第2話 【後半】
【前半から続く】
首を傾げる。僕の目指す先はずっと変わらない。
「いいえ、なくしてなんかいません。僕はモネを探しているのです。ずっとそうでした。これからもそうです」
車掌さんの目を見つめ返して言い返す。この言葉には中身があるのだろうか。たとえすかすかの言葉でも他に言えることはない。他の言いようもない。
「そうですか、それなら探すしかないのでしょうね。探すべき導きがもうあなたから失われていたとしても」
「車掌さんは、モネを見ませんでしたか?」
念のため、尋ねてみる。車掌さんは目をつむり、ゆっくりと首を左右に振った。
「残念ながら」
「そうですか。もしも見つけたら教えてくださいね」
「ええ、わかりました。もしも、見つけましたら」
もしも、にアクセントを置いて車掌さんは言った。憐れむような、悼むような声だった。あの町で排水湖に落ちた恋人を探す女性に書けるような声音。
「電車の中を探すつもりですか?」
「ええ、そのつもりです」
少しだけ、苛立ちが返事に乗ってしまった。車掌さんは気にする様子もなく同じ口ぶりで言葉を続ける。すっと、前方の車両を指さしながら。
「強いていうのであれば、あちら側の車両がお勧めです。こちらでは」
そういって車掌さんは目線だけで後方を振り返った。
「私は見ませんでしたから」
「そうですか」
思いの外、筋の通った忠告に拍子抜けしてしまう。
「ありがとうございます」
「いいえ、仕事ですから」
間抜けな声でお礼を言うと、車掌さんは首を振った。
「それじゃあ、お兄さんもお世話になりました」
「いいってことよ。気をつけな」
男の人に向き直って挨拶をすると、軽薄そうな声が返ってきた。意外に思って顔を見ると、なぜだか責務から解放されたような表情をしていた。
「どうしたんですか?」
「いや、どうしようもないことはどうしようもねえんだなった思ってさ」
「はあ」
「まあ、見つかるといいな、モネさん」
その言葉は本心のように聞こえた。
◆◆◆
お辞儀だけをして、席を離れる。
見送る二人の視線を感じる。見たことのある目だった。街の外へ稼ぎに行くと言って仕事を辞めた内田さんを見る店長の目。希望なのだろうか、それとも哀れみなのだろうか?
でも、考えてみるとそれはどちらでもよいのだ。彼らの目にどんな意味が込められていたとしても、それは僕が探しているものには関係ないのだから。
ふわふわと力の入らない足で、電車の中を進む。しっかりした床のはずなのに雲の上を歩くように不確かだ。
隣の車両への扉が近づいてくる。僕が入ってきた扉だ。馬賊たちから逃げて、駆けこんできた扉。今はその扉に向かってゆっくりと進んでいる。馬賊に穴をあけられて燃えていたけれども、さっきの駅で入れ替えたのだろうか。気のせいだろうか、扉が近づくにつれてかすかに煙の臭いが香ってくるように思える。
案外、僕の頭の中の匂いなのかもしれない。
ふとそんなことを考えながら、扉に手をかけて開ける。
むせかえるような煙の臭いが鼻を刺した。咳き込む。気がつく。これは匂いじゃない、煙そのものだ。慌てて息を止めて、扉を閉めようとする。頭が痛い。目がちかちかする。足から力が抜ける。視界が暗くなる。
気がつくと倒れ込んでいた。前のめりに真っ暗な車両の中に。頬に床の冷たさを感じる。
後ろでがらりと音がした。力を振り絞って後ろを振り返る。閉じたドアののぞき窓から光が差し込んでいる。車掌さんがこちらを見ているのがわかる。逆光になっていてどんな顔をしているのかはわからない。
「たすけて」、と開いた口から煙が流れ込む。流れ込んだ煙が僕の体内を煙の黒に染め上げていく。白い灰に埋まっていて空っぽになっていた僕の頭の中にも煙が立ち込める。黒い煙が。
遠のきかけた意識の中に、何かがいるのを感じた。頭の中の一部を奪われたように、気配を感じる。
「だれ?」
頭の中に問いかける。
「俺は煙だよ」
声が聞こえた。
◆◆◆
「煙だよ、煙、知っているだろう?」
声はなれなれしい口調で語り掛けてくる。
「知りませんよ。誰ですか」
喉に煙が染みて声が出せない。混乱した頭で、混乱した頭の中に問いかける。
「つれないな、もう何度も会っただろう?」
言われて考え込む。思い出せない。燃え尽きて灰に埋もれた記憶の中のどこかで会っているのだろうか? 声は記憶から真っ先に消えていくと聞いたことがある。この声の記憶も消えてしまったのだろうか。考えながら、這いずるようにして座席に向かう。煙の中、他のお客さんは見えない。縋りつくようにして座席に座る。頭の位置が高くなり、少しだけ息が楽になる。
「思い、出せないです」
「あら、そうかい。悲しいな」
変わらない口調で頭の中の声が言う。
窓にもたれかかり、ガラスに額をつける。額の熱が吸われて心地よい。窓の外を見ようとすると、ガラスに映った僕がぼんやりとした目で見返していた。違和感。
「え」
声が僕の煙に燻された喉から漏れる。
「本当に、覚えていないんだ」
頭の中の声が言う。窓ガラスをもう一度見る。やっぱり間違いない。ガラスの向こうの僕は、確かに僕なのに、見たことのある僕の顔をしていない。いや、ほとんどの箇所は同じなのだ。でも、決定的に違う箇所があった。
目を見開き、眼球に触る。ひりひりとした痛みを感じる。ガラスの向こうの僕も、目に触り、顔をしかめる。本物の目だ。けれどもその白目はどうしたことか鈍い灰色に染まっているのだ。
「あなたの仕業ですか?」
問いかける。頭の中で煙が首を振るのを感じる。
「別に、そうしようって思ってそうしたわけじゃないんだよ。ただ、俺がここにいるとそうなってしまうみたいなんだ」
「出て行ってくださいよ」
「そんなもったいないことできないよ」
煙が口をとがらせる。
「せっかく入れたんだ、しばらくここにいさせてもらうよ。まあ、君も親切だと思ってさ、少しぐらい我慢しておくれよ」
◆◆◆
「どうだい、もう体も慣れてきたんじゃないかい?」
声が言う。言われてみると、いつの間にか息苦しさは耐え難いものではなくなっていた。確かに息苦しさは残っているのだけれども、なんとか呼吸はできるようになっている。
半分の思考と半分の呼吸。余裕ができたのか、突然居座ってきた闖入者を腹立たしく思う。
息を思い切り吐いて、体の中から煙を追い出そうとする。面白がるような笑い声が頭の中に響く。
「そんなことをしたって仕方がないよ。まあ、そのうち気が済んだら出ていくからさ」
「そこにいて良いのはあんたじゃないんだ」
「へえ」
興味深そうな相槌。
「いていいのが俺じゃないのなら、誰かほかの奴がここにいるべきだ、ってことかい?」
「ええ、そうですよ。今はいなくても、いつか戻ってくるんですから」
「そいつは随分大切な人だったんだろうねえ」
ぽつり、と声が聞こえた。今までの苛々させられるような声とは打って変わって、いやにしんみりとした声だった。たじろいで思わず聞き返してしまう。
「なんですか、急に」
「いやね、ここはとても居心地が良いからさ、君はその人のことを大切に思って、大事に大事にしていたんだろうな、って思ってさ」
「そうですよ」
口に出して言う。煙にしわがれた声で、のどが痛いけれども絞り出す。
「大切な人なんですよ。モネは。そこにいていいのは、だから早く出て行ってください」
「モネっていうのかい? ここにいたのは」
「ええ、そうですよ。知っているのですか?」
「ああ、たぶんだけれども」
煙は曖昧に言葉を濁す。問いかける。もしもこの煙がモネの行方を知っているのなら、この息苦しさの埋め合わせになるかもしれない。
「少し前に女の子の体に入ったことがあるんだ。ぼんやりとしか覚えていないけれども、その子の名前がモネ、と言っていたような気がするんだ」
耳がかっと熱くなる。
「本当ですか? あなたに会った後、モネはどうしたのですか?」
◆◆◆
「どうなったって言われてもね。すぐに別れたよ。そんなに長く一緒にいることもできないんだから」
煙が頭の中で答える。どこか申し訳なさそうな響き。その中に不穏な言葉を聞いた。問い返す。
「長く一緒にはいれない?」
「ああ、そうだよ。あんたもそうやって平気そうな顔してるけど、息苦しくはあるんだろう? ずっといたら死んじまうよ」
とんでもないことを言い始める。それなら早く出て行ってくださいよ、そう言いかけた言葉は煙が続けた言葉に遮られた。
「あの子にも尋ねたんだよ。早く出て行って欲しいのかって。そりゃあ、そうだろうなって思ったんだよ。わかってるさ。あんないい子を殺したいとは思わないからね」
「じゃあすぐに出て行ったんですか?」
それだけの思いやりがあるなら、少しだけでも僕の方に向けてほしいと思う。その思いは体の中の煙に伝わっているのだろうか。
「いいや、それがあんたとあの子の違うところさ。あの子はね、優しくこう言ってくれたのさ。『あなたが私の中にいたいというのなら、別にいつまでだっていてくれればいいさ』って」
ちかり、と記憶の中に何かがきらめいた。探そうと記憶の中を振り返る。けれども気がついた時にはきらめきは灰に埋もれて消えていた。
残念と思う間に、煙は誰かの言葉を真似して続けた。
「『苦しくないってわけじゃないよ。でも、あなたが私と一緒にいたいと思ってくれて、そこに居続けるんなら、私は我慢するよ』って、言ってくれたんだ」
もしも、この煙に体があったなら遠くを見つめながら語っていただろう。そんな風なしっとりとした声だった。
「それで、ずっと?」
「いいや、まさか」
煙が首を振った。
「そんな親切をされて、おっちんじまうまで一緒にいるなんてできないよ。次の駅で別れたさ。俺はあの子の吐いた息に乗ってふわふわとあの空に漂って行ったのさ」
窓の外の空を見る。煙もこの空を見ているのだろうか。あるいはモネも?
◆◆◆
「それはどの駅だったのですか?」
「どうだったかな」
煙は少し考えこんだ。もくもくと肺の中で頭をひねるように蠢くのを感じた。
「いくつか前の駅だったのは覚えているのだけれども」
「モネは、その女の子はそこで降りたのですか?」
「さあどうだろうね。俺はそのまま空を漂っていたから。ただ、あの子がしばらく俺を見送っていたのは見えたぜ」
その言葉を聞いて思い至る。煙の去るのを見送るだけの停車時間があった駅はさほど多くはない。仮にモネがその駅で降りていたとしても、そんなに大きく戻る必要はないのかもしれない。煙に体に侵入されるという不快な体験の中で、初めて得られた良い情報だった。
少しだけ、煙が体の中にいることを許せる気がした。ほんの少しだけ。健康に害のない期間だったら。
もしかしたら、そうすることであの子に近づけるかもしれない。
「モウ」
鳴き声が聞こえた。
「なんですか、その声?」
「何がだい?」
煙は怪訝そうな声で返事をしてきた。煙の声ではない?
