青桐

『事実は小説よりも奇なり』これは私の好きな言葉の一つだ。その言葉通り、私たちが毎日直面している現実というものは、そこらの書店で売っている物語よりも不思議なことが起こっているという意味だ。


 おかしな話だ。なんせ日々一生懸命生きている私たちはそんなことを思ったりもしない。それどころか映画や漫画をみて「ああ、こんなことが私の身に起こったらいいなあ」と思う始末だ。だけれども、私がこれから君に話すのはすべて現実だったこと、この身に起こったことなんだ。




*




 どんよりとした曇り空の下、大学生の僕は駅のホームで電車を待っている。暦の上では春なのだが、まだ冬の寒さが残っていて肌寒い。平日の朝なのにあまり混んでいないのは僕が通勤ラッシュの時間帯より一本早目に出ているからである。この時間帯だと電車の中を大学まで立ちっぱなしでいることもないし、なにより人が少ないからうるさくない。




「英語お上手なんですか?」


 電車に乗りしばらくすると、通学時のルーティンである英字新聞を読んでいると声をかけられた。ふと見てみると僕の左に座った女性が僕の新聞を見ながら聞いてきている。茶髪のショート、涙袋が特徴的な可愛い人だなというのが第一印象だった。


「いいえ、これは英語学習者向けのもので。僕自身はあんまり」


 そう答えると


「そんな新聞があるんですね、私も読んでみようかな。あ、いきなりすいません。ただふと目にして気になってしまって、つい」


 少し恥ずかしがりながらそう答えた女性に笑顔を向けつつまた記事に視線を向ける。女性の身なりはザ・OLという感じだ。これから会社にでも行くのだろう。


 会話が終わると女性はスマートフォンに目を落とし、スクロールしていた。他に話すこともないし、僕は今日のノルマまでこの新聞を読み切らなければならない。お互いにそれ以上会話もなく、自分たちの世界に入っていった。




 女性は僕がいつも降りる駅の2つほど手前でおりた。席を立つ前に僕に軽く会釈し電車を降りて行った。ささいな会話をしただけのその名前も知らぬ女性とはもう会うこともないだろうなとその時は思っていた。




 *




 大学の課題やら部活やらに追われ、気づけばもう初夏である。うだるような夏の昼間に駅の中を僕は歩いている。日差しが痛い。背中が汗で濡れて服が肌に引っ付いてしまいそうである。今日は授業のない平日しかもこんな暑い日にどこに向かっているのかというと、カフェだ。最近は一週間に一回ほどSNSとか友達から聞いたカフェに行っている。運動系の部活に入っているのでストレス発散は体を休める方向に自然とシフトしがちだ。エアコンの効いた空間と心地よくリラックスできる場所を探し回った結果、カフェに行きついた。ヒーリングミュージックと冷たいアイスコーヒーは夏の暑さはおろか大学の試験の心配も吹き飛ばしてくれる。




 駅から少し歩いたところにある喫茶店に入り、最近読み始めた小説を開く。


 僕が最近ハマっている小説家の本だ。ラブコメがメインにはなるが、登場人物との関係に突拍子もない物事が絡まってきたりするので読んでいて毎回面白く熱中してしまう。その物語に没入している時だと、4,5時間ほどずっと読んでいたりすることもある。そうなると声をかけられてもそう簡単には気付かない。


 平日ということもあり、店内は僕を含めて数人ほどしかいない。僕はカウンターに座っていて、後はテーブル席の男女がいるだけ。店員がやってきたのでブレンドコーヒーのアイスを注文し、また本の世界へと戻る。




「あの、すみません」


 突然、声をかけられた。というより、やっと僕が気が付いたという感じだ。女性の声、聞き覚えがあるような気がするが思い出せない。顔をあげるてみると


「あ」


 思い出した。数カ月前に電車の中で声をかけてきた女性だ。雰囲気が少し違うのは髪色が前より明るくなったからだろう。


「前、電車の中であった人ですよね?」


「覚えててくれたんですね!なんか見たことあるなーと思って、『あ!英字新聞の人だ!』ってなって」


「あはは、英字新聞の人ですか」


「お隣りいいですか?」


「どうぞ」


 挨拶ののちに互いに自己紹介をして話していくうちに、隣に座ったその女性は県庁で働いているらしいことがわかった。今日は有休をとって羽を伸ばしているらしい。僕は大学卒業後に公務員になろうと思っていたので熱心にいろいろな話を聞いた。


 驚いたことに、その女性は僕の一つ上らしい。高校卒業後に公務員になったらしくいろんな部署を経由して県庁に落ち着いているみたいだ。


 電車で一回しか話したことがない男に話しかけてくるあたりかなり社交的らしい。僕自身も人と話したりすることは好きなのでお互いに話はすごく盛り上がった。映画や読書という感じで趣味も合うし、何より同じスポーツをやっているので話が通じ、とても楽しかった。


 僕は夕方からバイトに行かなければならず、その日は連絡先を交換して解散した。なんだか良い予感がしていた。バイトもあるのに今日という日が一気に素敵な日になったと思った。夕焼けがきれいだったことはよく覚えている。




 *




 連絡先を交換した、とは言っても何かを話すわけでもなく一週間がたった。


 今日はバイトもないしゆっくりできるなと思い、行きつけのカフェに行くと、いた。心臓がどくんとはねる、とかよく聞くがまさにこのことだろう。え?どくんてなんで心臓がいうんだ、会えてうれしいのか?彼女に?


