第3話 弟の誕生で知る性別と悪意

 鈍い音とともに、おでこに衝撃が走る。どうやら目の前の子どもにぶつかったようだ。しかし不思議なことに、右手を上げれば、小さな人も同じように手を上げる。


(ああ、これは鏡だ)


 誰に教えられたわけでもない。教えてくれる人はもういない。優しく頭を撫でてくれた女の人は、いつの間にかいなくなっていた。

 だから彼女を探している。いまもこうして、知らない部屋に入り込み、途方に暮れてしまうほどに。頬を伝っていた涙は干からびて、触るとザラザラしている。


 どうしてか、鏡だと認識したそれをぼんやりと眺める。ラズベリー色の赤毛にアメジストの瞳。昨日から着ているくたびれた服は、手触りだけはいい。


(……ああ、この顔はシャルルだわ。異母弟の…………ん?)


「しゃるりゅ⁉ っ……」


 たくさんの記憶が小さなおつむを駆け巡り、熱を持ったかと思うと、急速に冷えはじめた。鏡に映る顔が青白い。


(そうだった! わたしはシャルルとしてこの世に……、ということはよ?)


 王女ベルティーユの記憶を持つシャルルは、とてもとても大事なことを思い出す。


(シャルルって……王子だったわよね? つまり――)


 血の気が引いてふらつく体をなんとか律し、意を決して下履きの中をのぞき見た。


「…………あれ?」


 ない。ないのだ。アレが。アレは成長するにつれて生えるものではなかったように思う。記憶違いでなければ、生まれたときからあるはずだ。


「どーゆーことなの?」


 舌っ足らずな声をかき消すように、突如、激しい泣き声が耳をつんざく。女性の悲鳴よりも高く、動物の鳴き声にも聞こえるそれは、隣の部屋から聞こえるようだ。

 にわかに廊下が慌ただしくなる。下履きをたくし上げ、おそるおそる廊下へ出てみると、泣き声はさらに大きくなった。


 廊下を行き交う大人たちは忙しそうにして、シャルルには目もくれない。それをいいことに、泣き声が聞こえる部屋へそっと忍び込む。部屋に入っても衝立ついたてが邪魔をして、声の主にはなかなかたどり着けない。

 泣き声の合間に聞こえてきたのは、年嵩の女性と思しき声だった。


「マルガレータ様、待望の男の子ですよ!」

「ああ……ようやく。これで……、あたしは王の母親よ」


 マルガレータという名前に足を止め、衝立の隙間からそっと盗み見る。ベッドの上で息苦しそうに話すのは、赤毛の女性――マルガレータ妃だ。状況から見て、年嵩の女性は産婆だろうか。四十代ほどに見える。


(――待望の、男の子?)


 その瞬間、すべてを理解した。

 シャルルにアレが付いてないのは見間違いじゃない。生えるのが遅いわけでもない。でなければ、生まれてすぐ男女の区別が付くはずがない。


(なんてこと……)


 大人の思考を手に入れた小さな頭は、すばやく仮説を立てていく。なぜ、十歳という年齢でシャルルがこの世を去ったのか。本当に不幸な事故だったのか。その年齢ならば侍女か侍従と護衛が付き、危険は回避されるはず。おかげでかくれんぼすらできないのだから。


『弟が生まれたら気を付けて』


 元シャルルが言っていた言葉が、まだ耳に残っている。シャルルを王子に仕立て上げて権力を集め、本物の王子が生まれたら――女児だとバレる前に始末すればいい。


(火事に巻き込まれたのは、偶然じゃないのかも……)


 ともあれ、弟が生まれたとしても、すぐに厄介者を片付けるわけにはいかないだろう。王妃の息子ヴィクトルを始末するのが先だ。それに、シャルルのギフトを確かめてから殺すはず。だから十歳までは生き延びたのだ。


(早いところ、レベルを上げて対抗手段を整えないと)


