第32話 天使の強行と王妃の提案
ベッドで横になっていたシャルルは、ふと体が軽くなるのを感じて身を起こした。なぜか首が苦しくない。左手を見れば、“破滅の樹”がうれしそうに枝を広げ、ふくふくとした実をつけている。
「なんで……? 悪行も積んでないのに」
自分の行動とは関係なく【悪魔】のギフトが変化を起こした。嫌な予感がする。シャルルは枕元に置かれた犬笛を吹く。外にいたのか、ピピが窓からすっ飛んで来た。ちなみにここは二階だ。
「殿下っ!! どうされましたかっ⁉」
「ピピ、お父様に伝えて。動けるようになったから、保養地へ移動すると」
「よ、よかった……、かしこまりましたっ」
ずいぶん心配をかけていたらしい。涙目のピピは転びそうになりながらも、また窓から出て行った。
***
南部にある王領は遠い。必然的に荷物も多くなる。
ピピとアメリが荷物をまとめるなか、手伝おうとしたシャルルはベッドに追いやられた。
「もう元気になったのに」
「まるっとピピにお任せあれっ」
「これから長い時間、馬車に乗るのよ? 体が石になってしまうわ」
「じゃあ……バルコニーでっ、思いっきり羽を伸ばすといいですよっ」
邪魔だとばかりに追い出され、仕方なくバルコニーの手すりに身を預けた。ぼんやりと夏空を眺め、視線が落ちるままに裏庭を見やると、真っ白な鳥が
「――ま、まさか、セラフィンじゃないわよね⁉」
声につられてピピが顔をのぞかせ、鳥のそばにひらりと降り立った。何やら、鳥に耳をあてたピピの顔が青ざめていく。鳥はすぐさま回収され、シャルルの部屋へと運ばれた。
皿に水を注ぎながら、ピピが声をかける。
「セラフィン様っ! わかりますかっ⁉」
「うっ……やっぱり、セラフィンなのね」
会いたいとは思っていたが、こんな再会は遠慮したかった。息も絶え絶えの鳥が地べたを這いずっている光景は、胸に来るものがある。しかもそれが
「セラフィン……聞こえる? 変身を解除できる?」
「シャ……ルル?」
「そうよ、がんばって! お水もっといる?」
つぶらな瞳が輝いた――気がする。テーブルの上から降りるように飛び立つと、グンと翼が大きくなり、中からセラフィンがあらわれた。力なく床に膝をつく。
「大丈夫⁉ しっかりして!」
「シャーリィ、会いたかった」
「セラフィン……」
――わたしも会いたかった。
そのひと言を発する前に、泥だらけの服に目が行ってしまう。生成りのローブは金の刺繍に縁取られ、もとはさぞや神々しかったことだろう。美しい顔もゲッソリと頬がこけている。
「まずはっ、身なりとお食事ですねっ」
ピピは手慣れたもので、アメリにふたり分の食事と男性用の服を用意させ、セラフィンを横抱きにして風呂に突っ込んだ。
ピピの手によって銀髪はふわさらの猫っ毛に戻り、大きめのシャツをまくり上げ、ズボンはサスペンダーでつっている。
そのまま食事に突入し、食べ終えるのを待ってから、シャルルは口をひらく。
「セラフィン、何があったの?」
「その前に、シャルルの顔色がよくない。治癒と加護を――」
「セラフィン! もっと自分を大切にして!!」
治癒も加護も受けないぞ、と体を引く。しばし睨み合ったが、セラフィンが根負けした。
「ギリギリ四ヶ月で帰れるってアジャーニは言ったのに、どんどん南下して行ったんだ」
巡業をはじめて二ヶ月が過ぎたころ、そろそろ折り返さなければ戻れないと、同行した司祭アジャーニに訴えた。だが彼は、どうしても天使の施しが必要な村があるのだと言って、セラフィンをロートンヌ国から遠ざけた。
「そんな村、なかったんだけどね」
「セラフィン……まさか、わたしの加護のために?」