 前回来た時に座っていた席にその女性はいた。日程を決めていたわけでもなく全くの偶然だ。


「こんにちは」


「おつかれさま」


 もう前回からお互いに打ち解け、歳が近いというのもあってかタメ口でいつの間にか話すようになっていた。席について注文を済ませると、彼女が言った。


「またここで会うなんて偶然だね」


 彼女の声は落ち着いているようでいつも明るい。こっちまで元気になってしまうくらいだ。


「ここのコーヒーはおいしいし、店内の雰囲気も好みだからよく来るんだよね、ここ」


「他のお店とかいかないの?」


「んー、一つ気に入った店を見つけると通い詰めるようなタイプなんだよね俺」


「じゃあ今度の週末郊外のこのお店いってみない?新規開拓ってことで」


 そう言いながら彼女はスマホの画面を見せてきた。見てみると穴場的なお店だ。レビューも高く興味をそそられる。それ以上に彼女と出かけられるのが楽しみだ。


「いいねこのお店、行こう」


「やった!じゃあ土曜日駅前集合ね!時間はまた連絡するから!」


 カフェに入ってそんなに時間も立っていないのに次のお店の話をするなんておかしいけど、僕は彼女と話せてそれで充分だった。




 そこからの会話はあまり覚えていない。ただ嬉しそうな彼女の顔をみて一緒に笑ってすごしていた。もってきた読みかけの小説の存在を忘れてしまうくらいに。閉店ぎりぎりまで彼女と話していた。


 僕の性格は決して明るくはない、だからこそその正反対にいるような笑顔がまぶしい陽気な彼女に惹かれていったのだろう。




 人は好きな人の前にいるとき、すごく優しく口角を上げるという。たぶん僕の口角は上がっていただろう。


 そう、僕はこの人を好きになっていた。性格、声、表情、香り・・・・一度気が付いてしまえばあとは雪崩のように「好き」が増えていく。


 これだから一途は大変だ。文字や言葉では表しきることのできないほどの感情が僕を覆っていく。もうこの気持ちを止めることはできない自分ではどうしようもない、自覚してしまったのだから。




 *




 その約束していたカフェはランチセットが評判だったので昼前に待ち合わせし、電車で最寄り駅まで向かう。道中はお気に入りの映画の話とかそういうたわいもない話をしていたりした。当然、話が途切れる場面もあるのだけれど、僕はそれが全然気にならないし、彼女もそう言ってくれた。


 そうこうしているうちに目的地に到着した。その店は外見は目立っていないまさに「知る人ぞ知る」ような店だった。店内は古民家風の感じで木材をふんだんに使っているようで木の香りが心地よい。僕も彼女も人気のランチプレートを注文し食後は紅茶にした。料理はもちろんおいしかったが、何よりも彼女がおいしそうに食べているのでそれを見ているだけで来てよかったと思った。人がおいしそうに料理を食べている姿を見ているだけでなんでこんなに満たされるんだろ、みたいなことも考えちゃったりする。


「肉は正義だよね」


 ハンバーグをほおばりながらそう言う彼女。くそう、可愛い。思わずつぶやきそうになるのをすんでのとこで止める。我ながらべた惚れである。やばい、順調すぎる。




 お昼ごはんだけで解散するのは忍びないというので彼女の提案で最近公開されたアニメの映画を見に行くのはどうかとなった。かくいう僕はその誘いに乗らないわけもなく大賛成で映画館に向かった。そのアニメは国民的映画監督による数年ぶりの大作らしくSNSやニュースでも話題になっていたものだった。また事前に宣伝が一切されておらず、そのミステリーさから僕の友達も多くが見に行っていた。




「なんかすごいものを見たって感じだよね」


「ストーリーが複雑だけどメッセージ性が強めだったよね」


 映画鑑賞後の二人だけの感想大会である。開催場所は川の堤防で座りながらだ。全くどこぞの高校生の気分である。映画が3時間ほどあったのでもうすっかり日は落ちているが日中が暑い分、夜は外でも快適にすごせる。


「映画見た後の余韻ってすごいよね」


「わかるわかる、何か別の人の人生を体験したって感じだよね」




 ひとしきり感想やら解釈やらを言い合った後、少し沈黙。なんというか、こう、このまま終わりたくはない。それは彼女も同じように思っているらしい。今日のデートの前にも数回夜に電話はしている。いけるかなという感触はあった。




 一緒にいて楽しいし、話も通じる、もう好きだと気付いてしまっている以上言わずにはいられなかった。


「付き合いません?」


 あたりが暗くて良かった。顔が熱い。


 彼女は少し黙って伏し目がちにして


「いいよ」


 少し照れてるのかな、体育座りで膝の上においたカバンに顔を預けながらこちらを見てそう言った。にやけ顔が見られないようにするので精一杯だった。




 *




 その日から彼女は僕の恋人になった。彼女は社会人で、働いているから毎日は会えないし、時間の融通もきかない。スケジュールの自由がきく大学生である僕の方が彼女の予定に合わせていくのはごく自然なことだった。彼女の仕事が早番で夕方には会えるとなれば、大学の講義が終わって彼女の家にいったりした。一緒にご飯を作ったり、もってきたDVDとかアマプラで映画をみたり、ただただベッドでふたりでごろごろしていたり。彼女も僕も休日にはずっと一緒にいて、同じ趣味のスポーツをやったり、夜中にコンビニでアイスを買って食べたり、旅行で車で遠いとこまでいったり。


 彼女と会えない日は、電話をしたりメッセージのやりとりをして会いたい気持ちを落ち着かせた。彼女との思い出は挙げていけばきりがない。


 そんな幸せな周りのカップルたちもしているであろう日常を紡いでいた。僕は文字通り彼女に夢中で、どんなに疲れていても彼女の声をきけば心が晴れ、抱きしめれば嫌なことも別世界の関係のないことのように感じた。


 当の本人はというと僕の考えていることが手に取るようにわかるらしく、僕が次に何をしたいか何を思っているかすべてお見通しで、「この人には勝てないなあ」なんて思ったりもした。




 彼女が僕の隣にいるのが当たり前のように感じた。水のように、空気のように、僕にとっては無くてはならない存在になっていた。彼女と出会う前の生活が考えられないほどに。




 よく、男の人は熱しやすく冷めやすい、付き合うと最初はいいが時間がたつと気持ちが萎れていくという。その言葉の意味が分からなかった。この気持ちが冷めることがあり得るのだろうかと思った。それほどまでに彼女のことが好きだった。


 僕は僕の「好き」を彼女に伝えていたし、彼女もそれをわかってくれているようだった。






 彼女も僕のことを好きだと思っていた、思っていたんだ。


 何もかも吹き飛ばしてくれそうな明るい笑顔、心地よい声、僕に向けられた仕草のすべてから彼女は僕のことを好きだと思っていた。








 違った。




 *




 何か変だな、と感じたのは付き合って一年がたつ頃。


 今日は会う予定の日だったなと思い、大学から帰る途中スマホにメッセージの通知がきた。


[ごめんね、今日は会えない]


