どこから香る芳しさ
@ihcikuYoK
どこから香る芳しさ
***
――おや、またできている。
にぶい痛みを感じ、手元を見たところ薄い皮が小さくピロピロとその存在を主張していた。着るときに服の繊維が引っかかってめくれてしまったらしい。
僕のもともとの体質なのか、それともただの乾燥なのか、冬の時期はよくできる。
じわりと血が滲んだのを見て、おやおやと思いつつ親指で撫でつける。かさぶたになるときに、この皮もうまく引っついてくれるといいのだが。
「お風呂上がりましたー」
風呂から上がってきた娘が仄かに湯気を上げつつ、リビングへ戻ってきた。その肩にかけたタオルで髪を拭いながら、不思議そうな顔で首を捻った。
「? どしたのお父さん」
「ん? あぁ、ちょっとささくれがね」
乾燥してるもんねぇ、と寄ってきて、
「うわ、血出てるじゃん。地味に痛そ。私、余ってるハンドクリームあるよ」
ちょっと待っててー、とスリッパをペタペタ鳴らしながら、2階への階段を上がって行った。
我が家は、僕と妻と子どもがふたりの4人家族である。
子どもは大学生の娘と高校生の息子。幸いなことに、どちらとも関係はずっと良好である。
子どもができたと報告した十数年前、上司から散々、
『引っつきまわってくるうちが華だ。まだ小さいうちに多少無理してでも遊んでおくんだぞ。なにも子どものためだけじゃない、将来の自分の思い出のためにもだ』
大きくなったら話もしてくれなくなるんだからなと脅され、ある程度覚悟していたのだが、結局娘にも息子にも反抗期は来ず今でもなにげない会話がある。
息子なんて背丈も体格も早々に自分をはるかに上回ったので、
(この子に荒くれた反抗期が訪れたらどうしよう、どう考えても勝ち目はないもんな……)
などと、内心戦々恐々としていた。
だがいつもニコニコとご機嫌な子で、大きくなってから殴りかかられたことはおろか声を荒らげられたことすらない(幼いころは、その肺活量もあいまってご近所に虐待を疑われるほど大きな声でギャンギャン泣かれたし、とにかくすばしっこかったので走りだされると捕まえるのに難儀したが)。
娘とていくらか人より心配性な性格はしているが、聞きわけがよく我儘を言うタイプではなかったし、なぜ駄目かを説明すれば『ふぅん、そうなんだー』で済む比較的育てやすい子だった(ただしちょっとでも矛盾があったり筋が通っていないと、『聞いた話と違う(だから従う気はない)』と、その場で大の字になり意地でも動かない頑固な子でもあったが)。
顔を合わせれば話もするし、こういうことがあったと教えてもくれるが、子どもたちのことをよくわかっているのかと訊かれたら、それはちょっと自信がない。
自分は頼りない父親であるし、年頃とくれば秘密にしたいようなこともきっとたくさんあるだろう。ただ、家族が危ないことをせず悲しい思いもせず楽しく暮らしてくれているなら何よりなことだ、と比較的前向きに受け止めていた。
僕がそう零すと妻はたいてい、
『なにせ私の育て方がいいからねー。感謝してくれていいんだよ?』
などとと言う。
楽天家であっけらかんとした妻には、救われることも多い。
立ち合い出産のときとて、どうしたらいいかわからず始終オロオロしていた僕より、妻の方がずっと肝が据わっていたし、産まれたあまりにか弱く頼りない命をこの腕に抱いたとき、思わず、
『なんだか不安になってきた、ちゃんと父親らしくなれるだろうか……』
と漏らしたら、
『ま、なんとかなるでしょ。なんとかするしかないんだし』
と言われた。(確かにそれはそうだ)と納得したことを思い出す。
妻に言われると、そんな気がしてくるから不思議だ。
なにもかもが初めてで、なにもわからないまま手探りの子育てに追われ、ある程度大きくなり手はかからなくなっていったものの、新たになにか起こるたび、どうしようああしようこうしようなどと言いつつなんとか日々を暮らしている。