 幸い、我が国の王族は、ギフトの判別に教会を頼っていない。五十年前に作られた魔法の道具で判別可能になったからだ。教会にさえ【悪魔】だと知られなければ、逃げようはある。


 深く考え込んでいたシャルルは、後ろから伸びる影に気付かない。両脇から差し入れられた大きな手によって、思考どころか息の根まで止まりかけた。


「こんなところで何をしている? 悪い子だな」

「――!!」


 抱き上げられて顔が近付く。蜂蜜色の金髪にアメジストの瞳。優しい顔立ちの美しい男性はシャルルもよく知る人物――我がロートンヌ国王、ジェラールだ。


「おとーしゃま……」

「そろそろ父上と呼べ。女の子みたいで恥ずかしいだろう? ただでさえ愛らしい顔立ちなのだから」

「……はい、ちちゅーえ」


 口がまわらないのは年齢にくわえて、普段からしゃべっていないせいだ。練習しなくては。

 よし、と頭を撫でられ、そのままマルガレータのベッドへ進んでいく。ベッド脇で下ろされたシャルルからは、マルガレータの顔が半分しか見えない。

 けれどその隣に、泣き疲れて眠る小さな顔が見えた。産着からのぞくオレンジ色の髪を、ジェラールがそっと撫でる。


「マルガレータ、よくやった。シャルル、お前に弟ができたぞ。兄として励むようにな」

「はい……」


(兄として――か。告げられた性別を信じて疑わないのね)


 それはそうだろう。盲目的にマルガレータ妃を溺愛しているのだから。マルガレータの子どもとして生まれてきてもなお、シャルルはこの女のよいところが見つけられないでいる。


「名前は、そうだな……。ルーセルとしよう」


 ――ルーセルね。

 亡くなった父の跡を継ぎ、十三歳にして王になった異母弟の名前だ。王太子であったころから全権をマルガレータに握られ、操り人形のような王子だった。


 ジェラールは赤子を撫でた手で、マルガレータの髪を愛おしそうに掬い上げた。その横顔はとても穏やかで、なおかつ熱っぽさが滲み出ている。


(マルガレータ妃には、こんなにも優しく笑いかけるのね)


 父王は決して冷たい人ではない。ただ、マルガレータを側室に迎えてからというもの、ベルティーユたちは遠ざけられ、王城の北にある離宮へ追いやられてしまった。

 一度だけ、ベルティーユはその理由を父王に問い詰めたことがある。


『マルガレータはか弱い女性だからね。私がついていなくては』

『そんな! お母様だって――』

『セリーヌは強い女性だ。安心して公務を任せられるパートナーなんだよ』


 そう聞いてやるせなくなった。たしかに母は凛として、いつも気丈に振る舞っているが、マルガレータに笑いかける父を見て、時折寂しそうにしていたというのに。


(マルガレータなんて、いつも瞳を潤ませているだけで、か弱くなんかないのに!)


 胸の辺りにムクリと湧き上がる暗いものを、必死で抑え込む。上着の裾をギュッと握りしめていると、ジェラールがシャルルの服に目をやった。


「ずいぶんとくたびれた服だな。乳母はどうした?」

「おそれながら、陛下。シャルル殿下はもう四歳です。乳母には昨日、暇を出しました」


 父の問いに答えたのは産婆だった。

 マルガレータが、シャルルの歳を覚えているわけない。


 やり直す前の記憶では、王子服を着せたシャルルをアクセサリーのように連れまわしても、目を合わせたところなど見たことがない。シャルルが必死にマルガレータのあとを追いかける姿が印象に残っている。


 そうか、と父は気にすることなく、マルガレータを見つめている。


(こんな毒婦のどこがいいのよ? ギフトでお父様を騙しているに違いないわ)


 マルガレータの手から救い出せば、父の目を覚ますことができるはずだ。それにはまず、【悪魔】のギフトレベルを上げなければならない。

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