耳を澄ませる。
「モウ、モウ」
また聞こえた。確かな低い声。奥の方の客席から。重い体で立ち上がり、声の方に向かう。足音を忍ばせて、慎重に。
「モウモウ」
声は変わらず聞こえてくる。物悲しそうな声だった。
静かに客席をのぞき込む。
「モウ!」
驚いたような声が上がった。
「これは、馬?」
紫色をした丸々と肥えた馬がうずくまって涙を流していた。
「もしかして、馬賊の馬かな」
「馬はひひーんと鳴くと思うけれどね」
「でも、馬賊が乗っていたのなら馬なのでしょう」
煙の言葉に適当な返事を返しながら、馬を観察する。馬は脚を折り曲げた姿勢のまま微動だにしない。
「置いていかれたのかい?」
できるだけ優しい声を作って手を差し出す。悲しそうなその目に共感する部分があった。馬はおどおどと僕を見つめてくる。
驚かさないようにゆっくり馬の頬に触れる。しっとりとした感触が手のひらに広がった。
◆◆◆
つややかな紫の皮膚の下に、確かなぬくもりを感じる。しっとりと肌に吸い付くような手触りは、けれども命の息遣いを確かに伝えている。
そのぬくもりは胸をゆっくりと満たしていった。モネがいなくなって、伽藍洞になっていた胸の中。煙では埋まらなかった空洞だ。その物悲しそうな目のせいだろうか、馬に触れていると少しだけ喪失感の痛みが和らぐような気がした。
「一緒に行くかい?」
「いいのかい?」
煙が驚いいたように声を上げる。
「俺にはあんなに冷たくしてたのに」
「この子はいい子だから」
「へえ」
あなたとは違って、という言葉は飲み込む。煙が鼻で笑う。煙も俺とは違って、と思っていそうだった。仕方がないと思う。少なくとも煙よりはこの馬に一緒にいてほしいと思う。馬は言葉がわかったというわけではないのだろうけれども、ようやく顔を動かして僕の手の平の匂いを嗅いだ。
怯えてはいるけれども、こちらに害意がないことは伝わったようだ。
ゆっくりと耳の間を撫でる。ごつごつとした瘤が指の間に心地よい。
「モウ」
馬がのそりと立ち上がった。座っているときにはわからなかったけれども、立ち上がると随分と大きい。電車の中がひどく狭く感じる。音もなく、再び足を折り、頭を下げる。
「どうしたの?」
「乗れって、ことじゃないのかい?」
煙が言う。
「いいの?」
「モウ」
馬は一鳴きすると頷いて見せた。黒い大きな目が僕を見つめている。
座席の手すりに乗ってから、馬の背中に乗る。馬が立ち上がる。天井に頭をぶつけそうになって頭を屈める。
馬が一歩脚を踏み出す。体勢を崩しそうになって、首にしがみつく。鐙の乗っていない背中の乗り心地は良くない。文句を言うわけにもいかないけれども。
「モウ」
馬は鳴き、ゆったりとした足取りで開いたままになっていた窓に向かう。ごうごうと風が流れ込んできている。
「どうするのさ?」
尋ねる。馬は何も言わず窓めがけて走り始めた。
◆◆◆
馬は躊躇いなく駆け続ける。勢いをどんどん増しながら。窓が急速に血数いてくる。止めようにも方法を知らない。ぶつかる、と身を硬くして、目を閉じる。
予想していた衝撃波はいつまでたっても訪れなかった。代わりに閉じた瞼にごうごうと風が当たるのを感じた。目を開ける。夜の暗さが目に沁みた。
あたりを見回す。自分が電車の外にいるのに気がつく。
僕は馬にまたがって、夜空を駆けていた。それほど速いわけではない。のそりのそりといった、けれども力強い歩調で馬は駆けて行く。
「飛んでる?」
「そりゃあ、馬賊の馬だもの、空くらい飛ぶだろうさ」
煙が言う。そういえば馬賊たちは焼き討ちの煙とともに飛び去って行っていたのを思い出す。煙が体の中にいる僕が乗っているのだから、この馬が空を飛んだとしてもおかしくないのかもしれない。
遠く目の下に電車が走っていくのが見える。電車は煙を出さずに走る。透き通るような夜の空気の中を電車の窓の光が切り裂いていく。
あの光の中にモネはいたのだろうか? わからない。今までの駅にいるのと同じくらいの確からしさだと思う。だから馬の首を軽く叩き、声をかける。
「いこう」
「モウ」
馬は一鳴きして、速度を上げる。電車の響きが遠くなる。真っ暗な原っぱが目の下に広がる。
「ねえ、あっちに行ってはくれないかい?」
煙が胸の内で声を上げた。どこかを指さしているような気がする。その方向に目をやる。何も見えない。
「どうしたんですか?」
「あんただって別にどこに行こうというわけでもないんだろう?」
「あっちになにがあるんですか?」
尋ねると煙は黙り込んだ。胸の中に沈黙が広がる。しばらくして口を開く。
「わからない。でも、俺は、あっちに行きたいんだ」
煙は真剣な口調で続ける
「ねえ、頼むよ。どうかあの灯りのところに行ってくれよ。お願いだ」
「灯り?」
目を凝らす。煙の意識の先、暗闇の中に小さな明かりが見えた。
◆◆◆
声をかけるよりも先に、馬は光の方へ向きを変えていた。
「ありがとう」
煙の言葉に僕は首を振る。
「馬が向かっただけですから」
暗闇の向こうの小さな灯りは、海辺の灯台のように光を放ち続けている。馬はまっすぐに駆けていく。馬の足取りは思いの外速く、光はどんどん近づいてくる。
近づくにつれ鼻先に新しい煙の匂いが漂ってきた。
「お仲間?」
「どうだろう」
誰かが火を燃やしているようだった。小さな野営の焚き火。黄色く輝く暖かな光。
光から少し離れたところで、どかりと音を立てて馬が着地した。そのまま僕も馬から飛び降りる。柔らかな土の感触を靴の下に感じる。僕が歩き始めると馬は一緒に着いてくる。茂みに隠れて焚火は見えなくなっていた。微かな光だけが時折、隙間からもれる。
「誰かいるのですか?」
歩いていると焚き火の方から声が聞こえた。さんざん叫んだ後のしわがれ切ったかすれ声だった。答えは返さずに近づいていく。わざわざ余計な情報を渡す必要はない。馬も分かっているのか静かに
茂みが終わる。少し開けたところになるようだ。様子を窺う。一人か二人かそのくらい。向こうも警戒しているのだろうか。話し声は聞こえない。
しばらくの沈黙。
「誰か、いるのですか?」
焚火の近くからもう一度声がした。さっきと同じ声。少しためらってから、一歩足を踏み出す。
黄色い輝きが目に刺さる。目をしばたかせる。向こうはじっとしていて動かない。もう一歩前に進む。
少しだけ目が慣れて様子がわかるようになってくる。焚火当たっているのは二人のようだった。こちらの様子を窺っているのはそのうちの一人だけ。もう一人は火に向かって手を伸ばした姿勢で動く様子がない。
「こんばんは」
できるだけ敵意のない声で挨拶をしてみる。
「こんばんは」
帰ってきた声の中にあるのは警戒心だけで、敵意や害意はないように聞こえた。
「もしよければ、火に当たらせてもらえませんか?」
◆◆◆
また、沈黙があった。こちらを眺める目が黄色い焚き火に照らされて輝いている。
「ええ、どうぞ、こちらへ。寒かったでしょう」
親切そうな声だった。声の調子だけを信じるわけにはいかないけれども、さしあたってすぐに襲いかかってくることはなさそうだった。言葉に甘えて茂みから離れる。馬も黙ってついてくる。見開いた目が馬に向けられる。
「おや、そちらは……」
「つれです。近くまで、よいでしょう」
「ええ、もちろん構いませんよ」
焚き火の主は頷いてから言葉を続けた。
「どうぞそこらにお座りください」
「ありがとうございます」
手近にあった倒木に腰を下ろす。
明かりの中で観察する。
やはりこの焚き火にあたっているのは二人だけのようだった。一人はさっきから話している男。酷くしわがれてやせ細った男だった。黄色く輝く焚き火に照らされて、見開いた目がきらきらと輝いている。じっとこちらを見ているような、それでいてもっとどこか遠くを見ているような不思議なまなざしだった。
もう一人の男よりは少し若いけれども、同じくらいかそれ以上に萎びて疲れて切っているようだった。先程から少しも動いていないように見えた。視線も意識すらも僕たちに向けている様子はなかった。ただじっと火に手をかざし、揺れる火を見つめている。
「助かりました」
害のない言葉を口にする。どう振る舞うかはもう少しふたりが何者であるかをしってから決めても遅くはないだろう。
「夜の中で迷子になっていたのです」
「ああ、そうなのですね」
男の相槌。それきり黙り込むので再び沈黙が訪れる。
「お二人はどちらへ?」
「二人?」
男は困惑したように尋ね返してきた。僕も困惑して、もう一人の男に視線を送る。相変わらず動かない。返事の一つも漏らさない。
「なあ、あっちの方は……」
突然頭の中で煙が語りかけてきた。二人に気づかれないように、黙って耳をすませる。
「どうやら生きてはいないようだぜ」
◆◆◆
声につられて火に当たる男を見る。やはり視線を気にせず、動きもしない。
「大丈夫ですか?」
立ち上がり、声をかけて、近寄る。もう一人の男はこちらに目を向けるけれども何も言わない。
動かない男の肩に手をかける。それでも動かない。固く強張っているのを感じる。そっと首筋に触れる凍えるように冷たい。生命の気配を感じない冷たさ。
「な、言ったとおりだろ」
煙が言う。
「この人は?」
もう一人の男に訊ねる。
「どの、人ですか?」
「この、焚き火に当たっている人ですよ。あなたの知り合いではないのですか?」
「知り合い……?」
少しだけ苛立ちが言葉に乗ってしまう。答えは空虚なオウム返しだった。僕や男の死体が目に入っているはずなのに、見えていないような目つきでこちらを見ている。
「なあ、この人も」
煙が口を開く。
「生きてはいるだろう?」
煙に答える。当たり前だ。死んでる男は言葉を話さない。
「でも何も見ちゃいないぜ」
煙の言葉に男の目をじっと見る。見つめ返す2つの目は確かに何も見ていない。ただ黄色の焚き火の光をきらきらと反射させているだけだ。
その目を何処かで見たことがあったような気がした。記憶を探る。遠く、埋もれてしまったところにひっかかるものがあった。
誰かが去っていった光景、去り際にこちらをちらりと見た目はこの男の目のような黄色く輝いていた。誰だったのだろう。記憶の中、去っていく男の傍らには少年がいた。やはり見開いた目を黄色く染めた少年。
見えているものを見ず、目の前にないものを見つめている目。記憶の中に刻まれた光は、今僕の目の前にある目の光とそっくりだった。
「ねえ、もしかしてあなたは男の子と一緒ではありませんでしたか?」
僕の言葉を聞いて、男の黄色い目が一際大きく見開かれる。
がしり、と腕を掴まれる。やせ細った体からは想像できないような力強い手だった。
「あんた、坊ちゃんのことを知っているのかい?」
◆◆◆
男はさっきまでの疲れきった様子から一転、酷く興奮した様子で僕を見つめる。掴む手は強く振り払えない。
「ねえ、どうなんですか? 知っているのですか? 坊っちゃんの行方を。今、坊っちゃんがどこにいて、何をしているのか、ご存知なのですか。ねえ、それならどうか教えてくださいよ。後生ですから、どうか、どうか教えてださい」
すがりつくように僕の手を掴み、男は懇願する。けれどもその答えを僕は持っていない。
「ごめんなさい。昔、あなたに似た人に会ったことがある、そんな気がしただけなのです。その時に誰かと一緒だったような、そういう風に思ったのです」
「そうですか」
がくり、と力なく肩を落とし男は火の側に座り込む。ぽつりぽつりと火に向かって言葉を紡ぎ続ける。
「そんなに遠くには行っていないはずなのです。ついさっきまで一緒にいたのですから。ずっと一緒に。それなのに」
男の悲しそうな声はどうしてだか僕の胸をじくじくと締め付けた。
「なにがあったのですか?」
「わかりません」
男はうつむいて首を振った。
「気がつくと私はここにいました。この炎の側に。長い間、見ていた気がします。それともさっき来たばかりなの気も。坊っちゃんもさっきまでいたはずなのにもう姿が見えないのです」
男は顔を上げて、輝く目で暗闇を見渡した。見えていないなにかを探すように。
「こんなにも明るいのにどうして坊ちゃんの姿が見えないのでしょう」
ふと、思い至る。もう一人の男のことを。火にあたった姿勢のまま、命を失っていた男。坊ちゃんというには随分と年をくっているけれども、目の前で嘆いている男より少し若く見えた。
「もしかして」
そこまで言って口を閉じる。この男に伝えるべきだろうか。坊っちゃんが絶命しているかもしれないということを。
伝えなければ、この男は何も知らないままでいられるのではないだろうか。
「おい、お前」
ふいに声がした。掠れて煙たい声だった。
◆◆◆
振り返る。
そこに立っていたのは火に当たっていた男だった。たしかに絶命していたはずの男。死者はしゃべらないはずなのに。
男が一歩足を踏み出した。ふらりと力ない足取り。堅い地面の上で、けれども地に足ついていないような、そんな足取りだった。
「ねえ、お前はよ、俺のことなんか置いていけばいいんだよ」
男が声を発する。小さく開いた口から言葉が漏れている。言葉と同時にふわりと煙が漏れたのが見えた。煙は焚火の光の中で夜の空気の中に散っていった。
その時、僕の胸の中がひどく清々していることに気がついた。さっきまでうるさく胸の中で渦巻いていた存在が今はいない。不在の訪れ。
「煙?」
ぼんやりと立つ男に目を向けると、男は目をつむり首を振った。何も言わないでくれ、そう言っているような気がした。僕は口を閉じた。なにか言うべきことがあるわけでもない。
もう一人の男に目を向ける。こちらは声を聴いたきり黙り込んでしまっていた。
「おい、聞いているのか?」
「坊ちゃん……なんですか?」
男のぽかんと開いた口から躊躇いをはらんだ声が漏れる。
「ああ、そうだよ。他に誰がいるってんだ」
「でも、ずっと探してたのに見つからなかったから」
「ばかだな、俺はずっとここにいたよ。お前が見えてなかっただけだろう」
煙は死者の口を使ってぶっきらぼうに答える。どういうつもりなのだろう。見当もつかない。
「じゃあ、坊ちゃん、一緒に行きましょうよ」
「嫌だよ」
きっぱりと、煙は言った。切り離すような拒絶の言葉。それを聞いて黄色い目の男は首を傾げた。
「なぜですか? せっかくまた出会えたのに」
「いいだろ、別に。もう草臥れちまったんだ。おれはもうここにずっといる」
「それなら、私も一緒にいますよ」
「やめろやめろ」
強い口調で煙は続ける。
「お前はまだ歩けるんだ。どっかに行ってしまえよ。お前がいたら……お前がいたら」
煙は言いよどみ、言葉を繰り返した。
◆◆◆
「私がいたら、なんなのですか?」
少し間を開けて、男が尋ねる。問いかけはしたものの答えを聞きたくないような、そんな声だった。
おどおどとした黄色い目で、男は坊っちゃんの目を見つめる。煙の宿った坊ちゃんの目は灰色に濁っている。黄色い目と灰色の目はぶつかるように見つめ合う。
先に目を逸らしたのは灰色の目の方だった。
「俺は一人で眠りたいんだよ」
「起きるまで、ここにいますから」
「だめだよ。ここにいたらお前もだめになってしまう。駄目になるのは俺一人十分だよ」
「ご一緒します。それが私の役目ですから」
弱々しくも、有無を言わさない信念の込められた声だった。
「そうかい」
煙はため息をついて頷いた。
「それなら、俺は少し眠るよ。朝になったらお越しておくれ」
「わかりました。ゆっくり眠ってください。私が起きて見張っておきますから」
「任せたよ」
そう言って煙は火の側に座り込んだ。さっきまで息絶えていたのと同じ姿勢。
「朝になったら起こしてくれ」
「はい。おやすみなさい」
煙は男の言葉を聞いて、安心した表情を作って坊ちゃんのまぶたを閉じさせた。
眠る坊っちゃんに目をやる。目をつむり、本当に眠ってしまったかのように黙り込んでいる。話しかけようか迷う。何を思って入ったりなんかしたんだろう。僕の中からいなくなってくれたのはありがたいのだけれども。
「夜明けは近いのでしょうか?」
男が空を見上げて言った。僕もつられて空を見る。空は真っ暗で、雲は一つもないのに星も月も見えない。
「どうでしょうね」
「明けない夜はありませんよ」
男は言う。言い聞かせるような口調だった。誰に向けてだろう。僕か坊っちゃんか、それとも自分自身にか。
坊っちゃんは眠った姿勢のまま何も言わない。
男の言葉は、遠い記憶、あの町でもよく聞いた言葉だった。深い闇に沈む夜も、厳しい寒さの攻め寄せる夜もあった。けれどもあの町でさえ夜はたいていちゃんと明けた。
◆◆◆
だから、この夜もいつかは明けるのだと思う。明るくなれば、黄色い目のこの男も坊っちゃんがもはや生きていないことに気がつくかもしれない。明けない夜がなくても、すべての者が朝を迎えられるわけではない。
その時煙はどうするのだろう。男の人形遊びで付き合うのだろうか。あるいはそれからもずっと。
尋ねてみるわけにもいかない。黄色い目の男はじっと坊っちゃんの方を見ている。坊っちゃんに話しかければ問い質されるに違いない。
そもそも、そんなことを知ってどうなるというのだ。煙ともこの二人とも旅の途中で出会っただけの関係なのだ。彼らがこれからどこへ行き、どうするかなんて僕には関わりのないことだ。
それでも、と考えてしまう。
夜が明けて、坊っちゃんが起きてこなかったときに、この男はどうするのだろうか、と。
ここまでの男の口ぶりと目つきからそれは容易に想像できることだ。
彼の黄色く輝く目は何も見ていない。坊っちゃんの方を見つめているようで、坊っちゃん自身を見ているわけではない。
きっと彼はずっと待ち続けるのだろう。坊っちゃんが目を覚まして立ち上がるのを。もう二度と起きることがないなんて考えもせずに。日が登り沈んで、また夜が来て、また朝が来て、それを何度も何度も繰り返しても、ずっと。
僕には関係のない話のはずなのに、その光景を想像すると何故だがとても可哀想に思った。なにも見ず、何も知らずにここで朽ちていくであろう男と彼を縛りつけ続ける死体。死体は生前どうしてほしいと思っていたんだろう。もしかして、煙の言葉にはいくらかの身体の持ち主のものが含まれていたのかもしれない。
男はじっと坊っちゃんの方を見ている。眠るように死んでいる坊っちゃんの方を。黄色く輝く見開いた目で。
目をそらし、馬を撫でる。そういえばこの馬に、なにか食べさせるものがあるだろうか。ポケットを探る。その指先にごろり、と触れるものがあった。
◆◆◆
ポケットから球体を取り出す。
少し湿った手触りが手のひらの上で転がった。2つの球体。いつか車掌さんの一人からもらった眼球。
男の黄色の目と手のひらの上の暗い目玉を交互に見比べる。使われていない目と使う者のいない目。両者が出会うのは悪くないことのように思えた。
どうせ僕が持っていても使うあてがあるわけでもない。支払いのために手に入れたけれど、買うべき店も、商品もなくなっていてしまっていたのだ。きっとこれからも使うことはないだろう。
渡したとしても僕にはなんの得もないのだけれども。
それでも渡したいという気持ちが浮かんでくるのは自分でもひどく不思議なことに思えた。
例えば要らないものを押しつけたいという気持ちだったり、何かの見返りを貰えるかもしれないという計算だったりするのかもしれない。今まで気にもしていなかった荷物を何も持たない男に渡して?