「それだけじゃないよ。一秒でも早く、シャーリィに会いたかった! これは僕のためでもあると言ったでしょう?」
「きゅぅっ……」
なんと神々しい笑顔だろうか。シャルルは心臓をわしづかみにされ、胸を押さえる。これではまるで、以前のセラフィンみたいではないか。
「シャーリィ⁉ いま治癒を」
「ち、違うの! これは……その……」
「――恋の
「ピピ!!」
慌ててセラフィンへ振り返ったが、胸を押さえるでもなく、縋るような眼差しでシャルルの手を掬い上げた。
「シャーリィ。巡業の途中、ある人に教えてもらったんだ。わけもなく悲しいのは、君と離れたせいで、僕の胸が痛むのは、恋なんだって……」
「え……、ちょっと、待っ……」
シャルルはひとり慌てた。いままで少しでも触れ合うと苦しげにしていたではないか。気持ちはうれしいが堕天されたら困る。
ひとときの感情で、一三〇〇年も孤独になどさせるわけにはいかない。そうでなくとも、シャルルは先に昇天しそうなのだから。
セラフィンは、シャルルの手を包み込むように握ると、苦しげに顔を俯けた。
「くっ……」
「やっぱりなの⁉ セラフィン、手を放して!」
「細くて……やわらかい。もう、放さないよ。堕天しても……いい」
「よくない!! 放しなさ――」
言いかけてピピに口もとを押さえられた。ピピはセラフィンをバルコニーへ連れ出し、シャルルをソファへ誘導する。
「王妃陛下がお見えになりましたっ。いま、アルマン様が対応中ですっ」
さすがにセラフィンがいるのはまずいか。
セラフィンはガラス戸の外へ腰を下ろし、安心させるように手を振った。シャルルも申し訳なさそうに手を振り返す。
招き入れた王妃セリーヌは、どこか緊張したような面持ちだった。
「シャーリィ、起き上がれるようになったとジェラールから聞いたわ。調子はどう?」
「食事を取れるようになりました。もう大丈夫だと思います」
セリーヌはホッとした表情で微笑み、少し上目遣いになるよう顎を引いた。
「実はね、すぐそこにベルティーユがいるの」
「っ……ベル、姉様が」
きちんと笑えているだろうか。顔は引きつっていないだろうか。まだベルティーユと会うほどの、心の準備はできていない。
ベルティーユの幸せを願うことはできても、会いたいとは思えなかった。だから急いで荷造りしていたというのに。
「会って謝りたいそうなの。ベルからの謝罪を、受け入れてくれるかしら?」
「ソウ、デスネ」
棒読みを見破られたか。セリーヌの顔が曇る。
「ねぇ、シャルル。成人したといってもベルはまだ十七歳なの。心を入れ替えて償うことができるわ。ゆっくりでいいから、お話しをしてみない?」
「……………………ハ、イ」
やむなく頷けば、セリーヌはいつになく嬉しそうな顔を見せ、ドアへ声をかける。
「アルマン、ベルティーユを入れてちょうだい」
ドアをあけたアルマンの瞳は揺れており、渋っている様子が窺えた。
身体検査はすんでおり、何も持ってはいなかった。だがアルマンに確認できたのはポケットの中身だけ。ここにジョエルがいないことが悔やまれた。
一緒に入室しようとするアルマンを、セリーヌが片手で制止する。
「アルマン、遠慮してちょうだい」
「しかし……」
「これは家族で話し合うべき問題なの」
「……国王陛下はなんと?」
セリーヌは少し言い淀み、家族のためだと自分に言い聞かせた。
「もちろん許可はいただいているわ」
「……失礼いたしました」
ならば引き下がるほかない。アルマンは頭を下げ、ドアの向こう――自分の持ち場へと戻った。
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