 もちろんこれくらいなら前にもあったことだから何とも思うことはない。ただいつもは長くても4,5時間で返ってくる返信が、この日を境に半日以上だったり一日たったりひどいときはそれ以上たって返ってくるようになり、返信内容も素っ気なくなっていった。この程度で揺らいでなるものかと最初は思っていたが、メッセージの返信はこないのにSNSの更新はされていたりするのが頻繁になるにつれ、徐々に不安が募っていった。そう、大丈夫「心配事や不安事の99%は起こらない」ってよく聞く、大丈夫。そういう風に自分自身に言い聞かせ、励ます。




 喧嘩をしていたわけでもない、なにか僕が悪いことを言ったりした覚えもなく、逆に僕がされた記憶もない。わけがわからなかった。なにか思い当たる節があればよかったのだがそういったことが微塵もない。


 昔から察しはよく、人間関係もそのスキルで良好に保ってきた。だけど、こういうときほどそういう察しの良さは裏目に出る。気付かなければよかったことに気づき、思わなければよかったことを思う。この言葉の裏に何があるのか、考えだしたら止められない。ただでさえ思考が下向きになっているのに、ちょっとのきっかけで考えはじめ、一気にマイナスまで急転直下。だめだ、このままでは一番考えたくない答えに行きついてしまう、というところまで行きすんでのところで持ちなおす。そうやって墜落ぎりぎりの低空飛行である。すぐに会うことができればよかったのだが、あいにく彼女は仕事で海外研修に行っており次に顔を合わせるのは早くても一週間後である。


 辛うじてメッセージのやり取りは続いてはいるがもういつ途絶えるかわからないほどだ。誰かこの悩みを打ち明けられる人が周りにいればよかったのだが、僕が親しい友達は皆、就活やら試験やらで忙しくその暇もなかった。


 一人で考え込むというのがこれほどまでに辛いことだとは思わなかった。勝手に期待して、勝手に裏切られ、勝手に不安になり、勝手に落ち込む。「じゃあ、期待しなければいいじゃん。楽になるよ」と人はいう。そんなことはわかっている。期待しなければ沈むことはない。でも期待してしまう、好きだから。どうしようもない。溺れてしまうことがわかっているのに飛び込むのは勇気がいることだとわかっていたのに。


人は勝手な期待をすると、その期待を裏切られると怒ってしまうものだ。彼女を責めたくはない。その気持ちが期待し過ぎた自分を責めさせる。「勝手に期待」して「勝手に失望」して「勝手に怒る」ことなんて相手は一つも望んでいないのに。




 ここまで自分が弱いとは知らなかった。一人で生きていけるのが当たり前であったからだ。これまで女性と付き合ってきたことは何度かあったがここまで抱え込むようなことにはならなかった。すべてきれいさっぱりしていた。


 だが彼女は違った。ずっと一人で何でもできていてそれが当たり前でそのことに疑問も不安もなかったのに、彼女が傍らにいるようになってから揺らぐようになってしまった。




 決定的だと思ったのは、彼女が海外研修から帰ってくる数日前での電話だ。不安でどん底であったのに彼女の声1つ聞くだけでそれが何事もなかったかのように消えてしまう。そう感じる自分に気づき、やっぱり好きだと実感する。


「最近メッセージ返すの遅いよね」


「ううん、大丈夫。忙しいもんね」


 全然、これっぽっちも大丈夫ではない。だがせめて彼女の前で、大好きな人の前で弱っている自分をみせてなるものかという気持ちが自分にそう言わせる。


「ここのとこね、こういうとこいるんだー」


 そう言いつつマップアプリの画面が彼女から共有される。


「へえ、この地名きいたことあるな。あ、この前見た映画で主人公が訪れた場所だったかな」


 …


 他愛もないいつも通りの会話が続く。僕の不安など最初からなかったかのように。そうだったらいいのに。




「今度ご飯食べに行こうよ」


 そう僕が誘うと


「いいよ、私も話したいことあるし」


 そう言われると聞かずにはいられなかった


「その話したい事って、結構、なんていうか、極論な感じ?」


 自分で言っていて何を聞いているんだという感じだ。やめて、笑って、否定して、僕の予想が当たらないで、どうか、お願い。






「それを今聞いてどうするの?」


「そう、だね。あはは、ごめん、今のなしで」


 彼女の声は笑っていない、冗談をいっているわけではない。彼女と過ごしてきた期間の経験から嫌でもわかる。ああ、そうか一番当たってほしくなかった答えだ。もう誰でもわかる、彼女はそ・れ・を次回会うときに僕に伝えるだろう。


 ご飯に行く場所とか待ち合わせとかを決め、その日の電話は終わった。




 そのあとのことはあまり覚えていない。泣いたのか、寝れなかったのか、ぼーっとしていたのか。一つ覚えているのは、友達におすすめされたおいしいと評判のウイスキーを飲んだが味が全くしなくこれまでの人生で一番おいしくなかったお酒ということだけだった。




 *




 澄んだ晴れの日だった。約束の日がきた。前の晩もそれはそれは最低なものだったが、僕なりに覚悟をきめて彼女との待ち合わせ場所に向かった。彼女は僕より少し早めについていたらしい。久しぶりに顔を見たが、いつもと変わらない僕が好きな、大好きな彼女がそこにはいた。だけど、もうそれももう終わってしまう。


 ご飯を食べる場所はどこにでもあるようなイタリアンの店、世間話などして向かいながら少しでも自分を落ち着かせる。もう手は繋がない、繋げられない。その寂しさを紛らわすように手をポケットに突っ込む。




 店に入り、注文を済ませると料理はすぐに出され、彼女の海外研修の話などで場を持たせつつ料理を食べる。本当ならもっとおいしく楽しく食べられるんだろう。だが、僕にはそこらの冷凍食品やスーパーの総菜と大して変わらないようにしか感じなかった。