あるいは胸の中にいた存在の名残がそんな考えを生み出したのかもしれない、とふと思う。例えば煙が死体の中に入ったのは、二人に対する哀れみではないだろうか。その感情の名残が僕の体の中にいくらか残っていて、僕にとても似合わないようなことを考えさせている、そんな考えが浮かぶ。
「もしよければ、これを」
結局僕にはいらないものなのだ。この目玉も、哀れに思うような感情も。ここで目玉を渡してしまえば、どちらとも別れが告げられる。
そう思ったから僕は目玉を男に差し出した。
「なんですか? それは」
男は不思議そうな顔をして僕の方を見る。近づいて、その手を取り目玉を握らせる。
「それは目玉です」
少しだけ言葉を探して、口を開く。
「あなたの目は少し物を見づらくなっているようですから。よく見える目の方が、坊ちゃんを助けるのに便利でしょう」
「それは、ありがとうございます。でも、良いのですか?」
恐縮した男の言葉に、首を振って答える。
「ええ、僕には不要なものですから」
◆◆◆
「けれども、私はちゃんと見えていますよ。なんでも」
男が目玉を手に取る。しげしげと見つめる。本当に見ているのかどうかはわからないけれども、目は目玉に向けている。
「そうですか、それで使わないなら別に使わないでもいいのです。僕にはどうせ使う当てのないものです。そいつらだって、使われるかもしれない誰かにもたれていた方が幸せでしょう」
「それでは、ありがとうございます」
男はためらいがちに礼を言った。
「私は見えていますよ」
男は繰り返した。
「この目は確かに見えているのです」
「何が見えているのです?」
少し考えて、男は答える。
「黄色くて明るい光が」
「それ以外のものは見えているのですか?」
「光しか見えませんよ。光以外になにがあるというのですか」
男の目は黄色い光を受けて輝いている。確かにそれ以外のものが映っている様子はない。
「それじゃあ、坊ちゃんも見えないんじゃあないですか?」
僕の言葉に男は動きを止めた。今ようやく気がついたように、目を見開く。
「そこにいるのですよ。声は聞こえていたのでしょう? あなたはその坊ちゃんの姿は見えていましたか? それで本当に坊ちゃんと一緒にいれるのですか?」
「それは……」
男は手のひらに載せた眼球をそっと握った。僕の方を見て口を開く。
「この目なら、坊ちゃんを見ることができるのですか?」
「それは、わかりません。でも、前の持ち主はいろいろなものを見ていたようですよ」
僕の言葉に男は黙り込んでしまった。手のひらは眼球の感触を確かめるように、握ったり開いたりを繰り返す。
「でも、この光は暖かで優しいものなのですよ」
「そうですか」
僕はそんな相槌を打つことしかできなかった
しばらくして男は目を開いた。
「それは、そうですね。見えなければお世話をすることもできません」
男は一つ息を吸うと、両の目尻に人差し指の先を当てた。
「えい」
男は気合の声とともに、ぐぬりと目を抉った。
◆◆◆
ぶらりと二つの眼球が垂れ下がった。
「ああ、これも切らないと」
男は眼窩の眼球を繋ぐ視神経を手探りでつまむと、一本づつ丁寧に眼球から引き剥がした。
黄色く染まった二つの球体が切り離されて地面に無造作に転がる。
「ええっとこれかな」
男は眼球を握り込んでいた両手を開き、また手探りで視神経を繋いでいく。布に色水が染み込むような滑らかさで視神経と眼球は結合していった。
それから男はゆっくりと視神経を眼窩に収めてから、最後に左右の眼球を同時にぐっと押し込んだ。
あっけないほどスムーズに眼球の交換は終わった。男は一度ぎゅっと目をつむり、それから二、三度ゆっくりと瞬きをする。また目を閉じて、そのまま動きを止めた。
「どうですか?」
訊ねてみる。眼球を渡した手前、どうなったか知る必要があるように思えた。男は目を閉じたまま少しだけ首を振って答える。
「恐ろしいのです」
「何がですか?」
男の声はひどくおびえた声だった。
「目を開けることが」
「そう、ですか」
男の言葉の意味が掴めず、曖昧な相槌を返す。
「こうしていざ目を替えてしまうと、恐ろしくなってしまったのです。これから私が見る世界は本当に私が見る世界なのでしょうか」
「どんな目でもあなたが見るものがあなたの世界でしょう?」
「けれども、見る目が違えば、見えるものも違ってしまうかもしれないじゃないですか」
男は目を両手で覆い、空を仰いだ。
「それなら、元に戻しますか? あなたの目はまだそこにありますよ」
今までの男の目は男から切り離されて、輝きを失い、ただの黄色い球体になって地面に転がっている。けれども、まだ目としての機能は保っているはずだ。
「いいえ」
男は天を仰いだまま言った。
「私は目を替えると決めたのです。決めたから目を替えたのです。それに後悔はありません。ただ」
少し黙ってから口を開いた。
「ただ、恐ろしいのです。目を開く勇気がない、それだけなのです」
◆◆◆
荒く息を吐きながら、男は続ける。
「けれどもわかっているのです。目を閉じたままでいるわけにはいかないのだと。私は目を替えた。ならいつか目を開かないといけないのです」
男は大きく息を呑んだ。
「ねえ、親切なお方」
「はい」
「あなたはそこにいるのですよね」
「ええ、いますよ」
問い掛けに答える。僕がここにいるのはたしかだ。
「坊っちゃんもそこにいますか?」
次の問いかけにはすぐには答えられなかった。坊っちゃんらしき男はいるけれども、本当に坊っちゃんなのかどうかはわからない。少なくとも中にいてさっきまで喋っていたのは坊っちゃんではない。
けれども、本当に坊っちゃんでないとも言いきれない。死んでいる男が坊っちゃんだったなら、それが動いて喋るなら、それは坊っちゃんなのかもしれない。
結局のところ男の言うとおり、いつかは目を開けないといけないのだ。それは僕がなんと言ったところで変わりはない。
だから、僕は正直に答えることにした。
「ええ、坊ちゃんかどうかはわかりませんが、そこに男の人がいることは確かです」
「それは、どのような男ですか?」
「あなたより少し若くい人ですね。ひどく草臥れた様子です。じっと火にあたって動きません」
少し声を低くして答える。男はかすかに頷いた。
それから、ゆっくりと前を向いた。坊ちゃんの方に顔を向けて、ゆっくりと手を目の前からどける。その瞼は固く閉ざされている。
「もしも」
男が瞼を開く前に、尋ねる。聞いておかなければならない気がしたこと。
「もしも、そこにいるのが坊ちゃんじゃなかったら、どうするのですか?」
「それは……」
男は少し考えて、それでもしっかりとした口調で答えた。
「探しに行く、しかないのだと思います」
だから、と言葉を続ける。
「私は目を開けます」
そう言い切って、大きく息を吸ってから、ゆっくりと目を開いた。
二、三度瞬きをしてから焚き火の反対側、坊ちゃんの方を見た。
◆◆◆
男の目が見開かれる。そのまま凍り付いたように固まってしまう。真っ黒な目の感情は読めない。
視線はまっすぐに坊ちゃんの、男の死体に向けられている。死体はもちろん動かない。煙はまだ男の体の中にいるのだろうか。
二人とも何も言わず、動かない。僕も動けない。部外者の僕が二人の間に張り詰められた沈黙を破るのは適切でないような気がした。
長い静寂の後に、黒い眼の男が大きなため息をついた。
「そう、なのですね」
続いて口から洩れた言葉は坊っちゃんにではなく、僕に向けられた言葉だった。
「坊っちゃんでは、ないのですか?」
死体の方に目を向けて訊ねる。男は頷いた。
「残念ながら」
「そうですか」
「ええ、それにその方はもう……」
悼むような目線を送る。
「さっきまで話していたのはこの方ですか?」
「ええ、そうですね。この人があなたと話していましたよ」
「そうですか」
男はゆっくりと相槌を打った。目は開いたまま、けれども視線を落とし、額をごしごしとこする。もう一度大きくため息をつくと、立ち上がり、男の死体に近づいていった。
立ったままじっと死体を見つめる。
「舐めやがってよ」
ぽつりと言葉が漏れた。小さい、けれどもひどく荒々しい声だった。
「ああ!? 舐めやがってよ!」
繰り返す。今度はさらに大きな怒鳴り声。
どかり、と暗闇に鈍い音が響いた。
見ると死体の腹に男のつま先が食い込んでいた。ぐらりと死体が倒れる。
「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな!」
男は繰り返し怒鳴りながら、何度も何度も死体を蹴りつける。死体の口から薄く煙が漂っていく。
「なにが坊ちゃんだ! 何がどこか行けだ! 何様のつもりだ! ああ!? 憐れんだつもりか? クソが!」
激しい口調で罵りながら、男の蹴りつける足は止めない。死体は何も言わず、ただその暴行を受け入れる。当たり前だ。死者に口はない。
「てめえもだぞ」
ぎろり、と黒い目が僕の方を向いた。
◆◆◆
男が距離を詰める。座った姿勢では下がれない。勢いのままにつま先が飛んでくる。足を突き出してインパクトをずらす。殺しきれない衝撃が体を襲う。何度も何度も。痩せ細った体から想像もつかないような重く鋭い蹴りつけ。
「てめえがこんなもん渡さなきゃあよ!」
男が吠える。黒い目を見開いて。僕の渡した目。
何度目かの蹴りに反動を合わせ、後ろに転がり距離をとる。蹴られた脛がずきずきと痛む。いくらかはふくらはぎの内側に食い込んで、しばらく足を有効に使えそうにない。蹴り返すのにも逃げるのにも。
男がなおも距離を詰め、覆いかぶさるように掴みかかってくる。手を叩き落とそうとする。黒い目が僕の手を捉える。追随する機敏な動き。手は躱され、肩をつかまれる。振り払おうとする。男の腕が僕の動きの先を読んでいるように、振り払う動きを無効にする。
「おれはぼっちゃんといられたんだ! 一緒にいると思えたんだ! それを! それを! 知っていやがったんだろ、どうせ。坊ちゃんじゃないってことをよぉ! 知って馬鹿にして笑っていやがったんだろう。くそがよ!」
重い拳がかざした腕に突き刺さる。罵声とともに何度も何度も。腕に力が入らなくなっていく。ぐわりと体ごと掴んだ肩が振られる。ガードが下がる。頬骨に重い痛みが走る。拳がガードをすり抜ける。口の中に鉄の味が広がる。
「もう!」
背後から鳴き声が聞こえた。なんとか視線だけをそちらを向ける。馬が心配そうに顔を寄せる。
ふらり、と後ろに倒れるように馬に倒れ込む。体をひねって馬にしがみつく。
「行って」
馬の耳に口を寄せて呟く。馬が頷く。
ふわりと体が宙に舞う。肩を掴む感覚は離れない。
「てめえ、舐めやがって」
「そのまま」
男が叫ぶ。そっと馬の背を叩く。馬はのそりと加速する。
ぎゅっと馬にしがみついていると、やがて肩の重みが消えた。叫び声が遠くなる。しばらくして遠くに物が落ちる音が聞こえた。
◆◆◆
安堵して緊張が解けたのか、殴られた頬がずきずきと熱を持ったように痛み始める。夜風がひどく沁みる。顔をしかめながら殴られたところを触っていく。腫れてはいるけれども、骨までは折れていないようだ。
意識が薄れかかる。ふわりと浮遊感。慌てて意識をつかみ取る。馬の首筋にしがみつく。しっとりとした感触が心地よい。