ユウは妻に似た。あっけらかんとしつつも本番に強く、肝が据わっている。
うっかりしていて詰めが甘いところもあるが、他の人間だったら落ち込んで塞ぎこんでしまうようなことが起こっても、『まぁ仕方ないもんね』と次の楽しいことを探す切り替えの早さがある。
ヒカリはたぶん、僕に似た。主に、心配性でちょっと凝り性な所が。
ペタペタとスリッパの音が戻ってきた。
「お父さん、青リンゴと石焼き芋どっちがいい?」
「? また変わった2択だね、石焼き芋の気分かなぁ」
「じゃ、石焼き芋ね」
ん。どういうことだろう? と言うと、こういうことーと手のひらサイズのチューブを渡された。チューブは赤紫色で、『おなかが減ったらこの香り☆石焼き芋♪』と、ポップな焼き芋色で書かれていた。
「石焼き芋……。こんなハンドクリームがあるのか」
「珍しいでしょ? 思わず買っちゃった」
どこか得意げであった。その顔を見て、懐かしい気持ちになった。
娘は小さい時からやたらと香り付きのものが好きで、消しゴムからハンドクリームからなにから、必ず香りが付いたものを選ぶ。
おしゃまな頃に子供向けのおもちゃのコロンを買ってやったら大喜びで、お気に入りのぬいぐるみからリビングのクッション、果ては幼いユウの手にまでつけてあげていた。
礼を述べチューブを握ると、焼き芋の中身と同じ濃ゆい黄色のクリームが出てきた。ささくれへと塗り込むと、本当に焼き芋の香りがしてきて笑ってしまった。
「こんな美味しそうな香りをさせたら、なに食べてるんだーって学校で聞かれない?」
「? 学校では面白みのない石鹸の香りを使ってるから平気」
気兼ねなく使いたいから、こういうのは全部家用なの、と口角を上げた。
品行方正に暮らしている娘だが、妻に似て少々変わったものを好む性格をしており、だが僕に似たルール順守の性格も相まって、内と外とで完璧に物を使い分けるようになった。
家の中ではサメが大口を開けたおかしな靴下をはき、カニの爪を模した不思議なボールペンを愛用している。ジョークグッズみたいな日用品が好きで、誕生日になると親しいお友だちはそういうものを探してきて贈ってくれるらしい。
長く娘の部屋には立ち入っていないが、たぶんその手の日用品が溢れているのだろう。
息子は、魚に足を食べられている風の靴下を履いた姉や、肩からナマケモノがぶら下がっている風のTシャツを着た母親を見ながら育ったため、女性は自宅ではおかしな服を着るものだと思い込んでいたようである。
ひとり暮らしの彼女のお宅にて、とても可愛らしい部屋着に着替えてきたその姿を見て驚き、
『? 気ぃ使わなくていいんだよ? 見慣れてるから気にしないし』
俺も家では変な日本語Tシャツ着てるって言ったら笑われちゃって、見たいから今度持ってきてねって言われて、ほんとに変なのしか持ってないのにどうしよ、と恥ずかしそうに報告してくれた。
仲睦まじいことでなによりである。
「どう? 石焼き芋の香りでしょう?」
「ほんとだね、焼き芋の匂いだ」
「石焼き芋だから」
しかし不思議なことだ。自分の手から、こんな甘い香りをさせる日が来ようとは。
「ありがとうヒカリ」
チューブを差し出したが、首を振った。
「それあげる。使いさしだけど、まだ乾燥するし使うことあるでしょ」
「そう? じゃあありがたく」
パッケージを見て、ぼんやりと思った。
「……お父さん、会社で美味しい匂いをさせるおじさんになっちゃうなぁ」
「いいじゃない。人気者になれるね」
「そうだねぇ、困っちゃうな」
経理の中年社員に人気など不要である。
とはいえ黙々と働く会社で、娘の優しい気遣いを思い出せるのはちょっといいかもしれない。明日は憂鬱な月曜日だ、忘れず持っていこうと思う。
玄関の鍵が開く音がした。
「たっだいまー」
「おかえり」
あ、お父さんじゃん起きてたの、と溌剌と笑った。日の変わるような時間帯にも関わらず、真昼間と変わらぬ元気さである。