 料理を一通り食べ終わり、話のネタが尽きてきた頃おもむろに彼女が口を開いた。


 僕からは絶対に”その話”を促そうとはすまいとずっと待っていた。彼女から話始めるのを。




「……実は、話したいことがあります。ずっとメッセージの返信が遅かったのは意図的です。SNSとかも見てたからわかってたよね、ごめん。それで、伝えたかったのは、私には忘れられない人がいて、あなたはその人にそっくりだったから近づきました。だけど、あなたと親しくなればなるほどあなたは純粋に好意を向けてくれた。私はあなたを通して、別の人を見ていた。あなたは私を見ていたのに。もうこれ以上、あなたを裏切るようなことはできないので、別れてください。あなたはあの人とそっくりだった。それだけで、私の寂しさだけで、その穴をあなたで埋めようとした。ごめんなさい。私が悪いんです……」






 僕は彼女が話すのを黙って聴いていた、彼女の目を見て。だけど彼女は僕の目を見てはいなかった。


 彼女はまだつらつらと何か話していたが、もう何も耳に入ってこなかった。外見だけはなんとか平静を保とうとテーブルの水を飲む。一通り言い終わったのだろうか、彼女は黙った。僕は何も言い返すことができなかった。


 ただ、ただ


「わかりました」


 それで精一杯だった。これが僕の出せるすべての言葉だった。例えば「あなたのここが嫌い」とかが別れる理由であればまだ修復の余地はあっただろう。だけど、彼女は僕がいくら頑張ってもどうしようもない事柄で僕を振ったのだ。僕は何もできなかった。本当に何も言えなかった。言い出したら彼女を絶対に傷つけてしまうからだ。自分ではとめようがないことになるだろうことは容易に想像がついた。言葉は凶器だ。人を傷付けるように発せられればいとも簡単に相手の心に刺さり、内から害を為す。そんなことを僕の大切な人には決してしたくなかった。いや、できなかったという方がいいかもしれない。いずれにせよ、僕は彼女の考えを尊重した。


 僕も彼女も話す事はもうない。彼女は席を立ち、僕は彼女に最初で最後の「さよなら」を。


 テーブルには、水の入ったコップが一つと飲み干されたものが一つ。無意識に僕は全部水を飲んでしまっていたらしい。しばらく、コップを握ったままいたが、もうその場にいることはできなかった。


 会計を済ませ、店を出る。彼女の姿はどこにもない。ただの町中の喧騒。行き交う人、走る車、何も変わることはない、当たり前だ。


 じっとしてはいられなかった。すぐにでも何かしないといけなかった。何でもいい、でないと、耐えられなくなってしまう。


 ただ、歩き出した。どこに向かうわけでもなく。行き着く先がどこであっても構わなかった。ただ歩いた。疲れ果てるまで。




 *




 涙が流れてくるかと思ったがそうはならなかった。悲しみよりも驚きの方が大きかったからだ。僕は彼女を好きだったが、彼女は僕を好きでなかった。僕とそっくりの誰かを好きだったのだ、ずっと。カフェでお互いのおすすめの本を言い合ったときも、一緒にスポーツをして汗を流したときも、映画を見ていたときも、居酒屋で笑いあっていたときも、一緒に隣り合って寝たときも、体を重ねて愛し合ったときも。


 これまで彼女と歩んできたと思っていた足跡が消えて、色あせていく。僕は彼女の隣にいた、だが彼女は僕の隣にはいなかった。彼女の傍に僕がいたことはなかったのだ。




 何よりも本当に寂しいのは、もう会えないことよりも、相手の心に自分がいなかったとわかってしまうこと。自分じゃなくていいのだとわかってしまうことだった。




 日はとうの昔に暮れている。何時かも知らない、確認もしたくない。歩き疲れ家に帰る、来た道をそのまま。道端で倒れでもして警察のお世話になったらたまらない。それくらいの理性は残っている。やるべき最低限のことだけをしてベッドに倒れ込む。一体どれぐらい歩いたらこんなに足が痛くなるのだろう、さっきまで気にならなかった下半身の疲れがどっと押し寄せる。膝や足首が悲鳴をあげて音でもなりそうだ。明日はきっと歩くのも辛いだろう。いや、いい、明日なんてどうでもいい早く寝たい。




 何かを思う間もなく深い深い眠りに落ちる。体がベッドに吸い込まれていくように、緊張していた全身が溶けてなくなっていくように。昔、夏に離島の海を潜ったときのことを思い出した。底が見えない青がどこまでも続く、こっちにおいでと言っているのか、こちらの矮小さを説いているのか、飲み込もうと待ち構えているのか。




 夢をみた、楽しい夢、幸せな夢。いや、幸せが夢なのかもしれない。幸せって夢をみることなんだろう。だけど夢にしたくないって思ってしまったら、この気持ちには何ていう名前がつくんだろう。




 彼女がいた。笑顔でこちらをみて何か語りかけている。呼んでいるのかな、行かなきゃと思い足を進める。動けない、足が動かない、歩を進めたいのに言うことをきいてくれない。泥のような地面が僕の足を捕らえて離さない。彼女が呼んでいる、待って、いかないで。今すぐに行くから。






 彼女が言う。


「君は、呼んでない」




 *




 目が覚めた、と同時になんで覚めてしまったんだろうと思う。このままずっと眠りについていたかった。


 彼女が隣にいない、ああそうか今日は仕事の早番だったかなと考える一方、そんなことはもう起こるはずがないと言う自分がいる。枕が濡れている、水でも零したかな。いや零れたのは僕の涙だ。意識なんてしていない。無意識のうちに泣いていた。


 そうか、彼女はもういないんだ。昨日より肌にしみてわかる。傷口がより深くなっていくみたいに、病が徐々に体を侵していくみたいに、想い人がいないということを実感する。




 空虚。体の一番大事な部分がないような感覚。「ぽっかり空いたような」という日本語の表現を考えた人はこんな気持ちを抱いて、この言葉を考えたのだろうか。そこにあったものが、当たり前だったものがなんの前触れもなく突然消える。最初から存在すらしなかったかのように、こちらの気も知らずに急にいなくなる。何をしても思い出すのはあなたのこと、きっとあなたは僕のこと考えてすらいないのにね。この差がどうしようもなく虚しい。




