第一章 ~『後宮の雰囲気』~


 仕事を終えた琳華りんふぁ翠玲すいれんは共に宿舎に向かって歩いていた。一日の疲れを感じさせない軽やかな足取りで、夕陽に照らされた廊下を並んで進む。


「まさか翠玲すいれん様が私と同じ宿舎に住んでいるとは思いませんでした」

「部屋も隣だし、奇遇なこともあるものね」

「もしかしたら慶命けいめい様が配慮してくれたのかもしれませんね」

「え~、でも普通は上司が隣人だと嫌にならない?」

「他の人ならともかく、翠玲すいれん様なら私は大歓迎ですよ」


 偶然か意図してかは分からないものの、琳華りんふぁにとっては悪くない結果だった。


「ただ翠玲すいれん様が私と同じ中級女官だとは思いませんでした」

「上級女官になるのは私の能力では無理よ。そこに到れるのは一握りの人間だけ。私にはあの厳しい競争を生き残れる気がしないもの」


 中級でも過大評価だと、翠玲すいれんは自嘲する。謙遜として受け止めると、遠くからヒソヒソと小さな声が届く。声の主は二人の女官であり、琳華りんふぁの知らない顔である。


翠玲すいれん様のお知り合いですか?」

「違うわ。でも注目されている理由には見当がつく。きっとあなたよ」

「私ですか?」

「新人でいきなり中級女官となったでしょ。これは異例なのよ。本来なら下級女官から始まり、下積みを経験してから昇進するの」

「やはり特別扱いされていたのですね」

「とんでもなくね」


 中級女官となるには厳しい試験を突破するか、貴人の生まれでなければ手が届かない領域だ。


 琳華りんふぁは比較的裕福な家庭で育ったが、後宮内で特別な贔屓を受けるほどの家柄ではない。それにも関わらず、彼女があっさりと中級女官の地位を得たことに、周囲の者たちは内心で疑念を抱いていたのだ。


「給金も少なく、共同部屋での生活を強いられている下級女官の中には、あなたに嫉妬する人もいるでしょうね。贔屓だと噂する者もいるかもしれない。でもね、そんなの気にしなくていいわ」

「どうしてですか?」

「だって黙らせるのなんて簡単だもの。実力を見せつければいいのよ」


 妬みは侮りから生まれるものだ。琳華りんふぁが周囲から認められれば、嫉妬の声はすぐに抑まる。シンプルで分かりやすい解決策だった。


琳華りんふぁの実力を知れば、きっと皆から尊敬を集めることになるわ」

「そうでしょうか……」

「間違いなくね。だって私がそうだったもの……正直、最初は実力を疑っていたわ。でもたった半日で評価を変えさせられた。琳華りんふぁには人に認めさせるだけの力がある。胸を張っていいわ」

翠玲すいれん様……私はあなたが上司で良かったです」

「私も。琳華りんふぁと一緒に働けて嬉しいわ」


 尊敬できる上司に恵まれた幸運に感謝し、琳華りんふぁたちは廊下を進む。すると、食欲を唆る匂いが漂ってきた。


「この匂いは桃饅頭でしょうか……」

「大食堂の看板メニューの一つなのよ。夕飯が決まっていないなら寄っていく?」

「是非! 私、桃饅頭には目がなくて……」

「超人の琳華りんふぁにも人間らしいところがあるのね」

「変でしょうか?」

「いえ、むしろ好感が増したわ」


 朗らかに笑う翠玲すいれんと共に食堂へ向かおうとする。そんな時、予期せぬ人物と偶然にも出会う。琳華りんふぁを後宮で働かせるよう手配してくれた慶命けいめいである。


「大食堂へ行くのか?」

「はい。桃饅頭を食べようかと」

「それはいい。ここの桃饅頭は絶品だからな」


 慶命けいめいの声掛けに驚きつつも、微笑みで応える。総監という立場にあり、多忙である彼が、気にかけてくれたことに感謝する。


「生活にも慣れたようだな」

「おかげさまで。後宮についても少しは詳しくなりました」

「それは重畳だ。ただ後宮で働くなら学ぶことはまだまだたくさんある。より幅広い知識や人脈を得るためのチャンスをやろう」

「チャンスですか?」

「丁度、親睦を深めるための宴が今宵開催される。後宮での立場を築くには、こうした場に顔を出すことも重要だ。そこにお主を招待してやろう」


 正直、琳華りんふぁの得意なイベントではない。だが慶命けいめいの言葉にも一理ある。人脈を得れば、仕事を円滑に進める上で役に立つからだ。


「それにな、もしかしたら皇子が顔を出すかもしれないぞ」

「引きこもっていると聞きましたが……」

「それは皇子が流したデマだ」

「なぜそのようなことを?」

「立場の垣根なく人と接したいらしくてな。正体を秘密にして行動する上で都合が良いらしい」

「なるほど……」


 見知らぬ青年が後宮を彷徨いていたら、その正体と皇子を紐づける者が現れるかもしれない。


 だが引きこもりだと噂を流しておけば、宮殿の外に出ないはずだと思い込み、皇子である可能性を否定してくれる。それがデマを流した狙いなのだという。


「変わった人ですね」

「ただ能力は高い。この国の未来を憂慮する必要がないほどにな」


 慶命けいめいは迷いなく断言する。その言葉だけで、相当な人物に違いないと感じられた。


「ではな。待っているぞ」


 慶命けいめいはそれだけ言い残して、この場を去っていく。彼の背中を見送ると、沈黙を貫いていた翠玲すいれんがようやく口を開く。


琳華りんふぁは凄いわね。慶命けいめい様から宴に誘われるなんて……」

翠玲すいれん様は参加されないのですか?」

「したくてもできないわ。宴には後宮を統括する立場の人たちや皇族付きの女官たちが集まるの。将来を期待された琳華りんふぁだからこそ誘われたのよ」


 出世コースを歩み始めているのだと伝えられるが、琳華りんふぁの心境は複雑だった。


(私、一年の契約なのですけどね)


 期間が限られているからと仕事の手を抜くつもりはないが、出世には興味がない。ただ慶命けいめいへの恩には報いたいと、琳華りんふぁは宴への参加に不安交じりの期待を抱くのだった。


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