慣れっこなのか、娘は肩を竦めた。
「終電間に合ったんだね? そろそろ乗り遅れるかと思ったけど」
「足早いもん、走れば余裕ゥー」
最近息子は2週にいっぺんくらいの頻度で隣県の彼女のもとへと通い、だいたい終電で帰ってくる。そして平日は毎日きちんと学校に通い、土曜は親戚の農家の手伝いアルバイトをし、さらには受験勉強までしている。
そんなにあれこれ予定を詰め込んで体は壊さないか、勉強は大丈夫なのか、と訊いたが余裕そうに首を捻り、
『ぜんぜん平気。むしろ家にずっといるとダラダラしちゃうか寝ちゃうかのどっちかだから、体動かすとか移動するとかって時間があったほうが気が紛れていいんだよね』
バイトしてなかったときは部屋の掃除捗りすぎてヤバかったもん、現実逃避しすぎて、と述べた。
必要なら塾だって通っていいんだよと伝えていたが、『彼女に教えてもらうから平気ー』とあっさり辞退されてしまった。家では姉ヒカリに教わり、彼女に会うのにかかる片道3時間の電車内で勉強をして、到着してからわからなかった部分を教わるそうだ。
もはや彼女さんにもヒカリと同じく、家庭教師代を包むべきではなかろうか。
しかし、とんでもない若さと体力であった。
小さい頃から元気がとりえでタフな子だとは思っていたが、あれこれと忙しない生活をしているのにいつ見てもケロリとしている。
我々の年齢からすれば、そんなにあれこれ手を出したらすべてがグダグダになってしまいそうだった。終電での帰宅も、翌日の自分のことを考えると、もうとてもできる気がしない。
実際、『明日早いからお先に~、おやすみ~』と述べた妻は、今頃寝室ですっかり夢の中だろう。
「彼女さんは元気だったかい?」
「うん、元気元気。今日は気晴らしにって学校案内してくれた」
ヒカリが肩を竦めた。
「ユウが音大見てどうするの?」
「え……? 俺、リコーダーかなりうまい方だったよ? スカウトもありえる」
ないない、と娘は手をはためかせた。
ふと怪訝そうな顔をして固まった。そのまま首を捻った。
「……? なんかいいにおいする。皆でおいしいもの食べた? 俺の分もあったりするやつ?」
なにも食べてないけど? と述べた姉を見て、息子はうそだぁと眉をひそめた。
だがヒカリはそういった嘘はつかない。確かに食べ物の香りは充満しているが。
ソファの隣を叩き、手招きした。
「ユウ、ちょっとここに座って手を出してごらん」
「? うん」
手までデッカくなったねぇ、と口からまろび出るところだった。
ムニュ、と出した黄色いそれを、嗅ぐよう促した。目を丸くし従うと、途端にケラケラと笑いころげた。
「~~なにこれ! スイートポテト?」
「違うし。これは石焼き芋だから」
石焼き要素どこなの、と手を嗅ぎなおした。
ちょっと得意な気分になった。
「これいいだろう? お姉ちゃんがくれたハンドクリームなんだ」
「え、そんな喜んでくれてたの。なんか使いさしでごめん」
いやいや、いいんだよ気持ちが嬉しかったんだ、と首を振る。偽りなく、言葉通りの気持ちである。
ユウが隣で、改めて手を嗅いだ。
「こんなのどこで売ってんの? 俺も変なの欲しい」
「普通にバラエティショップだよ。でもこれはもうないかも、期間限定のだから」
「? ハンドクリームに期間限定ってなに??」
「? アイスにもケーキにもあるんだから、ハンドクリームに限定があったっておかしくないでしょ」
そんなに驚くことじゃないと思うけど、と不思議そうに述べた。
食べ物じゃないのに限定ってなに……と息子が驚く横で、僕も静かに驚いていた。
子どもたちといると、新しい発見がずっとある。僕ひとりではおそらく、生涯触れることのなかった種類のものだ。
……ハンドクリームにも、限定とかあるのか。
Fin.
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