 昔にみたアニメで悩みを抱える主人公に友達がこう言っていた


『大事に思って近づくと傷つけちゃうこともある。だけど離れてるとお互いに寂しいまんま。大事なものほど棘があるからね、近づき過ぎちゃったのかな。優しい距離が見つかるよ、きっと。棘で刺した方も案外傷ついているものだもの』


本当に?大事に思っていたの?寂しいの?傷ついてるの?とめどなく溢れ出る答えがない疑問。言葉にならない感情で埋め尽くされてようやく顔を出したと思ったら次の波が来る。息をすることもままならない。




 恋人から振られた、ただそれだけだくよくよしてないで前向いて進めよ、と人は言う。そんな人に僕は言いたい「うるさい、そんなこと俺が一番わかっている。だがな、『わかってはいること』とそれを『受け入れること』はまた別の話だ。構うな、放っておいてくれ。」




 片想いが一番楽しいとか、悲しい恋ほど綺麗だとか、叶わない恋ほど儚く切なく美しい、と人は言う。全部違う、ぜんぶが。そういう言葉はちゃんと恋が叶って両想いになってちゃんと幸せにたどり着いた人たちが、ちょっとしたすれ違いで喧嘩になって気分が沈んだときとかに昔を思い出して、その頃を懐かしんで「あの頃はよかった」なんて言ってみただけで、きっとタイムマシンがあってその時に戻りたいかなんて聞かれたらきっと断るに決まっている。


 好きで好きでたまらない相手とようやく幸せを築いていくことができたと思ったら、その人は自分を通して全く別の想い人を感じていただけだったという哀しみを、ともに心から笑い合っていたと思っていた日々を考える辛さを、わかるわけもない。




 傷ついた分だけ優しくなれるよとか、それを糧にして成長できるんだよ、と人は言う。そんなのは傷つける側の理想論でしかない。本当に深く傷ついてしまったらその場所は深くえぐられ、薄皮のみが張る、まるで無傷かのようなふりをするのだ。そのマイナスがプラスになることはない、その存在を無理やり頭の片隅に押しやり、忘れたようにして過ごす。「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」国民的アニメ映画に登場する魔女が主人公の女の子に言っていたのを思い出す。その言葉の通りだ。思い出せないだけ。それで成長できたりはしない。


 


 もっと傷つけてくれたらよかった、もっと冷たくしてくれたらよかった。そうしたら嫌いになれるのに、楽になれるのに。でも、あなたはそんなことしないって、知ってた。そんなあなただから好きになったのだから。やさしい、やさしい人だ。残酷なくらい。


 忘れよう、忘れよう、こんなこと考えても無駄だ。けど、忘れようとすればするほど想いが手から零れていく。もう忘れようって決めて、ずっと考えるのはあなたのこと。きっと僕は、忘れる気なんて少しもないんだろう。終わりのない思考の荒野を孤独に彷徨っているようだ。こんな地獄から抜け出したいはずなのに望んで放浪している。だって「好き」をどう頑張っても「嫌い」にはできないから。




 *




 そこから一、二週間はすっからかんの抜け殻のような自分が毎日を過ごしていた。どうしても行かなければいけない大学の講義には這うようにして行き、バイトは目の前の仕事に全神経を注ぎ他の事はまったく考えないように努めた。だが、友達と会っていたり部活動中だったり人と交流があるとき以外は当然一人の時間もあるわけで特に夜になるとその気持ちの落ち込みぶりは凄まじかった。そうなるとまともに寝れたものではなく、一睡もできなかった日も一度や二度ではなかった。睡眠不足でバイト中に注意散漫になり、危なっかしいことになったりもしたので夜になったら外を出歩いて自分を疲れさせてから無理矢理寝かせてみたり、お酒の力に頼ったりもした。


「最近疲れてそうだけど大丈夫?」


「うん!大丈夫だよ!」


 友達からも言われたが、とてもこのことは人に話したくなかった。人に話したら現実を受け入れてしまって自分が諦めたようになってしまうからだ。何よりもそれ以上に彼女に対する第三者からの評価を僕は聞きたくなかった。もし彼女を貶めるような言葉が出てきたらその人をぶん殴ってしまいそうになるだろうからだ。




 彼女の意中の想い人、僕と瓜二つの人についても考えなかったわけではない。その人にあって僕にはないものはなんだと、僕の方が優れていることはなんだとかを考えたりした。だけど、彼女の想い人を否定したくはなかった。その彼を否定することで彼を選んだ彼女をも否定しているように感じたからだ。


 お人よしが過ぎる、僕もそう思う。だけど、それほどまでに彼女は僕にとって大切な存在だった。


 だけど、もし叶うならそのそっくりさんと一度だけ会ってみたかった。小説とか映画とかなら偶然あったりするのだろうが、そうものごとは都合よくできてはいない。「事実は小説よりも奇なり」なんていう言葉もあるが、現実はあくまで面白みもなくただただ残酷なだけだ。フィクションとノンフィクションの差は歴然としている。現実ではそう簡単に空から魔法の石の首飾りをした女の子は降りてきたりしないし、森の中で大きな袋にどんぐりをいっぱいつめたたぬきのようでフクロウのようで、クマのような、へんないきものに出会ったりすることはない。




 しかし、そんな奇跡を信じない僕に空から落ちてきたように偶然が降りかかった。




 ”その彼”と会ったのである。




 *




 もうすぐ彼女と別れて半年がたとうとしていた。


 彼とは、僕が旅行中に出会った。もちろん友達とかと行くような楽しい旅ではない。心の渇きを少しでも癒すための旅、傷心旅行というやつだ。そう簡単に彼女のことを忘れることができるはずがない。半年たってもまだずるずると引きずっているのだ。山奥のある民宿に泊まったとき、そこで働いていたのが彼だった。


 ある夜、その古い古民家を改修した宿にある共用の囲炉裏でひとりで火を眺めながら郷土のお酒と料理に舌鼓を打っていると、彼がやってきた。若者ひとりでいるのが珍しかった興味本位だろうか。