ゆっくりと深く呼吸する。肺に新鮮な空気が送り込まれる。随分久しぶりな気がする。そうだ、もう煙はいないのだ。少しだけさみしい気持ちもする。この痛みに息苦しさが加わると相当に不快だったかもしれないけれども。
腫れた瞼で下に目を凝らす。明かりはもう遠い。男ももう追っては来ないだろう。遠いところから叫び声がかすかに聞こえる。ケモノの遠吠えのような荒々しい怒鳴り声。何を言っているのかわからない。意味のあることは言ってないのかもしれない。もう言えないのかもしれない。人間は取り込んだものでできている。視力は人間の認識の大部分を占めるのだから、眼球が変われば意識も大きな影響を受ける。人外の域へと逸脱しつつある者の眼球を取り込めば、人格が豹変したとしてもおかしなことではない。
「渡したの、良くなかったのかな」
語り掛ける。答えはない。そうだ、煙はもういないのだ。馬ももちろん何も言わない。胸の中にはまた空白が現れていた。語り掛けた言葉はその空白に呑みこまれて返ってこない。
ゆっくりと頭を振る。鈍い痛みが頭を覆いつくす。視界がくらむ。
くらんだ視界の遠くに灯りが見えた気がした。
「あれは?」
独り言。小さな光。痛みの中に見た幻覚だろうか。
「見えるかい?」
馬に語り掛けてみる。明かりを指さしながら。馬は指の先を見て頷いた。幻覚ではなかったのだろうか。ゆっくりと馬が進路を変える。遠くに見える灯りの方に。
馬の背に揺られながら灯りを見つめていると、だんだんと夜の闇とその遠くの灯りに視界が染められていった。
◆◆◆
視界の中で灯りはいつの間にか大きくなっていた。灯りの目の前にいることに気がつく。
灯りは窓から漏れる光だった。森の中にぽつんと、一軒の小屋が経っていた。その窓から小さな明かりが漏れ出ていたのだ。
馬にすがりながら小屋の周りを巡る。じくじくと脚が痛む。光は暖炉の火のように思えた。少しだけでも休めればよいのだけれど。
入り口を見つける。ノックしようとして動きを止める。
ちらりと先ほどの男の恐ろしい顔が頭に浮かぶ。この小屋の主はどんな人だろう。さっきの人のように恐ろしい人でないといいのだけれども。
止まったまま考える。また、怖い人だったらどうしよう。痛む足では逃げ切れない。痛みと疲れを堪えてよそに行くのが安全ではある。
僕を引き止めているのは窓から漏れる明るい光だった。赤い炎の暖かそうな光。あの光のそばはとても心地が良さそうで、その引力は危機感を乗り越えて僕を引き付ける魅力があった。
「もう」
馬が鳴いた。しまった、と思う。いずれにせよ、僕の存在を家主に知られたくなかった。判断する。逃げる方が良いか。
馬に飛び乗ろうとする。脚が痛む。力が入らない。すがりついたまま滑り落ちる。地面にぶつかる。体中の傷が抗議の痛みを上げる。
「うう」
「お姉さん?」
うめき声に小屋の中から声が返ってきた。喜びに跳ねるような調子。
「いえ、通りすがりの者で」
「動くな、怪しい動きをしたら仕留める」
答えると声の調子は鋭いものになった。足音が近づいてくる。馬にもたれたまま待つ。
扉が開く。
「誰だ? お前は」
逆光の中、シルエットが問いかけてくる。背の高い、女性の影だった。その右手にはぎらりと黒く輝くクナイが握られている。使い込まれたクナイ。逃げるのは難しそうだった。
腹をくくって答える。
「ただここを通っただけです。あなたのシマだとは知りませんで」
「なんだ、お前、怪我をしているのか?」
女性は僕を見て言った。
◆◆◆
「ちょっと来い」
しかめ面で女性は僕の手を掴んで引き寄せた。
「僕は何も」
「いいから来い」
有無を言わさない強い力で腕をつかみ引き寄せてくる。僕は馬の角を掴んで抵抗しようとしたけれども、痛む腕では抗いきれない。ずるずると小屋の中に引きずり込まれる。
どすんと押し倒される。勢いに負けて後ろに倒れる。床に倒れるかと思い、痛みに備えて身を固める。思ったよりも早く、お尻が何かに触れる。柔らかな感触。目を開き、下を見ると自分が椅子に座っているのに気が付いた。気が付くと女性は僕に背を向け、棚の中を探している。
そっと、立ち上がり逃げ出そうとする。
「動くな、座ってろ」
背を向けたまま、女性は言う。見えているのだろか。逃げられそうにはない。僕は大人しく椅子に座りなおす。
女性が振り向いて近づいてくる。鋭い目つきで見下ろしながら。蛇ににらまれたカエルのように動けない。
「目をつむりな」
「え」
聞き返す間もなく、顔に液体を振りかけられる。瞼を閉じるのが間に合わない、いくらかの液体が目に入る。目に焼けるような痛みが走る。目だけではない。顔中に痛みが走る。顔中に負った傷が燃えるように痛む。
「うがっ!」
獣じみた声が漏れる。
「情けない声を出すなよ。堪え性のない」
女性はそう言いながら、僕の足をまさぐる。痛みを丁寧にほじくり返すような手つきで。僕の口から勝手に悲鳴が漏れる。
痛みは全身に響きあい、重なり合い、僕の思考を染めつくしていった。
「こんなもんかな」
女性の言葉で我に返る。痛みのために、意識を手放していたらしい。椅子に座ったままの僕の目の前に女性がしゃがみこんで僕の顔を見ていた。
どうやら生きてはいるようだ。見知らぬ相手の領域で意識を失ったのに、不思議だ。
「生きてる?」
呟こうとして、口が動かしづらいことに気が付いた。口元に手をやる。布の手触り。どうやら傷を覆うように包帯がまかれているようだった。
◆◆◆
「なんで?」
痛みに顔をしかめながら僕の口から疑問がもれる。女性はふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らしてから、振り返って棚に道具を戻しはじめた。
「嫌いなんだよ、怪我してるやつがいるの」
女性が背を向けたまま言う。イライラとした口調とは裏腹に丁寧な手付きで一つ一つの道具を棚に置いていく。その手は傷だらけでごつごつとしていて。治療が自分自身に対しても何度も行われていたことがうかがえた。あの荒っぽくて、手慣れた手つきもそれなら説明がつく。
「ご自身もよく怪我をされるんですか?」
沈黙を埋めるように質問をする。少し間が開いてから答えが返ってくる。
「あたしゃぁ、まあ、それなりさ」
少し不思議な言い回しだった。また少し間が開く。こほんと一つ咳払いをしてからまた口を開く。
「一緒に住んでるやつがね。まあ、いつもいつも怪我して帰ってきやがってね。ったく、いちいち手当てするこっちの身にもなってみろってんだ」
忌々しそうな声で吐き捨てる。最後の包帯を棚にしまうと女性はこちらに向き直った。
「いつものあいつに比べりゃあ、あんたの傷はそんなに重いもんじゃない、しばらく大人しくしてたら治るだろうさ」
「ありがとう、ございます」
女性はまた、ふんと鼻を鳴らした。暖炉の近くの椅子に腰かけた。ぎしりと音を立てて椅子がきしんだ。
女性の陰になっていて見えなかった、棚が暖炉の明かりに照らされて見えた。整理整頓されたたくさんの医療品が並んでいる。包帯、薬、針と糸。添え木用だろうか硬そうな板もいくつか積まれている。
「あれ?」
その棚の隅に古ぼけた救急箱があるのが見えた。どこかで見たことのある救急箱だった。大切に使い込まれてそのまま年を経たような救急箱だった。
なんだよ、と女性がこちらを見る。
その時コンコンとノックの音が小屋に響いた。
「あ?」
女性が鋭い目を入り口に向ける。音もなく懐からクナイを取り出すと、そっと立ち上がった。
◆◆◆
「お姉さん?」
女性が扉に向かって呼びかける。しばらく待つ。返事はない。もう一度ノックの音。
女性はナイフを胸の前に構えた。
「誰だ?」
鋭い声で問いかける。また少し間。
「オニェッサンダヨ」
歪な嗄れた声が聞こえた。
「ヴァタジダボ、カウェツギダラョ」
車掌さんのような祝詞。明らかに車掌さんの声ではない声。
女性が目線だけを僕に向ける。声を潜めて問いかけてくる。
「お前の知り合いか?」
僕は首を振った。こんな声の知り合いに心当たりはない。
「じゃあ、あいつらか」
女性は忌々しそうに吐き捨てた。間髪入れずにドアを蹴り開いた。闇が小屋に流れ込む。女性の腕が消える。闇の中に黒い閃きが走った。気がつくと女性は残身していた。勢いのままにくるりとクナイを回して血振りをする。 ぴしゃりと黒ずんだ血が床に散った。
「ふん」
不機嫌そうに鼻を鳴らす。
どさりとドアの向こうに何かが倒れる音がした。
「誰だったのですか?」
「さあね、知らない誰かさ」
痛みを堪えて立ち上がりドアに近づく。夜の闇に流れ出した小屋の明かりの中、二本の棒が転がっているのが見えた。人間の足だ。古ぼけた靴を履いた男の足。荒野を無茶苦茶にかけ抜けてきたようなズタズタの足。見たことのある足だった。
「見覚えでも?」
女性がたずねてくる。少し考えて首を振る。知り合いというほど知っている相手でもない。
「少しだけ見たことがある人に似ていただけです」
「へえ、そうかい、そりゃ悪かったね」
「いいえ、本当にほとんど知らない人ですから」
「そうかい、まあ、どうしたもんかね」
女性が外に向き直る。
「え」
女性が驚きの声を上げる。女性の肩越しに僕も外を覗く。僕も声を上げそうになる。さっきまであったはずの二本の脚がなくなっていた。
考える。
もしも今の男がさっきの男だったとしたら、そして男が車掌さんの力の一部を得ていたとしたら。
どさり、と屋根から何かが降ってきた。
◆◆◆
何かは重量をもって女性に覆いかぶさった。ゆっくりと致命的な重さで地面に押しつぶしていく。夜の闇の中、闇よりもなお暗く二つの目がぎらりと光った。
刹那に、思い出す。車掌さんのことを。車掌さんが引きずっていた袋のことを。黒い袋。人ほどの大きさの袋。
手足のように自在に操り、敵を打倒すのに使っていたあの袋。けれども、あの袋はただの武器ではない。責務を果たすための道具でもある。鉄道の車掌は危険な業務だ。命など簡単に落としてしまう。
あの袋の中に入っているのはその時のための身体だ。業務を続行する予備としての身体。おおかた運賃の足りない乗客から運賃代わりに取り立てたのだろう。
もしも、あの男が車掌さんの意識と混ざり合っているならば、同じように予備の身体を用意していても不思議なことではない。予備の身体を用意するのは車掌さんの意識の本能のようなものなのだろうから。
けれども、あの男の近くに乗客などいなかった。無賃乗車の乗客ももちろんいない。予備の身体は用意できなかったはず。ではあの襲撃者は何者だ?
さっきの男ではないだろう。
女性の一撃は確かな致命傷を与えたように見えた。あの一撃を受けたあとに、有効な反撃を繰り出すのは不可能だ。
しかし、現に女性は反撃を受け、致命的な状況に追い込まれている。もがき、隙を窺ってクナイで切りつけようとするけれども、襲撃者の極めは煙のようにとらえどころがなく、抜け出すきっかけすら作れずにいる。
助けようと立ち上がろうとする。足の痛みに座り込む。手当てを受けてマシになったとはいえ、痛みはまだ残っている。
闇に目を凝らす。形勢はいよいよ不利で、女性の抵抗は徐々に弱いものになっていく。ちりちりと頭の奥が焦げるように痛む。殴られた傷ではない。昔のなにかが意識の奥底で燻ぶっている。立ち上がる。足が痛む。無視する。
やりなおしたいと思う。いつかできなかったことを。何を?
