空虚な洞
あぷちろ
第1話
「ささ、くれよ」
その男は下卑た笑みを浮かべて私ににじり寄る。
「ささ、くれよ」
右手の掌を私に差出してじわじわ、じわじわと地面を滑るように私へにじり寄る。
その男は歯抜けとなった口腔内を大きく広げる。
暗く濁った洞穴には黄ばんだ臼歯が数本だけ、存在している。
「ささぁ、くれよ」
媚びる笑みはそのままだが、眼孔はうつろな光を宿し私を嘲る。
げひっ、げひっ、と男は空気が抜けるような咳をする。男は薄汚れてはいるものの顔色は良く、なおの事に男の信用を無くしている。
「へへっ、すいやせんね、へへっ」
卑屈に男は首だけを前後させて形ばかりの謝罪を口にする。男の癖なのか、謝罪を述べたあとに舌をチロチロと残っている前歯の隙間を行き来させる。
どうしようもなく男に嫌悪感を抱くが、この場でそんなせん方ない事を言うつもりはない。
「……どうしても欲しいのか」
「へへ、そうでございやす旦那様。あっしのようなモンには”それ”がどうしようもなく必要なんでさぁ……へへ、旦那様」
湿った息を吐きだし、眦に数多くのしわを刻み破顔する男。眼光だけはするどく、身の丈ほどの大蛇を前にしているかのようだ。
しかも、その大蛇は空腹であるときた。今、この場では力の天秤はこちら側へ傾いているが、ヤツが必要なものを手に入れた後もこの天秤が私の側へと傾いているとは限らないのだ。
「ささぁ、ささぁ! くれよぉ」
血走った目が私を睨む。私は迫力に圧されてごくり、と大きなダマとなった唾を嚥下する。
私は震える手を重ね合わせて、指先をさする。さらさらと右手ひと差し指に触れてみれば、ちくりと棘が皮膚に刺さった。
ささくれだ。
「ささくれェ!!」
男は突如私に掴みかかった!
私は手首をつかむ男を振り払うべく、右に左に体を傾ぐ。やや、やや、ともみ合った末に男は私のひと差し指からささくれを引き抜いた。
「ヒヒヒヒ、ささくれェ……」
男は私から引き抜いたささくれを大切そうに抱えて恍惚に委ねていた。
私の指からは赤い血液が滲み出ていた。
空虚な洞 あぷちろ @aputiro
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