後宮の宝石鑑定士は黙ってない!
上下左右
プロローグ ~『残念な婚約者』~
「残念ですが、この宝石はガラクタですね」
人は期待を裏切られると怒りを顕にするもので、客の男も例外ではなかった。額に皺を寄せながら、眉根を釣り上げる。
「嬢ちゃんは若いから、この宝石の価値が分からないんだ。店主を出せ」
「私が店主です」
「嘘を付け。嬢ちゃんのような若者が、こんな一等地に店を持てるものか!」
「亡くなった父から継いだ店なのですよ」
若い女だからと舐められるのは日常茶飯事だ。ただ慣れてしまえば、対処法も心得ている。
「私が店主ですし、私以外に鑑定士はいません。気に入らないのでしたら他店でお売りください」
「それは……」
街にある宝石店は
「俺も嬢ちゃんと喧嘩したいわけじゃないんだ。ただきちんと宝石を評価してほしいだけなんだ」
「では逆に聞きますが、あなたはこの宝石が高価だと?」
「おう。なにせ世にも珍しい七色に輝くダイヤモンドだからな。金貨百枚、いや二百枚の価値はあるはずだ」
男は自信満々に語る。その石は確かに美しい輝きを放っていたが、
「これはダイヤモンドではなく、モアッサナイトという模造宝石ですね。素人目には判断が難しいですが、光の屈折率がダイヤモンドとは違うので専門家なら見間違えることはありません」
「な、なら、本当にこの宝石は……」
「ガラクタですね」
モアッサナイトは人工的に生産可能な宝石で、西の帝国で大量生産されている。
「ガラクタといっても、金貨一枚くらいにはなるんだろ?」
「出せても銀貨一枚ですね」
「そんなに安いのか!」
「他の店なら銅貨三枚が相場ですから。良心的な買取金額なのですよ」
「そうなのか……」
「ちなみにお客様はいくらで買われたのですか?」
「金貨十枚だ……」
「それは御愁傷様です」
不憫に思いながらも、
男が去った後、
宝石鑑定士の仕事はミスが許されない。偽物の宝石を高値で買えば店の損害を生むだけでなく、信用問題に繋がるからだ。
(お父さんのためにも、この店だけは守り抜かないと……)
この宝石店は
(そろそろ時間ですね)
時計の針が動き、店の閉店時間が近づく。それは同時に婚約者の
(今日も遅刻してくるのでしょうね)
長い黒髪を低い位置でまとめた髪型と怜悧な顔付きは知的さを感じさせ、白い
決して醜女ではなく、美女に分類される容姿をしているが、男性受けはお世辞にもよろしくない。
本人の隙のない性格と地味な印象のせいで、近寄りがたいと思われたのか、十八年の人生で一度も異性に言い寄られたことがなかった。もし
(だからこそ
遅刻すると最初から分かっているなら期待しなければいいだけだ。待ち時間を有効活用するため、店の陳列ケースに並んだ宝石を整理して床掃除を始める。
片付けが進むと、外はすでに暗くなっていた。他の商店から漏れ出る光がぼんやりと周囲を照らしている。
もしかしたら
顔を上げると、扉を開いた婚約者の
「おう、待たせたな」
端正な顔立ちと洗練された風貌の
ただ口では待たせたと言いながらも申し訳なさを感じ取れないため、印象は最悪だった。
「待ってはいません。どうせ遅刻すると思っていましたから」
「相変わらず生意気だな。そんな性格だから、誰からも相手にされないんだ。婚約してやった俺に感謝しろよ」
「まぁいい。買い物に行くぞ」
「私と出かけて楽しいのですか?」
「馬鹿言うな。楽しいわけがないだろ」
「ならどうして?」
「荷物持ちが必要だろ」
理不尽に耐えるのは、
今は母が女店主として店を切り盛りしているが、その後を継ぐのは順当にいけば
だが
既に織物屋で従業員として働いており、次男坊で継ぐ家業もない彼にとっても、この縁談は渡りに船だったのだ。
(多少の理不尽は我慢しないと……)
グッと理不尽を飲み込んで、荷物を持ちながら夜の街を歩く。
石畳の通りには、ぼんやりと灯る提灯が並び、その柔らかな光が街角を神秘的に照らしている。遠くから聞こえる楽器の音色が静寂を破り、夜風に乗って耳に届いた。
「お、あの店がいいな」
一瞥しただけで高級店と分かる店に足を踏み入れると、彼は細やかな刺繍が施された絹の
「あの服、高価なのではないですか?」
「俺の給料の一ヶ月分だな」
「よくお金がありますね?」
「何を言っている。支払いは
「え!」
聞いてないと抗議を含めて目を細めると、彼は鼻で笑う。
「俺が結婚してやるんだぞ。先行投資だと思え」
「…………」
人はここまで最低になれるのかと驚かされる。ただ
(それに
長年、店で働いてくれている
仮に彼と婚約破棄をしても、新しい男を母が気に入る保証はない。次期店主のお鉢が
理不尽を黙って受け入れ、
「デートはこれくらいにしましょうか?」
「駄目だ。この後、大切な話があるからな」
「なら早くしてください」
「この話は場所を選ぶ。なにせ
「…………」
嫌な予感がするが、家族が関わっているなら断れない。
大人しく
実家の織物屋は街の外れにあるものの、地元で長年愛されてきた老舗である。古い木造の建物は、時間が経過するにつれてその風格を増しており、足を踏み入れると、織物の豊かな色彩と独特の匂いが彼女を迎え入れてくれる。
店の奥の客室に足を進めると、長椅子に腰掛けた母親の
「おかえり、
妹の
「私に大切な話があるとか」
「そうよ、