「つかぬ事をお聞きしますが、おひとりでどうしてここに?」


 どうせ、この宿を出たらもう会うこともない。観光地で会う人は一期一会だ。この際言ってしまえと、酒が入って口が軽くなったこともあっただろうが、ここへ傷心旅行しに来ることとなった顛末をかいつまみながら話した。彼女のことを思い出すのは痛いが、なぜか彼女の人となりを話すのは気分が悪いことではなかった。もう僕の彼女ではないのに。


 彼はずっと黙って聞いていた。文字通り聞き入っていた。


 話しながらふと気づいた、受付の時は顔をよく見ていなかったが、囲炉裏の炎に照らされた顔がよく見える今、彼の顔をしっかりみると、僕そっくりではないか。いや、正確には顔のつくりとか雰囲気が似ているというべきか。似ている人以上ドッペルゲンガー未満といった感じだろう。歳は僕より少し大人びて見える。髪の毛は短髪の僕より少し長く、落ち着いた成人男性、和装が良く似合っている。僕と違う点を強いていうと目元にほくろがあることか。そしてもう信じられなかったが、胸元の名札をみると苗字と漢字こそ違えど、同じ名前だった。


 いやこの人が彼女の想い人のはずがない、思い過ごしだ。そう思っていると彼が口を開いた。




「…私にも昔付き合っていた人がいました。彼女は、笑顔が素敵でいつでも明るく、いつだって私の心を照らしてくれました。ふたりで幸せな日々を送っていたんです。でもある出来事を境に彼女と決別してしまいました。落ち度は私にあったのですがその時の私は何をおもったのでしょうか、彼女を責め立てそのまま私は彼女のもとを離れ、ここに今落ち着いています。そして、どういうわけでしょうか。今目の前にいるあなたが語った女の人の特徴が私の昔の恋人にぴったりとあてはまっている。こんな偶然あるとも思えませんが、もしよかったら、あなたの昔の恋人の名前を教えてくれますか…」




 僕は彼女の名前を言った。一言一言丁寧に、心を込めて、決して投げやりにならないように。彼女の名前には笑顔や花畑の意味が込められていた。彼女は名前の通りの素敵な女性だった。


 名前を聞いた彼は、どこか懐かしげで悲しげで悔いを含んだような表情をしていた。


「その名前を聞いたのは久しぶりです。これほどまでに偶然が重なるとは思えません。あなたに別れを告げた女性は、私の昔の恋人です。」




 彼の話を聞いているうちに薄々感じていた。彼の話に対して共感をもっていた。なぜなのかという答えが今、出た。なんという偶然だ。こんなの、安っぽい恋愛映画みたいじゃないか。彼女の想い人と偶然会うなんて、天文学的確率だ。とても現実とは思えないが、その現実に僕は今生きている。


 彼と会いたいなんて思っていたが実際あってみてどうしたいかと言えば、よくわからなかった。ただただ会ってみたかった。たぶんそう思うことができていたのはその彼と会うはずがないとの僕の中で決めつけていたからだった。会ったらどう思うのだろうか?怒り?悲しみ?対抗心?


 実際に彼を目の前にして思ったのは、僕と同族なのだという仲間意識のような気持ちだった。彼は言葉の端々から彼女のことを悔いていた。彼女のもとを去ったことによる後悔というよりむしろ彼女のことを哀しませてしまったという悔いだった。それほどまでに彼女のことを好いていたのだろう。その気持ちにおいて僕と彼は同族だった。


「彼女に会いたいですか?」


「私は、自分の意思で彼女のもとを去りました。もう会うまいと。だけど、その日から日に日に後悔が募りました。私のことをあれだけ、あなたに私の姿を重ねてまで愛していた彼女を哀しませてしまったことが悔やまれます。だけど今更どの面下げて顔を見せられるというのですか。」


「僕は、はっきり言ってひどいことをされたと思っています、だけどそれでも、そんなことをされてもなお、彼女を嫌いにはなれないんです。僕の大好きだった彼女はあなたを探し求めている、そしてどういう巡りあわせかあなたに出会い、あなたも彼女を求めている。僕は、あなたに彼女に会ってほしい」


 僕は彼に言い聞かせると同時に、僕自身に言っていた。そうか、誰かを救いたいってことは、自分が救われたいと強く望んでいるってことなのか。僕は救われたいのか、彼と彼女が再び会うことで。


 黙っている彼に言う


「胸の内は目に見えないのでわからないってだけで誰にでもいろいろあるんですよ。それはあなたもわかっているはずです。」


 もはや僕は自分自身に対して説得しているようなものだった。彼に僕の気持ちを託すように。




 どれくらい時間がたったのか、窓から見える月は西に傾き始めていた。


「わかりました。彼女に会います。」


「約束ですよ。」


 そうそれでいい、あなたはそうするべきだ。彼女のために。笑える話だと思う、裏切りをされたも同然の女性を応援するようなことをしているのだから。だけど彼女には笑っていてほしかった。僕の彼女への感情は彼にぜんぶあげた。


 彼女には僕からは届かないってわかってるこの感情をどういうんだろう?ああ、そうだこれはもう恋ではない。




 それを、人は祈りと呼んだ。




 *




 その人は最初見たときにひどくやつれているように見えた。まるで主に捨てられた犬のように、突如森に放たれ状況を飲み込めないまま放浪した動物のように。昔の自分をみているようだった。


 この宿に泊まる受付をしたときも私と話しているようで、心ここにあらずという感じだった。自分と似ている人だなと感じたこともまた彼の印象をより強くした。




 彼女と別れてしまった、というより一方的に去ってしまった私は気の向くままにできるだけ彼女から遠くへと離れた。いろいろな仕事を転々とした。すぐに辞められるような仕事。穏やかな仕事。しばらくしてこの宿に落ち着いた。古民家を改装したこの宿は囲炉裏が特徴的で山奥にある隠れた名店だ。宿の女将さんも私の意向を汲み取ってくれ、ここに置かせてもらっている。


 彼女に会って非礼を詫びたかったが、彼女に合わせる顔がなかった。そのまま惰性で働いて二年近くがたつ。彼女と連絡は一切取っていない、最初のうちは何回かメッセージが来たがそれももう遠い昔だ。このままこの地にずっといるのだろうかと考え始めた頃、彼が訪ねてきたのだ。