◆◆◆
余計な考えを振り捨てて、足の痛みを投げ捨てて扉へと走る。空気が粘りを帯びたように重たい。あの時と同じ。あの時は何もできなかった。どの時だ? ただ後悔の燃え殻だけが僕の胸を焦がす。
扉が迫る。暖炉から遠のき、夜に近づく。
気が付くと、僕は跳んでいた。空中でゆっくりとした時間が流れる。どくどくと脈打つ視界が襲撃者を捉える。闇の中に闇よりもなお暗い二つの目が見えた。獰猛な表情をした瘦せこけた男。死人のような顔色。見たことのある顔だ。以前焚火にあたっていた男。焚火に手を伸ばして死んでいた男。生きているように目が暗く輝く。今の予備はこの身体らしい。体の元の持ち主はなにか負い目でもあったのだろうか。無賃乗車のような負い目が。あの身体に入っていた煙はどうしているのだろう。今も入っているのだろうか。
鈍化した時間の中を雑多な思考が通り抜けていく。思考の間に女性と男が間近に迫る。僕は足を振り上げた。
どすりと鈍い音がした。男の横腹に爪先が食い込む。濡れた布団を蹴飛ばしたような重い感覚。衝撃が痛みになって全身を駆け回る。効いている感覚はない。少しでも意識を反らせれば良い。歯を食いしばり、足を引き、もう一度振り上げる。今度はわき腹の柔らかいところにつま先が刺さる。男は声の一つも上げない。男の両目が僕の方を向いた。体勢は変わらない、けれども意識がわずかに僕の方にむく。
女性はだけその隙を見逃さない。ロックされていた右腕を跳ね上げる。抜けはしない。ただ小さな隙間ができる。その隙間で手首をひねり、クナイを掴み、僕の方に滑らせる。
そのクナイを拾い上げる。振り上げて、振り下ろす。女性を抑え込む男の首筋めがけて。
あっけないほどに滑らかに、クナイは男の背中に吸い込まれていく。
静寂。
声も上げず、男の体は力を失い、ゆっくりと崩れ落ちて行った。
「おい、悪いけどよ」
しばらくして男の体の下から声が聞こえた。
◆◆◆
「ちょっとこいつどけるの手伝ってくんない?」
死体の下でもぞもぞともがきながら、女性が呻くように言った。
「ああ、はい」
気が抜けて、返した返事は間抜けなものになってしまった。男の身体に手をかける。
力の抜けた身体は重たい。女性と息を合わせて力を込める。
ごろり、と男の身体が転がる。見開かれたままの暗い両目が力なく天を仰ぐ。
落ち着いて見つめる。やはり、さっきの男のように見えた。ぼっちゃんと間違えられた男。よく見ると腹部や顔に蹴られた跡が残っている。僕がつけたのよりも古い傷だ。
「知り合いか?」
表情に出ていたのだろうか? 女性が尋ねる。僕は首を振る。
「知り合いというほど、知っているわけではないのです。ただ少しだけ行き合った、それだけです」
「へえ」
女性は短く答えた。手足を回したり、撫でたりして具合を確かめている。ちらりと視線を僕に送ってよこす。鋭い目。
「それじゃあ、なんでこいつらはこんなとこに来たんだろうね」
「さあ」
首を傾げて見せる。女性はそれ以上の深追いはせず、そうかい、と引き下がった。表情の読めない顔で、地面に転がる男を見つめる。つんつんと足先で男の体を突く。ふと、何かに気がついたように眉を潜める。
「こいつ、こんな顔だったか?」
女性はまじまじと男の顔を見つめた。
「それに、あたしがつけた傷もなくなってる」
言われて僕も気がつく。そういえばもう一つの身体、最初に襲ってきた男の身体はどこに行ったのだろう。あたりを見渡す。女性が切り倒したはずの身体はどこにも見当たらない。それほど遠くで戦闘が行われたわけではないのに。
ちっ、と舌打ちが聞こえた。女性の漏らしたものだった。
「もう一人いやがったか?」
「そうかも、しれません」
「まあ、いいや、いったん入んな」
女性はイライラとした表情で小屋の中を指さした。
「良いのですか?」
「仕方ねぇだろ、追い出してくたばられちゃあ夢見が悪い。それに」
もう一度暗闇を睨みつけて続ける。
「こいつが最後とは限らない」
◆◆◆
僕が小屋に入ると、女性は扉を閉めた。慎重に閂をかける。ため息をつくと椅子に腰を下ろした。
「まあ、座んなよ」
空いた椅子を勧めてくる。僕は小さくお礼を言って椅子に座った。
「ありがとうございます。なにからなにまで」
「こっちこそありがとよ」
女性は暖炉を見つめながら言う。なんのことだろう。首を傾げる。
「さっきのやつ、あんたがいなけりゃ危なかったからさ」
「いえ」
そもそもは僕が連れてきたものかもしれない。浮かんだ言葉は続けず飲み込む。
「なんだったんだろうな、さっきの」
「さあ」
首を振って見せる。
「知ってるって言ってなかったか?」
「ですから、顔を見たことがある、くらいですよ」
「じゃあ、それでもいいよ。どんなやつだったんだ? あいつは」
言いながら女性は扉に目を向ける。見ているのはきっとその向こう。まだ横たわったままでいるはずの男。今はどんな色の目をしているんだろう。
「わかりません。僕が見たときには……その、意識がなかったみたいだったので」
「そうかい」
追求はなかった。女性はそれきり興味をなくしたように黙り込み、暖炉の火を見つめる。暖かな赤い炎。あのぞっとするような黄色とは全然違う。
「火にあたっていたのです」
だからだろうか。口を開いてしまう。言わなくていい余計なことと思いながら。女性がちらりと横目を向けてくる。
「あんたがかい?」
「いえ、最初にいたのはさっきの男でした。夜の闇の中、見えた光に寄っていくとさっきの男たちが火を焚いていたのです」
「たち?」
女性が片眉を上げた。
「ええ、今倒れている男と、最初に来た方の男の二人が」
「やっぱり二人いたのか」
「そうですね。でも、あっちの男の方は」
扉を指さして続ける。
「生きては、いないようだったのです」
ふうん、と女性が鼻を鳴らした。
「その割にはぴんぴんとしているようだったけれどもね」
「ええ、もしかしたらよく似た別の人だったのかもしれません」
◆◆◆
「ああ、じゃあきっとそうなんだろうさ」
女性はそう言ってまた黙り込む。眉間には深い皺が寄っていて、暖炉の光の中で暗い影を落としている。
「言っとくけどよ」
頭を掻きながら女性が口を開く。きまり悪そうに藪にらみで暖炉を睨んだまま。何がそんなに言いにくいことなのだろう。不思議に思いながら耳を傾ける。
「お前のせいじゃないからな」
発せられた言葉はよくわからない言葉だった。首を傾げて問い返す。
「なんのことですか?」
「だからさ」
少し苛々した調子で女性は続ける。
「さっきのあいつ、殺すことになったのは、別に、お前は全然悪くないってこと」
「別に、気にしてはいないですよ」
本心からの言葉。けれども女性はそうとは思わなかったようだった。とうとうと言葉を続ける。
「いいんだよ。強がらなくて。知り合いだったんだろ? そんな命を自分の手で奪うことになんかなってしまって」
女性は深いため息をついた。目をつむり、瞼をこする。立ち上がり、僕の傍らにゆっくりと歩いてくる。
「つらいよな」
ぽんと、肩に手が置かれた。重たくて暖かな感触が肩にのしかかる。
「それがやらないといけないといけないことだったとしてもな」
わかるよ、と語り掛ける言葉はとてもやさしい口調。言っている言葉の意味は全く分からないけれども。
「あなたも、やったことがあるんですか?」
だから、ただわかることを聞いてみる。この女性が聞いてほしいと思っているだろうことを。見上げるようにして振り返り、女性の顔を下からのぞき込む。
女性は目を見開いてから、逸らした。その目にちらりと見えたのは後悔の色のようだった。
「ああ、だから、わかるんだよ」
逸らした目線の先を辿る。そこにあったのは古ぼけた救急箱だった。
女性は棚に寄って、救急箱をそっと取り上げる。持ち上げた箱の後ろに大きな傷が見えた。深くて大きな傷。
女性の厚くて傷だらけの手が箱の傷をいとおしむように撫でた。
◆◆◆
例えば、と考える。
女性がさっきからしばしば扉の外に呼びかける声のことを。「お姉さま」とそう言っていたような気がする。その声はとても嬉しそうな、弾むような声だった。ずっと待っていた相手の足音を聞いた時のような、そんな声。
「お姉さん」は女性にとってとても大切な人なのだろうと思う。
救急箱を撫でる女性の目はなにか大切な思い出を愛おしむような目だった。例えば
「お姉さん、と関係があるのですか? その話は」
女性の動きが止まった。救急箱を見つめたまま動かない。
「別に、そういうわけじゃないさ」
ぼんやりとゆっくりと女性は呟く。そのまましばらく黙りこむ。救急箱を見つめたままで、けれどもその向こう、ずっと遠くを眺めながら。
「待ってるんですよね、お姉さんを」
「ああ」
僕の問に短く答える。続きを待つ。女性はなにも言わない。また沈黙が訪れる。
僕はなんとはなしに暖炉を見つめる。赤い炎がぱちぱちと音を立てる。暖かな光にまぶたが重たくなってくる。考えてみると随分長い夜を過ごした気がする。記憶は灰に埋もれて遠くなってしまった。僕の灰まみれの記憶の向こうには、女性にとっての「お姉さん」のような存在がいるのだろうか。遠くに誰か大切な存在がいたかすかな感覚だけがある。その大切がなくなったぽっかりとした喪失感も。
「お前も誰かを待っているのか?」
女性が突然口を開いた。顔に出ていたのだろうか。
「違うか、探しているんだな。こんな夜を」
「そう、かもしれません」
自分への追求を避けるような、僕への質問。女性の思惑はわかっていて、それでも合わせて答える。
「見つかるといいな」
「ありがとうございます」
また、沈黙。少し待って切り出してみる。女性の問いかけの後なら、聞いてもよい気がしたから。
「お姉さんはどこに行ったのですか?」
女性は遠い目をしたまま答えた。
「さあね。いつも通り出て行って、そのまま帰ってこなかったんだ」
◆◆◆
「それで、どうなったんですか?」
「どうにも」
女性は重たい息を吐きながら首を降った。
「そのまま、もう帰ってこなかったよ」
「本当ですか?」
「本当さ」
女性は動かない。ただ声だけをこちらに返してくる。酷く平坦な声。自分自身の言葉をちっとも信用していないようなやつが出す声だった。
「どこに行ったのですか? お姉さんは」
なにも答えない女性を見て、問いをつけ加える。
「どこへ行くと言っていたのですか?」
「お姉さんは」
少し考えて女性は言葉を続ける。
「やつらを倒しに行ったんだ」
「やつら?」
「ああ、やつらだよ。悪い奴ら。黄色い目をした悪漢たち。この世の全部の悪いの元凶。お姉さんは」
女性は閉ざされた扉を見つめながら語る。流れるように。かつて結んだ決意を一つ一つ手探りで確かめるように。
「そういうやつを倒しに行ったんだよ。それがお姉さんのやるべきことだったから。あたしが止めることでもないし、止められることでもなかったんだよ。でも」
女性はぎゅっと目をつむり、歯を食いしばる。過ぎ去った痛みをこらえるように。
「でも、止めればよかったんだ。そうでなくても、あたしが一緒に行くって言えば」
「なにがあったんですか?」
「わからない。何もなかった。何もない日。他の日と何も変わらないおんなじ日。ただ、お姉さんが帰ってこなかった。帰ってこなくなった。その日からずっと」
女性に握りしめられて救急箱がぎゅっと軋んだ。
「その日からずっと待ってる。この小屋で。時々ノックの音がする。その度に胸が高鳴る。その度にがっかりする。お姉さんがだったことはないから」
「誰が来るのですか?」
少し意外な気がして、言葉を挟む。このような小屋に誰かが来るのは随分不思議な気がした。女性は頷いて答える。
「ああ、結構いろんな奴が来たよ。お前みたいな、傷ついて疲れた奴や、ただふらりと立ち寄ったやつ。それに」
言葉が途切れる。女性の目がギラリと光る。
◆◆◆
「それに?」
途切れた言葉の先を促す。
「黄色い目の奴らも、来た」
「そうですか」
「ときどきだったけど、何度か」
「どうしたんですか? そういう人たちは」
女性はふんと鼻を鳴らして首を振る。
「もちろんその度に丁寧に叩きのめしてやったよ」
少し後ろめたそうにつけ加える。
「最初に手を出してくるのは向こうだぜ。何も言わないで、いや、何かを言っていたとしてもよくわかんないことを喚くだけだった。あたしはそれを弾き返しただけ」
「別に責めてはないですけど」
「責められるようなこととも思ってないさ。だからさ」
女性が顔を上げる。僕の目をじっと見つめる。
「お前がさっきのやつをやっちまったことも、責められるようなことじゃないってことさ」
話はぐるりと回って、元の場所に戻ってきたようだった。女性のまっすぐなまなざしから目をそらせない。
「別に、責められるようなことしたとは、思っていませんよ」
「それならいいんだけどさ」
「ありがとうございます」
僕はお礼の言葉を口にした。女性はその言葉を欲しているように思えたから。
実際、僕の言葉を聞いて、女性は気がすんだのか、ふんと鼻を一つ鳴らして椅子に戻り、腰を下ろした。それから、また黙り込み暖炉にいくつか薪を放り込んだ。火は一瞬少し暗くなったけれど、少しずつ薪の表面を舐めて、明るさを取り戻していった。
ふと、気が付く。その暖炉を見つめるまなざしの中に何か暗い輝きが潜んでいるように見えることに。言葉にされた思いがいつでも本当だとは限らない。本当を隠すために口に出されることはあの町ではしばしばあることだった
けれども、その疑問を切り出すのはどこかはばかられた。言いたいことを聞くのはさておき、言いたくもないことをわざわざ聞き出すのは気が進まない。それどころか、身の危険をもたらすことも珍しいことではない。だから僕は何も言わないことにした。
こんこんと、またノックの音が聞こえた。
◆◆◆
ノックの音は小屋の中に重く響き渡った。
女性の方に目をやる。深く疲れきった顔が見えた。ため息をついてから、よろよろと立ち上がった。
