そう言って僕は愛想よく手を振って別れ、真顔に戻って山の向こうを見た。

 いや、もうホント山の向こうという表現が正しい気がするくらい遠く見える。広い……さすが海外……。

 中にレンタル自転車なんかあればいいんだけど、多分無いんだろうな。高低差もあって、自転車だけでは移動しきれなさそうだ。

 ま、今日は一日フリーだし。

 僕はペットボトルの口を開けて水を数口飲んでから歩き出した。



 スマホでキャンパスの特徴を見ながら、この辺かな、と思うところまで来た。

 平日だから学生が往来していて賑やかだ。僕も目立たない。ちょっと休憩したくて空いているベンチを探したけど、早弁の時間なのかサブウェイのサンドイッチ片手に談笑する連中でだいたい埋まっていた。

 あ、良いなぁサブウェイ。僕の主食なんだよね。お腹空いてきた、どこで売ってるんだろう。


「クリスさん?」


 突然背後から声を掛けられて振り向いた。

 振り向かなけりゃ良かった。

 だってこの体はクリスだけど、僕はリノで。

 こんな異国の地に知り合いなんかいるわけなくて。

 つまり声を掛けてきた相手は、きっと……


 顔を見る。

 赤い髪の、女の子。

 インカーかと一瞬思ったけど、

 インカーより少し暗い髪の色と茶色い瞳、小柄で華奢な体躯。

 間違いない。

 


(……クリス〜!!

 お前いつの間にこんな可愛い子と知り合いになってんだよ!

 どういう関係だよ! 反応しちゃったじゃん!!

 君のこと忘れちゃったよ〜って言って良い奴なの!?)


「……えっと、ごめんなさい、僕?」

「わ、英語で話すと違和感ありまくりですねー! ……いや、そうか、あれ!? そうですよね!?」

「あの、ごめんね。クリスのこと知ってるみたいなんだけど、僕実は記憶が……」

「私のこと知りませんよね!?」

「無くって……えっ?」


 いや、確かに知らないんだけど。変なこと聞いてくる奴だな。


「そりゃそうですよねー! しまったごめんなさい! 忘れて下さいー!」


 逃げようとするかのように回れ右した彼女に、僕は慌てて声を掛けた。


「待って! ……サブウェイの場所、教えてほしいんだけど」




 数分後、僕は呼び止めた女の子と二人でサブウェイの列に並んでいた。名前は、アイリーンというらしい。


「アイリーンちゃんは、なんでクリスのこと知ってるの?」

「えーと……夢というかですねー……」

「夢? 何それ、クリスなんか有名人にでもなってたの?」

「ん、まあ、そんなところですかねー!」

「いつの間にそんなことに……」


 僕は呆然としてしまった。

 僕は今はクリスだけど、僕がこの状態になってからは心当たりのない話だ。僕、ただの大学生だし。

 てことは、この状態になる前。僕とクリスが入れ替わる前……クリスがクリスだった、四年前より過去の話ということになる。

 何があったんだ?

 配信者でもやってたのか?

 やってたとしても、僕があいつと住んでいた期間じゃない。

 僕があいつと別れて留学し、帰ってきて凶行に及ぶまでの間。

 ほんの数ヶ月のことだ。


「でもごめん。悪いけど、さっき言った通り、僕はもうクリスじゃない」

「はい、それは何となく分かりましたー。どっちかというと……」


 そこまで言って、はた、と彼女が口をつぐむ。

 どっちかというと? つまり、クリスの周りの人間を他にも知ってるということか。例えば、僕。

 僕は彼女がどこまで知ってる人間なのか興味が湧いてきた。


「どっちかというと、リノみたい?」

「……そうですねー」

「正解だよ。僕は、リノだ」

「からかわれてますー?」

「まあ、信じるかどうかはさておき……ちょっとした事故で入れ替わっちゃったんだよね」

「はあ、事故ですか。刃傷沙汰とかじゃなくて良かったですー、じゃあリノさん側も無事なんですねー!」

「部分的にそう」

「部分的に?」

「刃傷沙汰だったし、あっちはそんなに無事じゃない」

「結局そうなるんですか! もーっ! 何でそんなこと平気で言えるんですか! いい加減にしてくださいよ!」


 急に叱られた。

 しかも割とガチトーンだ。

 僕は面食らってアイリーンと名乗る女を眺めた。マジで全然心当たりないんだけど、何でこんなに僕とクリスのこと気に掛けるんだ?


「あ、いえ! 失礼しましたー、取り乱しました」

「……結局、ってどういう意味? 君の夢の中で、僕とクリスに何かあったの?」

「まあそれこそ、信じては貰えないと思うんですけどー……おっと、順番ですよ! まずは腹ごしらえしましょう!」


 サブウェイのサンドイッチの注文方法は、だいたい日本と同じだ。でも、野菜は明確にどれを入れるか言わないといけないらしい。


「オニオンとオリーブ、以上」

「やっぱ偏食なんですねー!」


 フフ、と笑われる。笑われたんだけど、不思議と嫌な気分にはならなかった。完全にアウェーな場所で、どうやら自分を知ってる人がいるってのは、割と真面目に安心する。


「別に、食えなくはないけど、好き好んで入れようと思わないだけ」

「気持ちは分かります! やっぱりサブウェイといったらカスタマイズが醍醐味ですからねー! 私はやったことないですけど、肉四倍とか野菜全部マシっていうカスタムもあって、それはそれは暴力的な……」

「お嬢ちゃんお嬢ちゃん、ソースはどれにすんの?」

「C18H32O2で!」


 店員さんに熱弁を遮られて笑顔で組成式を返答するアイリーン。

 えっと、二価不飽和脂肪酸か。主に植物性油脂に含まれるんだっけ?

 いや、そんな表現通じねーだろ。


「今日はC18H34O2しかないよ」

「そんなー!」


 常連か。僕は呆れて隣を見た。


「君は?」

「……この子と同じので」



 お出しされたのはバジルソースだった。

 へー、オリーブオイルって一価不飽和脂肪酸なんだ。知見……。

 ま、嫌いじゃないので有難くいただくことにする。

 アイリーンがまとめて支払おうとするのを引き止めて、案内のお礼に僕が二人分支払った。彼女は素直に奢ってもらわれつつも、「今度は私の番なのに……」なんて言っていた。

 やっぱり、なんか事情があるっぽい。


「アイリーンちゃんって医学生?」

「私は薬学ですねー! でも学部的には医学も薬学も同じなんですよー。リノさんはここに見学に来たってことは進学希望ですかー?」

「ああいや、僕ももう大学生だよ。二十一歳」

「はひっ、追いつかれるとこでした……」

「いや差が変わることはないでしょ。てことは年上?」

「レディに年齢聞くなんてさすがリノさんですねー! 二十二歳ですー」

「意外だなぁ……」


 ベンチで二人並んで食べるのは気が引けたのか、アイリーンは空いているテーブルを探し出してくれた。どっちにしろカップルに見えかねないのは一緒だと思うんだけど、飯を食うならテーブルがあった方が有難い。


「でもホントに僕のことも知ってるんだね。一個上か、中学は日本に居たとか?」

「いえ……その、お互い信じてもらえるか分からない話してるんでもういっそ話すんですけどー……」


 アイリーンはそこで言葉を区切り、アイスティーをひと口飲んで真面目な顔つきになる。



「パラレルワールドって、信じますか?」

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