「それはめでたいですね!」
仲が良好とはいえないが、たった一人の妹だ。素直に祝福を送るが、話にはまだ続きがあった。
「それで
「え……」
衝撃の大きさに二の句を継げないでいた。
(まずは冷静にならないと……)
心を落ち着かせ、
「本当に浮気していたのですか?」
「ああ。悪いか?」
「…………」
(私はここまで舐められていたのですね……)
悔しさに拳を握りしめながら、母に視線を移す。娘の窮地だ。親なら助け舟を出してくれるだろうと期待するが、返ってきた反応は予想外のものだった。
「そういうことだから、
「この不義理を私に受け入れろと?」
「あんたはお姉ちゃんなんだよ。妹の浮気くらい我慢しなさい」
子供の頃から母には厳しく育てられてきた。
朝から夜まで勉強を強いられ、礼儀作法を叩き込まれた。玩具を買ってほしいとねだっても与えられたこともない。
一方で妹の
その扱いの差に不満がなかったといえば嘘になる。だが愛ゆえの鞭だと信じていた。
(でも、もうお母さんを信じられない……)
涙を流さなかったのは、薄々、心の奥底で感じていたからだ。ようやく
(もし私が死んでもきっと悲しまないでしょうね……)
便利な道具が壊れたくらいの感傷しか生まれないだろう。三日もすれば忘れて、
「私の婚約はどうなるのですか?」
「
「……
「もちろんだ」
婚約破棄への未練を感じさせない。彼にとって
「
「お姉様、結婚式は盛大にやるから。参加してね」
「私に参加しろと?」
「たった二人の姉妹ですのよ。参加しないのは不自然ですわ」
「私はあなたに婚約者を奪われたのですよ!」
語気を荒げると、
「
頭が痛くなるほどの理不尽な要求だった。これを認めれば一生寄生され続ける。そう確信できるほど家族の
「私もそんなに裕福ではありませんから」
「宝石鑑定士の商売は繁盛しているそうじゃないか」
「それでも、宝石の需要は頻繁にありませんから。お客さんの数は多くありませんよ」
利益を客に還元しているため、
「なら店を売ればいいじゃないか。一等地にあるし、きっと高値で売れるはずさ」
「それは本気で言っているのですか?」
「……冗談が嫌いなことは知っているだろ?」
「ですが宝石店はお父さんの形見ですよ」
「もちろん分かっているさ。でもね、亡くなってから何年も経っているじゃないか。死人よりも大切なのは新しい命さ」
「なら私の気持ちはどうなるのですか?」
「我慢しな。あんたはお姉ちゃんなんだから」
「分かりました」
「納得してくれたんだね」
「いいえ、私は親子の縁を切ってでも、店を守り抜くことにします」
「
母の金切り声が部屋中に響き渡る。だが
「まぁまぁ、落ちつきましょうよ。どうせ
「私は何を言われても意見を変えませんよ」
「
(これは借用書ですね……)
しかも書面には見覚えがあった。以前、
「これが何か分かるよな?」
「……その借用書が何か?」
「お前も不用意なことをしたよな。こんな危険なものにサインするなんて」
「私の代わりに織物屋を継ぐ条件だと言われては呑むしかありませんでしたから」
借金の連帯保証には抵抗があったが、宝石鑑定士を続けるためには仕方のない選択だった。だが彼はその判断が間違っていたと笑う。
「この借用書の金額がいくらか覚えているか?」
「金貨五枚でしょう。最悪、私の貯金からでも十分に支払える額だからこそサインしましたから」
「残念だったな。俺の借金は金貨千枚だ」
彼の指差した書類には『金貨千枚に関する借用契約書』と題されていた。偽物だと疑ったが、その下には
「ありえません。私は確かに金貨五枚だと……」
「金額は誰に確認した?」
「それはお母さんに……まさか!」
「推察通り、その時からグルだったのさ」
借用書の数十ページに及ぶ分量と専門用語のオンパレードを前にして、母の「代わりにチェックしておいた」という言葉を鵜呑みにして署名したのだ。
まさか実の母親が婚約者とグルになって騙すとは思わなかったからだ。抗議の視線を母に向けると、彼女はふてぶてしい表情を浮かべる。
「仕方ないじゃないか。うちの家には跡継ぎが必要なんだから。借金の連帯保証人にされたくらい、お姉ちゃんなんだから我慢しな」
つまり母にとって
(どうして、こんなにも酷いことができるのでしょうね……)
乾いた笑い声を漏らしながら、しっかりと頭のギアを入れ替える。家族はもう味方ではない。明確な敵だ。
「さようなら。私はあなたたちを絶対に許しません」
(この店だけが私を受け入れてくれます)
鍵を差し込み、店の扉を開けると宝石たちが出迎えてくれる。店内には父と過ごした無数の思い出が詰まっており、傷心した彼女を癒やしてくれた。
「お父さんが生きていれば……」
壁に掛けられた父の肖像画を見つめながら、ボソリと泣き言を漏らす。だが肖像画は何も応えてくれない。静寂な空間に反響した声が、現実を思い出させた。
(お父さんはもういません。他の誰でもない私がなんとかしないと!)
家族にさえ裏切られたのだ。他人は誰も助けてくれない。信じられるのは自分自身の力だけだ。
「待っていてくださいね。必ず帰ってきますから」
どんな手を使ってでも、父から受け継いだこの店を守り抜くと決意した
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