「客の多い夜だな」
力ない独り言をこぼして、女性はおぼつかない足取りで扉へと向かう。僕はその背に向かって声をかける。
「開けるのですか?」
「あたりまえだろう」
やけに小さく見える背中から、意外なほどにきっぱりとした声が返ってきた。
「ここはあたしたちの小屋なんだから。来た人は迎えるさ」
「さっきのやつかもしれませんよ」
襲撃者がさほど間をおかず、同じ手口でやってくる可能性は高くはないけれども、全くないというわけではない。少なくとも死体がなかったのは事実なのだ。警戒なしに扉を開けるのはあまりにも考えなしに思えた。
「それならまたぶちのめすまでさ」
女性はどこからともなくクナイを取り出すと、くるりと手の内で回した。小さく鼻をふんと鳴らす。「それに」と小さく呟く。
「今度こそお姉さんかもしれない」
その言葉は僕にというよりも、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。本当は思ってもいないことを思っていると思おうとするような、そんな言葉。
それは何処かで聞いたことがある気がする調子だった。いつか自分自身の口から出て、自分自身の耳が聞いた声、それがちょうどこのような調子だったのを思い出す。
「本当に?」
「何がだよ」
思わずこぼれた疑問に女性は不満げに答えた。
「本当にお姉さんだと思っているのですか?」
「……当たり前だろ」
答えには少し間があった。一度躊躇ってから、それを打ち消すような間だった。
「本当にお姉さんが帰ってくると思っているんですか?」
「思ってるよ」
女性は振り返り僕をじろりと睨んだ。
「なんだよ。なにを知ってるっていうんだよ」
「知りませんよ。ただ」
躊躇って、それでも口を開く。いたましい義務感にかられながら。
「本当は帰ってくるなんて思ってないんじゃないですか?」
◆◆◆
女性は何かを言い返そうと口を開いて、そのまま止まった。小さな沈黙。
「思ってるよ」
少しして女性が強い口調で言い返した。僕を睨みつけている。けれどもその目線は小さく頼りなく揺れている。
「帰ってくるんだよ。お姉さんは」
低い声で静かに続ける。
「待ってるんだから」
声に答えるように、もう一度ノックの音がした。女性が扉を睨む。一歩進もうとして、やめる。床に目を落として口を開く。
「一度、お姉さんが帰ってきたことがある」
聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。
「一度?」
「ああ」
「それからまたどこかへ行ったのですか?」
沈黙。床を睨んでいる。目を見開き、荒い息をしながら。
「お姉さんじゃなかったのかもしれない」
「どういうことですか?」
不可解な言葉、問いかける。
「お姉さんだと思った。姿はお姉さんだった」
「それならお姉さんだったのではないのですか」
「でも」
女性は口ごもる。少しの間。
「それは何も言わなかった。少なくとも意味のあることは、それに」
「それに?」
「目が真っ黄色に輝いていたんだ。燃えるような黄色に。お姉さんの目じゃあなかったんだ」
絞り出すような声。僕は女性の横顔を見つめながらたずねる。
「それで、どうしたんです? その人を」
「切り倒した」
間を入れず、女性は答える。クナイをぎゅっと握っている。よく見るとところどころに赤黒い錆が浮かんでいる。染み付き、拭いきれない汚れ。
「喚きながら襲い掛かってきたんだ。まっすぐに掴みかかってきて、簡単な動きだった。他愛もなく躱して、切りつけて、そのまま動かなくなって。そう、だからあれはお姉さんじゃないよ。お姉さんのわけがないよ。お姉さんが、あんなに簡単に倒れるわけがないんだから」
言葉は次第に激しくなり、最後は叫ぶような、悲鳴のような声になった。ノックの音。肩で息をしながら、女性は改めて扉の方を向いた。
「開けるんですか」
「ああ、今度こそお姉さんだ」
◆◆◆
「お姉さん?」
女性が扉の外に問いかける。さっきと同じ弾むような声。疲れとあきらめが滲むのを隠す、作られた弾み声。
ノックの音が返ってくる。
帰ってきたのはノックの音だけ。返事はない。
女性はクナイを取り出して体の後ろに隠した。それから、躊躇うように扉に手をかけて静止して、目をつむり、深呼吸をして、目を開く。まだ動かない。
もう一度ノックの音。さっきよりも少し強い。
「お姉さん、なの?」
恐る恐る、女性はもう一度声をかける。答えはない。またノックの音。
今度は女性の声を待たずに、もう一度ノックの音。さっきよりも強い。気がつくと音は段々大きくなってきていた。
「お姉さん?」
女性がさらに、もう一度問いかける。今度の声には戸惑いが大きく含まれれていた。
ノックの音はもはや荒々しいと言えるほどに大きくなっている。女性が顔を引き締める。とたんに警戒の気配を身にまといクナイを構える。
「お姉さん、じゃない!」
女性が叫ぶ。
ノックの音は女性の声をかき消すように小屋の中に響き渡っていた。音はどんどん大きくなる。この音は一つの手が、拳が叩いて出る音ではない。たくさんの手が、自分の拳が痛むのを気にせず、一心に扉を殴りつけている、そんな音だった。叩いているのは扉だけではない。四方の壁から、天井から無数の手が殴りつけてくるような音が聞こえてくる。小屋がノックの音で埋め尽くされる。
どん、とひと際大きな音が響いた。
扉が外からの力で打ち破られた。夜が流れ込む。
一瞬の静寂。
「ラダウィヴァ」
不可思議な調子の声が聞こえた。罅割れた祝詞のような調子の声。
女性の手に握られたクナイが見えない速さで閃く。
「え」
女性の口から声が漏れる。見るとクナイは中途半端な位置で止まっていた。のぞき込み、扉の外を見る。
そこには一人の女の人が立っていた。すらりと背の高い女の人。
「お姉さん」
女性がぽつりと小さくつぶやいた。
◆◆◆
「お姉さん!」
今度は叫ぶように女性は言った。扉の外に立つ来訪者、お姉さんはなにも言わない。ぼんやりと真っ暗な目で、微笑みを浮かべて小屋の中を眺めている。
「ラダウィヴァ」
突然にお姉さんが呟く。ぞっとするような、それでいてどこか祝詞を思い出すような声。どんな意味なのだろう。意味があるようには聞こえないけれど。
女性はじっとお姉さんを見つめたまま、固まったように動かない。
「おかえり」
一言、女性の口から言葉が漏れる。状況にまったくそぐわない、とても優しい声。
「ラダウィヴァ」
お姉さんが祝詞を繰り返す。虚ろなその顔に微笑みが浮かんでいるように見えた。
女性が一歩足を踏み出す。いつの間にかクナイをしまい、空になった手のひらをお姉さんに伸ばす。
「ねえ、一つ聞きたいのですけれども」
女性が扉を超える前に、僕は口を挟んだ。ぴたりと女性は動きを止める。
「なんだよ」
不機嫌な声が返ってくる。感動の再開に水を差すのは気が引けるけれど、どうしても気になることがあった。
「今までに来たお客さんに黄色い目をした方はいたんですよね」
「ああ」
女性は扉の外から目を離さずに答える。お姉さんは黙ったまま。僕の言葉には反応も示さない。
「それを切り倒した、と言っていましたけれども」
僕も女性と扉の外から意識を外さないようにしながら、言葉を続ける。少しでも隙を見せれば、たちまち均衡は失われる。緊張感がみしみしと全身に降り注いでいる。言葉を間違えても、言葉が足りなくても致命的な結末を迎えるだろう。慎重に、口を開く。
「その人たちを、その後どうしたのですか?」
「そんなことか」
女性は鼻を鳴らして答える。
「裏庭に穴を掘って埋めたよ。もう出てこれないように深く」
「そうですか」
言葉を聞いて、じっとお姉さんの手を見る。だらりと体の脇に下げられた両手。
その指先の爪が剥がれ、土と血に汚れている。
地の底から這い出てきたように。
◆◆◆
「それ、その指先の汚れは?」
僕はお姉さんの指先を指さした。
指先を見た女性の両眼が見開かれる。目をつむり頭を振る。
「お姉さん、なんでしょう?」
懇願するような呼びかけ。お姉さんは何も答えない。ただ空虚な顔に笑顔のような表情を浮かべて、立ち尽くしている。
車掌さんの業務のための習性、予備の身体を作る習性、その際に利用される原料には運賃の持ち合わせが足りない乗客が使われていた。しかし、それらが容易に手に入るのは電車の中だけの話だ。もしも電車の外で予備が必要になったらどうだろう。車掌さんの業務を考えれば、そのような事態は考えづらいかもしれない。しかし、理屈の上で考えれば、何かしらの手段で身体を用意しさえすれば、電車の外でも予備を作ることは可能なはずだ。車掌さんでない者が予備を作るのであれば、無賃乗車の乗客にこだわる必要はない。
そして、ここに車掌さんの習性を持つ存在がいて、予備の身体の材料も豊富にある。そこまで気が付けば何が起きているのか想像するのは難しくない。
今、戸口に立つお姉さんの正体もわかった気がした。
「違いますよ。多分」
沈黙。女性は目を見開く。お姉さんをじっと見る。目を逸らす。ふん、と弱々しく鼻を鳴らす。
「そうか」
「ラダウィヴァ」
歪んだ祝詞。結局意味はわからない。虚ろな笑み。どこか悲しそうにも見える。きっと見えるだけ。女性が目をつむり頭を振る。
「おかえり。でも」
ため息。目を上げてまたお姉さんを見る。言葉を続ける。
「違うんだね」
ぎらりとクナイが輝く。いつの間にか女性の手に握られている。
「でぃばぎゃだゃい」
祝詞。
続いて、ばん、と天井を叩く音。ノックの音だと気がつく。気がついた時には音は連続する音になる。天井から、壁から、扉から、荒々しい音が降り注ぎ、小屋の中を満たす。
轟音の中、女性が忌々しそうに顔を顰める。お姉さんの肩越しに、痩せた男がにやりと笑った。
◆◆◆
「お前」
と声を出すより早く、轟音が小屋をたたき割った。天井に、壁に、窓に、裂け目ができて、夜の闇が漏れ入ってくる。夜闇より深い数多の目が割れ目から覗く。その目と同じ数の青白い手が割れ目を押し広げ、叩き広げ、小屋の中に入り込もうとする。
「なんなんだ、貴様らは!」
女性が叫ぶ。手近な裂け目から延びる手を切りつける。切り付けられた手は一瞬ひるんだだけで、すぐにまた手を伸ばしてくる。
「お姉さん!」
気が付くと戸口からお姉さんはいなくなっていた。あの痩せた男も。虚ろな顔の人型がわらわらと群れている。
「お姉さんはどこだ!」
「だめです」
女性は小屋の外に出ようとする。僕は立ち上がり、肩を掴んで止める。いかに女性が腕に覚えがあろうとも、この数を相手にするのは分が悪い。ましてや先ほどの戦闘でそれなりに消耗もしているはず。恩人をみすみす見殺しにするのは心地が良くない。とくに次に犠牲になるのが自分の可能性が高い時には。
「でもお姉さんが!」
女性は僕を振りほどこうともがく。僕の体中の傷が勢いで痛みだす。
「あれはお姉さんじゃないでしょう?」
「お姉さんかもしれないだろう」
駄々を捏ねるような悲鳴。ふっふ、と鼻を鳴らしながら首を振る。
「待っているんだから。待っていたんだから」
「待ッテイるヤツモウコなイ」
歪んだ祝詞が聞こえた。小屋を揺らす大音量の中、割れ直した禍々しい声は、奇妙に意味の通った言葉に聞こえた。驚き、声の方向を見る。暗い目の群れの奥、痩せた男が見えた気がした。
「そんなことはない! 私がここで待っている限り、いつかお姉さんは帰ってくるんだもの!」
女性が叫び返す。僕にだけ聞こえているわけではないらしい。
「ソウやッテまッテイテ結局俺のおレ達ノとこロニハ帰ッテコなかっタおまエモオなじだオナじにシテヤる」
怨みの声。ミシミシと小屋中が嫌な音を立てる。女性が身構える。
天地の割れるような音が響いた。
◆◆◆
バリバリと音を立てて、小屋が裂けていく。暖炉の光の暖かさに、夜が急速に入り込む。瓦礫は落ちてこない。不思議に思って見上げる。貪欲な腕たちは掴んだ小屋の欠片を離さない。掴んだままに次の部分をもぎ取ろうとする。
それでも数え切れないほどの腕たちは止むことなく恐ろしい速さで小屋を引き裂き続ける。どんどん小屋が分解されて消え去っていく。
「やめろ! やめろ!」
女性が叫ぶ。僕の手を振り払う。クナイを振りかざしてあたりの腕を斬りつける。僕も女性の背後にできる空白に潜り込み、座っていた椅子を振り回して亡者たちを牽制する。
「ここがなくなってしまったら、ここがなくなってしまったら」
鳴き声のような悲鳴で繰り返す。斬撃は目にも止まらぬ速さで、一太刀ごとにバラバラと床に転がる。
「お姉さんが帰ってこれないじゃないか!」
腕たちは他の腕が斬り付けられても気にすることなく小屋を分解し続ける。その勢いは止まらない。もう壁も天井もほとんどなくなってしまった。腕たちの群れが調度類に手を伸ばす。たちまちに椅子が、机が連結と意味を失い木っ端になっていく。
「それは駄目!」
ひときわ大きな声で女性が叫んだ。見ると一塊の腕たちが壁際に立てられていた棚に群がっていた。女性は亡者たちを斬り伏せながら棚の方に駆け寄る。
けれども暗い目の腕たちは獰猛な速さで思い思いに棚を掴み取り木材に分解していく。棚の中にあった物たちも、千切られ、引き裂かれ、無意味に還元される。
「あ」
女性が声を上げる。一対の腕が革の箱を掴んでいる。大きな傷。救急箱だ。
「なにしよんなら!」
裂帛の気合。クナイの一閃。箱を掴んでいた手が床に転がる。箱とともに。空の手たちが箱に殺到する。思わず僕も手を伸ばしていた。
指先に皮の感触。掴み、丸くなって腹の中に抱え込む。怒りに満ちた気配。群がっていた腕たちが僕の背中を殴打する。略奪品を横取りするなと叫ぶように。
◆◆◆
背中を、髪を腕を、掴まれてつままれて引っ張られる。肉が引き裂かれそうになる。うずくまり腹の下に救急箱を抱き込んで離さない。離しちゃいけない。そう思う。なぜ? それはこの痛みと釣り合うだろうか?
