魔道士物語群
小曽根 委論 (おぞね いろん)
①王歴210年・ザッカリー
第1章 隠遁
第1頁 朝
東にそびえる山々のせいで、やたら日の出が遅い。
ザッカリーはアナ山脈の谷間に一人住むようになって長いが、朝の暗さには今でも時折うんざりする。
それでも、この時期はまだマシな方か……そう思いながら、この中年男は机の上にあった愛用の魔道書を左手で取り、両開きのカーテンを右手で片方ずつ開けた。
今日も快晴である。緑の乏しい尾根筋から太陽がわずかに顔を出し、群青色の空をさらに明るく照らそうとしていた。
その光に目を細めながら、彼は窓の外を眺める。
ふもとの村、ディムルーラルの水源となるスピア川が見えた。
手前のささやかな荒地は彼の所有ではなかったが、こんなところまで人が来る事はごく限られており、結果的に好き放題出来る有様であった。
荒地には大小様々な岩があり、中にはおとな三人が余裕で乗れそうな大きさと平たさのものもあった。草花は勝手気ままに生い茂り、蝶や蜂が飛び交う。まったく手入れされていないその状態は荒れ放題としか言いようがなかったが、ザッカリーとしてはありのままの自然にむしろ趣を感じていた。
とは言え、ここに移り住んでもう十余年になる。見慣れたものに何十秒も見惚れていられるほど、この男も暇ではない。今日は満月の日であるから、何らかの生贄をささげなければならないのだ。
魔王にささげる生贄は人間の処女が一番良いとされているが、赤い血が通っている動物であればなんでも良かった。ザッカリーはここに来てから、もっぱらカエルを生贄にしている。今や冬眠中のカエルを掘り返すのもお手の物だ。もっとも、夏場であるこの時期には不要な技術であるが。
朝食はすでに食べ、食器も片づけた。あとはカエルを獲りに行くだけ……と言いたいところであったが、魔道書の読み返しは毎日午前中に行うよう自らに課していた。彼は古びたボロボロの魔道書をしおりに従って開くと、しばし黙読を始めた。
静かな時間であった。窓の向こう側から小鳥のさえずりが聞こえることもあるのだが、今日はそれも聞こえない。蝉などは論外で、まずこの一帯には生息すらしていなかった。
ザッカリーは幼いころに少しだけ、蝉のいる南部地方に住んでいた時期があったが、あれはひどいものだった。ひたすら鳴き声が不快だった彼は、よく泣いて母親を困らせたものである。
(そういや当時は、名前も『ザッカリー』じゃなかったな……)
多くの場合、魔道士は本名を名乗らない。自分が偽名を使って魔道に勤しんでいる姿を親が見たら、どう思うだろうか? 何度も自問したが、本人に会って確かめられるわけもない。ザッカリーは自嘲気味に笑い、魔道書に集中しなおす。
『我らが君よりの御言葉
汝よ。呪わしき其の地を滅ぼしたくば、地名と【左手第三十三番】の印を紫色で鏡に記し、これを割るがよい。たちまち地には病があふれ、程なく人は死に絶えるであろう』
彼が目を通している魔道書の一節だ。
この中では、魔王のことを『我らが君』と表記している。読者たちはこれに従い、魔王をそのように呼ぶ。魔王は魔道の力の源泉なため、これを崇めない訳にはいかない。ザッカリーが修めているのは、それほどに邪悪極まりないものであった。
彼がこんな人里離れたところで住んでいるのも、この魔道の性質によるものである。魔道士はすべからく庶民から忌み嫌われ、恐れられる対象となる。人々の営為のそばに居てはならない存在なのだ。
勿論それは、ザッカリー自身が誰よりもよく分かっている。だからこそ、彼はひと気のないこの場所を選んで住処としたのだ。
……しかしながら。
その一般市民の側がことわりを把握していないのではないかと思われるような事態が、時として起こるものである。
本日分の魔道書を読み終えたザッカリーは、細身のチュニックと貧相なズボンに着替え、カエルを入れるために手作りした藤製のカゴを持った。
そして、いざ生贄を捕まえに行こうとしたまさにその時、
男は現れた。
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