夏風邪

オキシ流星

夏風邪

 夏休みは冒険がしたくなる。規則正しい毎日の時間割という枠が取り払われて、環境から自由になった身体に、つられた精神が無秩序を謳歌しようとする。


 しかしそれは正しく毎日を生きる生徒に起こる現象であって、不登校の自分は端から半分たがが外れているようなもので、本来であれば学校に居なければならない時間を自宅で過ごすときの後ろめたさを別にすれば、常に夏休みと変わらない自由に身をやつしているのであり、そしてその手に負えない無制限な毎日に何の冒険心を抱くこともなくただじっとしているうちに日々は過ぎていた。


 あれは小学何年生だったか、夏休みがもうすぐそこまで近づいた頃、風邪を引いてしまった。症状はひどいものではなく、熱っぽくてすこし咳が出る程度で、学校を休むほどのものではなかったが、不登校なので学校には行かなかった。学校には行っていなかったが代わりに勉強の面倒は昔なじみの塾でみてもらっていたから、その日もその塾へ行くことになっていた。


 昼過ぎになってから支度をととのえ、マスクをつけ、若干の肌寒さからジャケットを羽織ったとき、たまたま姿見に映る自分が目に入った。腕も、足も全体が服に蔽われ、顔は目と耳だけが露出している。全身が布に包まれているのを見て、自分のこの正体の不明さが「カッコいい」と思ってしまった。熱に浮かされていた。


 夏風邪によって自尊心と好奇心とを錯覚させられた私は、審美眼が狂ったままに、戸棚から母親の薄い色の入ったサングラスを拝借し、帽子掛けからこれもまた母親のブルトンハットを失敬して、全身の掩蔽率をさらに高め、カッコよさに一層の磨きをかけてから、意気揚々と自転車を漕いで塾に向かった。


 玄関を入ってすぐ、職員室から顔を出してくれた先生の呆気に取られたといった表情が今も忘れられない。顔をこわばらせたのも一瞬で、すぐさま、


「どうしたの」


 と聞いてくれた先生に、やはりこの「謎」に包まれた姿のカッコよさは伝わってくれたのだなとか、しかし謎に包まれた自分がみずから謎を明かすのはカッコよくないなとか、正体どころか思考も朦朧としはじめていた自分は、


「すこし、風邪気味で」


 と頓珍漢な返事でごまかした。先生はそれ以上何も追及しないでくれた。


 それから先の記憶はとくにないが、大事になった覚えも話もないから、結局そのままいつもどおり勉強をして家に帰ったのだと思う。


 改めて思い返してみるまでもなく、この日の私は絵に描いたような不審者に仕上がっていた。春先の陽気でも、来る夏休みへの期待でも代替されなかった私の精神の自由は夏風邪の微熱によって一日の解放を得ていた。


 それからもう何年経ったか忘れてしまったが、今にして思えば、実はあれは夏休み前の出来事ではなかった気もする。不登校が本格化したのは記憶の限り中学に入ってからで、小学生の時期は休みがちというくらいでまったく学校に行っていなかったかも覚えていないし、そもそもこの日は週末だったかもしれない。外套が不自然な程度に暑い時期ではあったが、梅雨の前後にもそんな日はいくらもあっただろう。サングラスはかけて行ったが、帽子はさすがにこれは違うと思い直して置いて行った疑いもある。


 ただ私がこれをひとつの黒歴史として、夢ではない、ある夏たしかに起きたことだと思えているのは、鏡で自分を見たときの熱っぽい高揚と、塾の先生と顔を合わせたときの不穏な空気の流れとが、この日の体験はどうしようもない現実だったのだと冷静にとらえさせるだけの記憶の質量としてずっと保たれ続けているからに違いない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏風邪 オキシ流星 @kishiryu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画