 ある晩、仕事も一段落しもう今日は休もうと思い、住んでいる離れへと向かっていた。ふと囲炉裏の方をみるとあの彼がいてお酒と料理を嗜んでいた。他に連れもいないようだし、話しかけてみようと思った。何も悩みがあるような雰囲気の正体を知りたかったり、相談にのってあげようとしたわけではない。この宿に勤める者と客の交流、ただそれだけの気持ちだった。


 年齢は私より少し若めか、もしかしたら学生かもしれない。けど学生なら友達と旅行とかだろう。この宿に一人で来る客はあまりいない。何か訳ありか。


「つかぬ事をお聞きしますが、おひとりでどうしてここに?」


 話しかけられると思っていなかったのか、少し驚いてこちらをみる。それにしても私に似ているな。


 彼はここへは傷心旅行で来たという。酒が入ると口が軽くなるタイプなのかそれとも誰かに話を聞いてほしかったのか、彼はぽつぽつと今までのことをまるで古傷に触るようにしかし丁寧に話していった。語りながら彼は、時折楽しそうな表情をしたり悲しそうな表情をみせた。


 私は彼の話を聞くにつれ彼の想い人が私の昔の恋人だったことに気づいた。恐る恐る名前を聞いてみると懐かしい名前が記憶の底から呼び覚まされた。いや、記憶の底などではない、忘れようと逃げていた名前だ。


 私は彼女との関係を彼に話した。彼も感ずいていたようでこの偶然をすでに受け入れているようだった。


 彼女に会いたいか聞かれた。会いたい、それは私がやり残したことの一つだ。だが同時に今更会ってどうしようというのかと考えもした。彼はもはや私を説得しにきていた、というより彼自身の想いを私に預けているようだった。彼女に会ってほしいと。




 私は彼の想いを理解し、彼女に会うと言った。


 彼は私がなぜ彼女のもとを去ったのか知らない。だがそれでいいと思った。知ってしまったら余計な心配をかけてしまうからだ。知ってしまったら知らなかった頃にはもう戻れない。知らなくていいこともある。




 *




 彼が宿から旅立った。彼とはその晩ずっと語り合っていた。最初の話でかいつまんでしまったこともその瞬間に自分が考えたことも、彼から見た彼女のことも全部だ。私は彼の話を一言一句、想いの一つまみ一つまみを覚えるようにじっくりと聴いていた。


 これからまだ旅行を続けるのか、これで終わりなのかはわからない。ただ一つわかるのは彼はもうここに来た時のような廃れようはなくなっていた。彼の中で何かひとつ乗り越えることができたのだろう。連絡先などは交換していない。これから先二度と会うとこはないだろうからだ。私は私のやるべきことをしなければならなかった。早く彼女に会わなければならない。彼から教えてもらった連絡先へメッセージを送る。その日のうちに返信は来なかった。




[久しぶりだね。じゃあこの日でどう?]


 彼女から返信が来た。彼女が都合の良い日が示されていた。仕事の都合がつく方の日を返信する。




 彼女と会った。数年ぶりの再会だ。彼女は私のことを覚えていると思っていた。


 話していくうちにある違和感に気が付いた。変によそよそしいのだ。まるであまり会いたくなかったかのようにどことなく素っ気なかった。会話の内容も少しかみ合わないこともある。怒っているわけではないらしい。恥ずかしいのか?いや違うようだ。


 ああ、そうか、わかった。彼女は私と話していないんだ。私のことを”そっくりさんの彼”だと思っているのだ。顔が似ているということがまず一番の要因だろうが、流行りの風邪にかからないようにどちらもマスクをしていて表情が読みにくいし、声もこもっているから余計にわからなかったのだろう。メッセージがきてわからなかったのも無理はない。彼女と一緒にいた頃の私はそうした情報端末系に疎くスマホの類を持っていなかったし、SMS機能だと相手側に名前が出ることはない。メッセージ中にいれた名前も漢字ではなかった。


 何ということはない会話を続ける彼女に言おうと思った、だけど踏みとどまった。また彼女を悲しませたくはない。もうこれ以降彼と同じように目の前の彼女に会うことはないから。


 目の前の彼女は私のことを忘れられないというより私との思い出を忘れられないようだった。私を追っているのではなく記憶を追っているのかもしれない。それでも彼女の笑顔は変わっていなかった。本当に名前の通りの素敵な女性だ。しゃべり方も仕草も癖もなにもかも変わっていない。




「何か雰囲気変わった?」


「話し方もなんかあの人にそっくりだね」


 そんなことを言うぐらいで気づくことはない。


 ふと印象に残った言葉を思い出す。宿に置いてあった詩集に書いてあった言葉だ。


  『哭恋こくれん』


 ひどく泣きたくなるほど辛く、悲しい恋愛を表した空想の言葉


 彼女の求める私は現実には存在しない、空想上の世界、彼女だけの世界にいるのだろう。その人に会えるのかどうかは彼女しか知らない。




 去り際、彼女が私に言った


「あなたは本当に”彼”なの?」


 そうだ、私はあなたが探し求めている、昔にあなたのもとを去った男だ。


「今日会ったあなたは昔の私の、、、、その人に似ている、すごく。特にあの人は目元にほくろもあった。もしかして、あなたは?」


 もういかなければならない


「違いますよ」


 笑って言う。何も悟られないように。昔彼女と共にいたときは彼女を偽ったりしたことはなかった。これが最初で最後だ。


「さようなら。お元気で」




 彼女が追いかけてこないようになるべく速足でその場から遠のく。振り返ったりはしない、そんなことをすれば彼女が感ずいてしまう。


 いつかこれから先、宿で巡り合あせた彼と彼女が出会うことが来るかもしれない。その時に彼女はあの日にあった男の正体を知るだろう。怒るだろう。


 許してはくれないだろう、すまない。ただあなたを哀しませたくなかった一心なんだ。




*




 私は人と違って、自分自身の命の期限を知っていた。不治の病に侵されていることを知ったのは彼女と出会った後のことだ。それまでは彼女と私の二人で平凡な幸せをともに歩いていた。なんということはないどこにでもいるような、けど世界に一組しかいない幸せなカップルだった。私たちなら何でもできるそんな風に思ったこともあった。目に映る景色すべてに彼女がいるように見えるほど彼女と一緒に日々を紡いでいた。