離そうと思う。投げ出してしまおうと。でも胸の中の燻ぶりがどうしても箱を引き付けて離させてくれない。痛い。痛い。でも同じくらいに胸の中が熱い。失われた空っぽ。箱を離さなければ埋められるのだろうか。胸の中の熾火がちろちろと燃える。熱い。
熱いのが胸の中だけでないことに気がつく。少しだけ顔を上げる。視界が赤い。燃えている。小屋の中が赤く燃えている。あの赤い炎は暖炉の火。暖炉の火が燃え広がったのだ。
「ああ、ああ」
女性が呆然とその光景を眺めている。もう抵抗を諦めたように座り込んでいる。その手にはクナイが握られているけれども、戦う気力はもう見えない。
「この小屋がなければ、この小屋がなければ」
小さく、つぶやく声が聞こえる。
「お姉さんが帰ってこれないではないか」
誰も女性の言葉なんて聞きはしない。
死者たちは自分が燃えているのを気にせずに略奪を続けている。お姉さんも痩せた男も死者たちの群れのどこかに紛れて消えてしまった。赤い明りの中に無個性の略奪者たちが照らし出される。手当たり次第に手の届くものをもぎ取り、奪って行く。
その腕の中の一本に目が惹きつけられた。その腕の手首には赤い布が巻き付けられていた。燃える炎よりももっと赤い布。あの布には見覚えがある。
あの布は
「13」
ただ数字がぼんやりと頭に浮かんだ。灰に埋もれた頭の中、赤く揺れる数字。その腕の主は若い男。生前は馬賊だったような面構え。
「こんもね」
知らぬ間に口から言葉が漏れ出ていた。祝詞よりもわからない言葉。
男の目が見開かれる。他と同じ真っ暗な目。けれどもその奥に仄かに赤が見えた。燃える炎の赤。
「こんもね」
男の虚ろな口が開いた。
◆◆◆
気がつくと僕は観客席にいた。目の前には大きな舞台。たくさんの黒い灯体とミラーボールがぶら下がったトラスの骨組み。反らした背骨のようにそびえ立つ巨大なスピーカー。地平線を覆い尽くすような巨大なホリゾント幕。
そこには誰もいない。灯り一つついていない。ただ灰色にくすんだ光の中、設備は静かに何かを待ち続けている。
振り返る。観客席。
こちらも誰もいない。視界の果てまで空の座席が並んでいる。
「こんもね」
静寂の中に声が聞こえた。疲れ切って嗄れ、それでもよく通るたくましい声だった。
声の方に向き直る。
客席の最前列、中央に寄った辺りのに一人の男が立っていた。若い男。手首に赤い布飾りを巻いているのが見えた。燃える炎のような赤。
その意味を僕は思い出せなくなってしまったけれども、胸に強い憧れが湧いて来る。そして男と話していることを誇らしく思う。
「やめろよ」
僕の目線を受けて、若い男は地面に目を落とした。
「俺はもう憧れられるような存在じゃない」
忌々しそうな声。
「ここにいるの俺ってのはな、ただの擦り切れて押しつぶされた残滓なんだよ」
「そんな」
「あの子を応援してた俺は、あの時のきらきらはもうとっくに失くしてしまったんだ」
声に滲んでいるのは、後悔と郷愁。
「でも、お前もそうなんだろ?」
突然投げかけられた質問に、戸惑う。
「じゃなきゃ、こんなところに来やしないさ。お前もあの子を失ってしまったんだろう?」
「あの子?」
「ああ、そうかい」
男の目が少し大きく開く。憐憫の優しい光が宿る。
「それも、忘れてしまったんだね」
男は立ち上がる。框に手を置いて舞台装置を見上げる。
舞台の上には相変わらず誰もいない。垂れ幕も空白で、誰がここに来るのかわからない。誰か来るのだろうか。こんながらんどうのステージに。
「おいで」
男が手招きをする。全席指定となっています席のご移動はご遠慮ください。聞き知らぬ声が頭に響く。
◆◆◆
「いいよ。どうせまだ始まらないさ」
男が言う。静かな声は無人の会場に反響せずに染み込むように消えていく。
僕はおずおずと立ち上がり、男の隣に立つ。
「ここが誰のステージかわかるかい」
わからない。首を横に振る。そうか、と男は呟いて、すっと目を細める。遠い目。後悔、憐憫、憧景の混ざりあった表情。
「でも、君はまだ大丈夫さ」
男の目が僕の目をじっと見る。僕の目はどんな色をしているのだろう。
「まだ失くしたことを覚えている。探し続ける意思がある。せめてそれだけでも持っていればいい。そうすれば」
男はそう言うと、どかり、と椅子に腰かける。立ったままの僕を見上げて言葉を続ける。
「そうすれば見つからないともわからない」
その声にはむしろ男自身の願望が込められているような気がした。
「あなたは見つからなかったのですか?」
だから、僕は問い返す。男はどんよりとした目で頷く。
「ああ、失くして、それっきり。いつの間にか失くしたことも忘れて、ただ何かが足りないと思い続けて、気がつけばあんな有様さ」
ため息。男は舞台袖に視線を送る。誰かの登場を待つように。
「あの子はね。いつだってそこにいる。でも、それは突然どこかに行ってしまってもおかしくないってことなんだよ」
空白。
もうとっくに開演時間を過ぎて、それなのに暗転もしなければオープニングのあの曲も流れないような。けれども立ち去りがたくて客席に座り続けるような。そんな空白を見つめながら男は言葉を吐き出す。
「一緒に探していた奴らもみんなどっかに行っちまった。一人一人、いつのまにか」
乾ききった手が手首に巻かれた赤い布飾りを撫でる。それをゆっくりと腕から外した。それからぎゅっと手の平の中に握りしめる。
しばらくそうしてから、その拳を僕に差し出した。
「これ、やる」
「え?」
開いた手の平の上には燃えるような赤。酷く汚れにまみれて、それでも輝きを失わない鮮やかな赤。
◆◆◆
男の手の中、赤い布飾りを見つめる。その本当の意味は忘れてしまって、それでもやけに心惹かれる赤色。思わず手を伸ばしそうになる。手は中空で止まる。その布を手にする資格が自分にあるとは思えなかった。
僕は男の顔を見て、首を振る。
「だめですよ。それは僕のものじゃない」
「ああ、だから俺がお前にやるのさ」
男は出した手を引っ込めない。
「俺はもうこれを持っていても仕方がなくなってしまった。行き詰まりのどんづまり、これを持っていてもなんの意味もなくなってしまって」
ため息。男の視線が赤い布に落ちる。懐かしみと惜しさのにじむ眼差し。
「だからお前にやるよ」
「でも」
「お前にやる」
男は立ち上がり、僕の胸に拳を押し当てる。布飾りの垂れ下がる拳を。
「それで、それでもやっぱり意味なんてないかもしれない。お前も擦り切れてしまって俺と同じになるかもしれない。でも、もしかしたらよ、あの子にまた逢えるかもしれないだろ。お前は」
ふと影がさした。振り返るとゆっくりと灯体を吊ったバトンが降りてきているのが見えた。
「お前はまだどこにだって行ける。忘れなければ、あの子に会える。その時にこいつを、こいつを見ればあの子はきっと喜んでくれる。あの子の最初の日がまだ今日に続いているのをきっとわかってくれる。なあ、だから頼むよ」
ぎゅっと手を握られる。男が縋るように僕の手を掴む。ゴワゴワとした布の感触を手の甲に感じる。
「こいつを持って行っておくれ」
懇願するような声。音もなく客席が畳まれていく。ホリゾント幕も、スピーカーも分解されて小さくなっていく。
僕は空いている方の手で布飾りの端を摑んだ。
「ありがとう」
男が微笑む。
「でも、気にするんじゃない。お前はお前の行く所に行くんだ。いつか会えたらそれだけでいい」
「わかりました。確かに預かりました」
僕も頷く。
ステージは分解され、がらんとしていた会場はさらなる虚無にかえっていく。
◆◆◆
背中がじくじくと痛む。燃えるように、引き裂かれれるように、少しずつ千切られるように。目を開ける。
静寂のステージは消え去り、僕は狂乱の中にいた。時間など経っていないかのように略奪は続いていた。もう小屋はほとんど残っていない。夜の闇の中に略奪者たちが蠢いている。
死者たちに顔はない。もう区別はつかない。最初の痩せた男も、お姉さんも、さっきの若い男も、みんな群れの中に混ざってしまっている。無数の目が黒く輝いて少しでも価値の有りそうなものを奪おうと貪欲に探しまわっている。
瓦礫の中を見回す。女性の姿を探す。小屋の隅で小さくうずくまっている。手にクナイを握っているがもう抵抗する意思は見られない。ただ呆然と略奪を眺めている。
腕の中に箱があることに気がつく。向こうに行っている間も離さずにいられたらしい。
僕は音を立てないように這いながら、女性の方へ向かう。
僕が隣に行っても女性は微動だにしない。小さな声で話しかける。
「ねえ、逃げましょう」
目だけがぎろりと動く。それからゆっくりと首が横に動く。
「だめだよ」
「もうここには何もありません。このままではあなたも」
「ここに何もないなら、あたしもなんでもないさ」
「そんなことは」
「あるんだよ」
強い口調で女性が言う。慌ててあたりを見渡す。さいわい略奪者たちの注意を引きはしなかったようだ。しっ、と唇の前に指を立てる。
囁き声で語りかける。
「でも、あなたはいるじゃないですか」
「こんなとこじゃお姉さんが帰ってこれない」
「それは、だから……」
断絶の言葉。僕は話を続けようとする。霞の向こう、朧げなステージと客席を思い出しながら。
「だから、なら、探しに行くのですよ。ここにいないならどこかにいるのですから」
「本当にそう思うのか?」
女性が暗く問いかける。僕は頷く。自信のあるふりをして。
「ええ、だってこれはあるのですから」
そう言って手の中の箱を差出した。
◆◆◆
「そんなもの、放り投げてくれば良かったのに」
驚いた顔で女性は言う。
「大切なものなんでしょう」
「だからだよ」
言葉とは裏腹に女性の目は箱に釘付けになって動かない。僕は箱を女性の手に押し付ける。
「この小屋がなくてもこれがあればお姉さんも気がつくはずです。そうでしょう?」
「そうかな」
「そうですよ」
揺れる目を見つめて言い切る。なんの根拠もない。それでも自信のあるふりをする。
「いつかお姉さんに出会ったら、それで手当てをしてあげればよいのです。そうすればきっとあなたを思い出すはずですよ」
「ああ」
女性は恐る恐る箱を手に取った。クナイを地面に置き、側面の傷を撫でる。
「いこう」
女性は屈んだ姿勢に立ち上がった。その顔にさっきまでの怯えた感情は見えない。辺りをうかがう。
ばきりと音がする。振り返る。扉の残骸が砕かれた音だった。亡者たちは音の方に群がっていく。
「今だ」
僕と女性は頷きあって動き出す。略奪の速度より遅く、けれども確実に少しずつ。かつて壁があったあたりまで。もう何もない。欠片の一つも残さず奪い去られている。僅かな境界が残るだけの一角にもう一人も興味を示さない。
息を詰めて夜の闇の中に身を隠す。女性が小声でたずねる。
「あいつら、夜目は効くのかな」
「どうでしょう」
わからない。あの暗い目が光を必要とするのかどうかさえわからない。昼間と変わらず見えても不思議ではない。闇の中の方がよく見えたとしても。
「あちらに行こう」
女性が生い茂った木立を指さした。逃げるには良さそうではあった。黙って頷く。音を立てないように這い進む。
女性が少しだけ後ろを振り向いた。
「もう、あの小屋には戻れないんだな」
「ええ、きっとしばらくは」
「いや、もう戻らないさ」
女性はそう言って小屋に背を向けた。箱をお腹のところに抱える。
がさり、と音がした。
「ヴぃてぎまぐぉあ」
罅割れた声。暗い目が僕たちを見下ろしている。
◆◆◆
痩せた男が僕らを睨みつける。怒りに暗い目が輝く。
「ヴィガツェヴァギナギ」
再び男の声はひび割れてしわがれて、意味を失ってしまっている。なんと言っているのかはわからない。ただ、怒りの感情が向けられているのだけがわかる。
女性はその言葉を正面から受け止める。僕が止める間もなく立ち上がる。その手にはもうクナイはない。さっき置いて来てしまったから。
「お前は何がしたいんだい?」
女性は男をしっかりと見つめながらたずねた。男は驚いたように動きを止めた。男の目に戸惑いが浮かぶ。女性を見つめる。
「ごばぎぇたぴがだききりえるおおくぱう」
「なにを言ってるのかわからないよ」
女性は首を振る。男が口を閉ざし、沈黙する。この男が聞く耳を持っていたことに驚く。男は余計な考えを振り払うように首を強く振った。
「ぐわんげなぎごばぎぇたぴおるやにくつおおおげがばくしゅらぼぼげたばじいぐばつれげらじてがる」
ぞわりと木立の影が動く。人型に形を作る。
「知らねえよ」
ぶっきらぼうに女性は言い返す。
「てめえの怒りにこっちを巻き込むんじゃねえよ」
男が首を傾げる。向こうには言葉は通じている。その上で不可解な言葉にに困惑しているように見えた。
「てめえがむかつくなら、むかついた相手を殴れよ。それはあたしたちじゃねえだろうが」
「そびじゅかぼれろふぉげびしががるがだぞびじゅだぎなきひでらく」
男が僕を指さす。言葉はわからない。けれども、女性は続ける。
「別にこいつがむかついたんじゃないんだろ? いや、こいつにもむかついたのかもしれないけど、それは本当にお前が怒ってることじゃないんだろう? 違うかい?」
臆せず、女性は問い続ける。クナイはもうない。ぎりぎりと言葉で切りつけるように言葉を投げつけ続ける。男はその言葉を一つずつ受け止める。クナイで切りつけたときよりもずっと大きな衝撃を受けているようだった。体の外より内面に響くように。
◆◆◆
「ばざごうぐるるじいいぇんなごばぎぇばごがにぢもぱちげげらぢげらるごふじゅりゃやろげほぶらぐぎろじゅどいらられうほぎゃれがびおがりじたれやじょごとささぎ」
激しい口調で男は叫ぶ。女性はそれを聞いてため息をつき、首を振る。
「どいてくれ」
一歩前に進む。顔を上げ、怯えることも、追い払おうともしようとしない。もう、男などなんの障害でもないように、視線を送りさえしない。
「あんたがあの小屋を壊したいなら、勝手に壊せばいい、もうあたしには必要ないんだ。あたしの探しものはあたしがいれば見つけられるんだから」
「ごぷとぎふぉうろろけにつもた?」
男が顔を上げる。反撃の糸口を見つけたように、にやりと意地悪そうに笑う。男の背後から人影が現れる。すらりとした女の人。観たことのある顔。さっき小屋にやってきた女の人。お姉さん。
隣に立つ女性の顔を見上げる。少し驚く。その顔は平坦でなんの動揺も見られなかった。
「悪いけどお前の人形遊びにつきあってる暇はないんだ」
女性は冷たく言い捨てて歩き出す。男の方に向かってまっすぐに。僕もその後ろについていく。
そのまま男たちの前を通り過ぎる。