 このまま行けば結ばれるだろうと思った矢先、体に不調をきたし、検査の結果自らは現代の医学ではどうしようもないものを抱えていることを知るに至った。医者から伝えられた私の炎が消える時間はあと三年と少し。彼女に話すべきか、話すとしたらどう話すべきか、まず第一私がこの世から彼女をおいていなくなるということに激しく動揺した。苦悩した。


 


 はじめは彼女にこのことを言わず、いつも通りに生活していた。日常生活に何ら支障はないものだったが、知ってしまった以上全く態度に出さないのは到底無理な話だった。人の気持ちを読むのに長けていた彼女はすぐに私に聞いてきた。私は隠しごとがうまくなかったのでこの病の事、そして課されたタイムリミットのことを伝えた。彼女はずっと一緒にいようとしてくれた。だが、自分の秘めていたことを他人に晒したことでますます不安定になった私は半ば逃げるように彼女のもとを去った。彼女を苦しませたくなかった、哀しませたくなかった、ずっと幸せであってほしかった。ひとえに彼女を愛していた。人を愛するっていうのは「その人の幸福を自分よりも優先する」ということ、「その人の幸福が自分の幸福」ということだと本で読んだ。彼女の幸せが私の幸せだった。今幸せで後に悲しむより、今悲しんで後にに幸せになってほしかった。当時の私はそう考え、彼女から離れた。もう会うまいと。


 


 自分がこの世界からいなくなる前にこの目でいろいろなものを見よう、そう考えて様々な職を転々とした。とはいうものの体に負荷をかければ当然この灯も予定より早く消えてしまうかもしれなかったので、穏やかな職を選んだ。今思えば職を転々として放浪したことそれ自体があの宿で出会った彼のように傷心旅行のような意味合いをもっていたのだろう。彼女の存在を忘れようとしていたのかもしれない。


 しかし、もう彼女に会わないと決めた傍ら彼女に会いたがっている自分もいた。その自分を消すように、大きくしないように残りの毎日を送っていた。これでよかったと思った、そう自分に言い聞かせていた。人というのは忘れることができる生き物だという。あることを忘れ、新しいことを求め、得ていく。同じように彼女の存在も私の中で徐々に希薄になっていった。私は自分の大切なことであるのにその忘れ行くことを傍観していた。してはいけないのに。


 


 だが、彼が私のもとに訪れた。そのことで遠くの彼方で消えかけていた彼女の存在が、忘れてはならなかった記憶が煌々と輝いた。彼がその光が輝くきっかけをくれたのだ。彼がいなければ、私と出会わなければ、私は大切なことを気付かないままにいなくなっていただろう。縁というのか巡り合わせというのだろうか、彼との邂逅はそういったことを感じざるを得なかった。もしかしたら、ばかげた話だろうがこの愚かな私をどうしようもなく思った神様が私自身を寄こしてきたのかもしれない。いや、それは彼に失礼だな。でもそれくらいに思っている。彼は私で、私は彼だ。彼には感謝してもしきれない。


 彼のおかげで私は彼女に会うことができたのだ。彼女は私を認識することはできなかったけどそれでよかった。彼女が元気な姿を見られたから。彼女は私が彼女を欺いたことを知るだろうが悲しむことはないだろう。怒って怒って怒って怒って最後まで私を許さないだろう。でも彼女はそれをばねにしてきっと幸せになる、きっと。長く彼女と一緒にいた私ならわかる。いつか私との思い出の日々を追い続けることをやめ、新しい幸せを追ってほしい。


 


 ずっとずっとずっと彼女の傍にいたかった。彼女は私にとって代え難いなにかになっていた、彼女は私の人生に欠けてはならない私の一部だったんだ。真っすぐに心から好きだった、この想いの余熱であとは生きていける、それほどに。彼女は私の好きな人だ。声が聞けたら嬉しくて、笑顔が見れたら愛おしくて、隣を歩くのが幸せだった、そんな特別な。昔、苦しんでた頃は彼女と出会わなければよかった、なんて考えたりもした。けど、出会わなければ何も無かった。傷つくことも涙することもなかっただろうけれど、このあたたかくて愛おしい感情を知ることもなかったんだ。彼女が教えてくれたんだ。もう絶対に彼女を忘れようとは思わない、この気持ちを抱いたままいくことにするよ。






『事実は小説よりも奇なり』この言葉は私が好きな言葉、彼が嫌いだった言葉だ。彼はフィクションとノンフィクションの差ははっきりしている、なんて言うけれどね。私と彼、彼女のストーリーは摩訶不思議で出来過ぎた脚本みたいで月9のドラマみたいだけれど、全部本当にあったことなんだよ。本当は彼をここに呼んで君に彼の話を聞いてほしかったけれど生憎私は彼の連絡先は知らなくてね。私の覚えているすべてを伝えたつもりだよ。人によってこの話はいろんな受け取られ方をするかもしれない。ただこれだけは覚えていてほしいのは、私も彼も彼女も幸せであったこと。どんなに打ちひしがれた時でも支えがあったから幸せだったんだ。どんなに辛いときでも、大切な誰かに恥じない自分でいるために歯を食いしばることができたんだ。想う相手は人それぞれだろうけどね。


 君もこんな経験をしたことがあるかな。それともまだ見ぬ出会いと自分がこの先待っているのかな。もしそんな大切な出来事があったなら、そのことを忘れてはいけない。それだけ本気だったんだから、真剣だったんだから。自分の苦しみを「そんなこと」で片づけてはだめだ。大切にしていてほしい。




 少し長くなったが、私から君に伝えたいことはすべて伝えた。これを信じるかどうかは君自身が決めてほしい。もしこれから先、彼や彼女に会ったりしたらよろしく言ってほしい。


 もういかきゃいけないみたいだ。名前も知らない君、最後の最期まで聞いてくれてありがとう。


 


 じゃあ、さようなら。


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青桐 @jacky123

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