男とお姉さんは僕らを睨みつけて、動かない。
「それじゃ」
女性は冷めた目を男たちに向けて、短く別れの言葉を口にした。
「がれ」
男が通り過ぎる女性の肩を掴んだ。
「なんだよ」
「ふぉてよろぎいぇへ」
女性の手の中の箱を指さす。意味は分からないけれど意図は明白だ。女性はため息をつく。
「いやって言ったら?」
男は今度は答えない。ただ突然木立の影からがさりと音がした。影から危険な殺気が発せられるのを感じる。女性が横目で木立を見る。手の中の箱に目を落とし、最後に僕を見る。ため息。
「いいよ、やる」
なんの感慨もなく、放り投げるように女性は救急箱を男に放り投げた。
「え」
男が驚きの声を上げた
「あたしにゃもういらないもんだ」
女性は軽くそう言った。
◆◆◆
「え」
男は間抜けな声を出した。手の中に飛び込んできた箱を所在無げに見つめる。
「ほしいんだろ、やるよ」
「みざ」
曖昧な相槌。振り上げた拳の降ろしどころをなくした様子。居心地悪そうに箱を捻り回す。
「それで満足したらよ、もう悪いことはすんなよ」
女性はそう言って再び歩き出す。男たちは追ってこない。追ってくる理由をなくしてしまったから。
「あ」
男の声が聞こえた。僕はちらりと声の方を見た。略奪の火に照らされて男の暗い目が手の中の箱と女性の背中を交互に見つめているのが見えた。
「こむさ……ごむざ」
小さく揺れる言葉を呟く。女性は気にせず足を進める。
「おじょうさん」
叫び声が聞こえた。澄んだ声。懇願する声。
「知り合いですか?」
追いかけて問いかける。女性は首を振る。
「さあね、何を言っているのかわからないよ」
「ごおぬばん」
男の声がなおも聞こえる。声は再び濁って意味を失ってしまっていた。悲痛な叫びが僕たちの背に投げられる。投げられ続ける。けれども女性はもう振り向かない。ただまっすぐに進んでいく。
「いいんですか?」
「何がだ?」
女性は前を見たまま答える。
「なにか知っているような様子でしたけど」
「もうなにも言えないさ、あいつは。何を言っているのかもわからないのだもの」
「そうですね」
かすかに女性の瞳が揺れる。後ろを振り向こうとするように。けれども搖れたのは瞳だけ。顔は前を向いたまま、足を止めることもなく、暗闇の中を歩いていく。
僕は黙って女性の後ろをついていく。
「お前はどうするんだ?」
女性が背を向けたまま問いかけてきた。言葉に詰まる。
「僕も行きます。探しに」
「そうか」
短い返事。少し間があく。
「誰を探すんだ?」
「わかりません」
「そうか」
女性が頷く。
しばらく黙って並んで歩く。
「ああ、そうだ」
突然、思い出したように女性が立ち止まった。
「これ返しておくよ」
差し出されたのは赤い布飾りだった。
◆◆◆
「さっきの箱にくっついていたぜ」
「ありがとう、ございます」
礼を言って布を受け取る。血と埃のゴワゴワとした手触り。受け取ったのは夢だとばかり思っていた。
「それは渡さないでおいたよ」
「なくしたと思っていました」
手の中で布を撫でる。空の客席、ステージ。若い男。託されたもの。
「大切なものなんだろ」
「ええ、救急箱みたいなものです」
「そうか」
目を細めて女性が布飾りを見つめる。遠くの火に揺らめく顔はとても羨ましそうな表情に見えた。探しもののよすがをなくした悲しさ。手の上の赤を見る。寄る辺なき夜に灯る赤。
たずねてみる。
「着けてみますか?」
「は?」
あっけにとられた声が返ってくる。
「もし気になるのなら」
「別に、そういうわけじゃない」
言いながらも、女性は赤い布から目を離さない。結び付けられたようにじっと見つめている。ごくりとつばを呑む音が聞こえた。
「どうぞ」
もう一度声をかける。女性の手が伸びる。止まる。
「いや、あたしには似合わねえよ」
「いいじゃないですか。別に誰が見るというわけでもないんです」
布を差し出す。おずおずと女性が布に手をかける。躊躇いがちに握りしめ、両手でそっと広げる。暗闇に赤が広がる。揺らめく炎、暖炉の火のように。
「どうするんだよ、これ」
「どうにでも」
「どうにでもって言ったって」
女性の眉間に皺が寄っている。少し考えてつけ加える。
「前に持っていた人は腕に巻いていましたよ」
「腕かあ」
女性は布を軽く腕に巻いて首を傾げる。
「あとは……」
記憶を探る。燃え尽きた記憶を。赤い布。揺れる赤。炎のように揺れる。ちかちかと記憶が揺れる。赤が揺れる。誰かの頭の上で。
「頭に飾ったりだとか」
リボンかそれともカチューシャか。曖昧な形。
「ああ、そう言えばお姉さんもそんなのをしていたっけ」
思い出しながら手探りで女性は髪に布を巻いて結ぶ。
「どうかな」
女性の頭の上で燃える赤がふわりと揺れた。
◆◆◆
揺れる布の炎が、ちかちかと記憶に火を点ける。灰の中の記憶。埋もれたキラキラが光を放つ。温かなそれを手に取る。そうだ。
「赤い髪飾りの女の子」
「どうした?」
女性が怪訝そうな目を向ける。その頭で揺れる髪飾りから目を離せない。記憶は灰の中を漂い続ける。きらきらは少しづつ強くなる。
「モネ」
口から言葉が漏れる。わからない言葉。不思議と落ち着く懐かしい言葉。ああ、そうだ。こんなところにいたんだ。
「誰だい? それは」
女性は不思議そうにたずねる。なぜ不思議そうなんだろう? 自分の名を呼ばれたはずなのに。
「モネなんでしょう。あなたは」
「違うよ」
きっぱりとした言葉。でもそんなはずはない。あの娘は確かにこの髪飾りをしていたはずなんだから。その記憶は確かで、それなら髪飾りをしているこの娘はあの娘で間違いないはずだ。
「意地悪をしないでよ。ずっと探していたんだよ」
「違うよ。そんな子は知らない」
女性は僕の目線をしっかり受け止めて答える。
「僕は」
それでも引くわけにはいかない。せっかく見つけたんだ。ずっと追いかけてきて、ここまで。もう離したくはない。だから口を開く。言葉を紡ぐ。紡ぎ続ける。
「君がいないと駄目なんだよ。なにもできない。できるとも思わない。でも、君がいれば、君がいてくれるためだったら、何だってできるんだ。何だってしてきたよ。傷ついても痛くても君の為なら平気だった」
言葉はとめどなく流れ出る。
「ねえ、だから、嘘はやめてくれよ。ずっと追いかけて、こんなところまで来たんだ。やっと追いつけた、もうなくさない」
女性は黙って僕の言葉を聞いている。僕の目をしっかりと覗き込みながら。
ため息。女性の口から深い深いため息が漏れる。
「良いのかい? 本当にあたしで」
はっきりとした口調で女性がたずねる。
僕は頷く。
「当たり前じゃないですか。君は君なんだから」
女性が微笑んで頷く。 汽笛が耳を劈いた。
◆◆◆
眩いヘッドライトに目が眩む。光の中に赤いリボンが照らされる。
身体が動いていた。酷く緩慢な時間の流れ。女性を突き飛ばす。赤い布が、女性の体が闇に消える。光が大きくなる。闇を切り裂いて。輝く眼光。大きな汽笛。耳が痛い。耳を塞ぐよりも速く、光は眼前に迫る。
世界の割れるような音がした。
それから、静寂がやって来た。耳の痛くなるような静寂だった。鼓膜が破れたのかと思う。
ドクドクと自分の鼓動が聞こえる。
尻もちをついた尻に、地面の手触りを感じる。全身の筋肉が強張っている。強張る筋肉は粉々にならずにまだ体を構成している。挽肉にはなっていない。
息を吐く。息を吐ける。まだ生きている。
ゆっくりと立ち上がる。膝が指が細かく震えている。
「きぇんのぉしらっつぇるいんごぅおずすんしたあめかんねむかうしんぉごこなっつぇます」
静寂の中に祝詞が聞こえた。罅割れていない平坦な声。音もなく光の中に小柄な影が現れる。
「電車の前にいるのは危険ですよ」
静かな声だった。ヘッドライトの逆光の中で暗い目がゆらりと輝いた。
「車掌さん?」
震える肺が声を絞り出す。
ようやく目が慣れてくる。制服のシルエットには見覚えがあった。その後ろにずるずると引き摺られているたくさんの袋にも。
「ああ、お客さんですか」
「どうしてここに?」
「乗りますか?」
「乗れるのですか?」
暗い目がじっと僕の目をのぞき込む。
「乗りたいのであれば。あなたも」
ぐるりと車掌さんは振り向いた。ヘッドライトの光の外、暗闇の方へ。目を凝らす。女性がしゃがみこんでいる。
「あたしは……」
女性は戸惑い口ごもる。頭にはまだ赤い布が揺れているのが見えた。
「どこに行くのかはわかりませんけれど、きっとどこかには着きますよ」
「お姉さんのところにでも?」
「僕はいろんな人に会いました。この電車に乗っていれば、いつかお姉さんにも会えるかもしれませんよ」
僕は手を差し出した。
◆◆◆
がたんごとん。
電車の揺れに目を開く。窓の外を素早く暗闇が通り過ぎていく。疲れた体を草臥れた座席にもたれかけさせる。へたり切った布地が柔らかく体を受け止める。
目線を座席の正面に向ける。
同じように女性が座席にかろうじて引っかかるようにもたれかかって目を瞑っている。その頭の上で揺れる燃える赤の髪飾り。
僕の視線を感じたのか、女性は物憂げに目を開いた。
「なんだよ」
「いえ、なんでもありません」
気恥ずかしくなって目を逸らす。深いため息が聞こえる。
「あー、その」
もごもごと女性は口を開いた。所在無げに片手で髪飾りをいじっている。
「どんな娘だったんだよ、この髪飾りしてたのは」
今晩何度も聞かれた質問。でも女性の口から発せられるのは奇妙なことのように思えた。
「モネって名前なんだっけ? どんな娘だったんだよ」
モネ、という響きに記憶が薄く疼きはじめる。
「モネは、モネですよ」
「だから、それがどんな娘だったんだよってきいてんの」
ふん、と鼻を鳴らして女性が尋ねる。薄い記憶の向こうはまだはっきりとは見えない。けれども探り出した言葉を少しずつ繋いでいく。
「どんなってのは意味がないんです。結局のところ、モネらしいことってのはモネのすることがモネらしいことなんですから」
「へえ」
「だから、君は君のすることをすればいいんです。それがモネのモネとしての振る舞いなんですから」
「あたしのすることか」
片方の眉を上げながら口をへの字に曲げ、女性は呟く。少し首を傾げて考えてから、躊躇い顔で口を開いた。
「それがどんなにモネらしくなくてもか?」
「ええ、だって君はモネだろう」
「違うよ。あたしはモネなんかじゃない」
きっぱりとした強い口調。僕の目をじっと見つめながら。ふわふわと揺れる瞳。モネは確かにこんなふうな不定形の言葉を使っていたように思える。
「モネはあたしじゃない」
女性は髪飾りに手をかけるとふわりと解いた。
◆◆◆
するり、と音もなく。布飾りが解かれる。
眼前からモネが消える。
「なんで?」
口から問いが漏れて出る。女性は静かに首を振る。
「ちがうよ。それは」
「なにがですか?」
苛立ちと焦りが胸に立ち込める。せっかく見つけたのに。どうしてまた失わないといけないのだろう。僕の大切。
「あたしはモネじゃない」
女性は立ち上がる。電車の揺れに揺れながら、僕の方に手を伸ばす。きしりと柔らかな音を立てて、僕の顔の横のクッションがへこむ。
「それでもいいと思ったよ。お前が本当にそれを望んで、あたしで良いと言ってくれるなら。あたしは別にモネになってやっても良かったんだ」
「でも、君はモネでしょう」
わからない女性の言葉に、僕は言葉を繰り返す。女性はもう一度首を振った。
「違うよ。私はモネじゃない」
繰り返してから、女性は言葉を続ける。
「それじゃあだめなんだよ。そうだろ?」
女性の声は聞こえる。けれどもその意味はわからない。祝詞よりも呪いよりももっとわからない言葉。僕は首を振る。
「お前はお前が本当に求めるものを見つけないと嘘なんだよ。それは出来合いのものなんかじゃないんだろ。お前が求めていた大切はそんなもんじゃないんだろ。それでいいなんて言うなよ。もしもそんなことを言うなら……」
女性は言葉を切って僕の目をじっと覗き込んだ。
「そんなことを言うなら、あいつらと同じだぜ」
「あいつら?」
「ああ、あのぎらぎらと黄色に輝く目のあいつら。見たいものだけを見て聞きたいものだけを聞く、あいつら。お前はそうじゃないだろう?」
女性の目に映る僕の目は黄色くない。
少なくとも今は。
「でも」
「それでもお前がモネでいてほしいって言うなら、それは」
女性が手をかざす。両手に渡した赤い布で僕の目を覆う。
視界が赤く染まる。血と埃のごわごわした黒ずみ。
赤い視界の中で女性の声が聞こえる。
「それは良くないよ」
きゅっ、と頭の後ろで布が結ばれた。
◆◆◆
赤い世界。閉じたまぶたを透かして赤が染み込んでくる。揺れる赤。燃える赤。燃える炎の赤。
赤い炎が世界を燃やす。灰に覆われた僕の記憶を赤い炎が燃やし尽くす。積もった灰さえ燃え上がる。今度は灰も残さず、熱く、熱く。
「お前は本当に探したいものを探さないといけないんだよ」
燃える世界に女性の声が聞こえる。けれども、と考える。
探したとして、見つけられるのだろうか。僕の中身はもう全部燃えて、燃え尽きてしまったんじゃないだろうか。きらきらとしたあの娘も、擦り切れて燃え尽きてもうどこにもいないんじゃないだろうか。そう思う。思ってしまう。
それは本当に恐ろしいことじゃないか。探しているものがもうないだなんて、それじゃあまるで亡霊みたいじゃないか。
熱の中で身体がぶるりと震える。恐ろしい想像。もしもそれが想像でなくなってしまったら。想像でなくなってしまうくらいなら。
「偽物だっていいんだ。見つけられるのなら」
「だめだよ」
そっと、目の上を撫でらえるのを感じた。身を焦がす熱い炎よりもあたたかな分厚い掌。
「見つけられるまで探さないといけないんだ。見つけると決めたのならね。どこにもいないと決めるのはいない全部の場所を探してからだよ。お前はまだ全部を探しつくしてはいないんだろ」
それに、と指先が額を撫でる。頭の内側を探るような手つき。頭の内側にあるものを探るような。
その指先が指し示すのは頭の炎に燃えないでまだ残っているもの。網のような黒い影。
するりと指先が灰の世界に入ってくる。
ゆっくりと繊細な手つきが網目を一つ一つなぞっていく。
「お前はちゃんと見るべきものを見れる。聞くべきことを聞ける。傷ついて擦り切れてもきらきらを探し続けられる」
ほつれて、詰まっていた網目が繕われ、はらわれる。失われていたつながりが結び付けられていく。網目は頭の中で、はるか遠くからの波を拾う。
波はやがて一つの像を結んだ。
◆◆◆
あの街の飲み水にはひどく小さな機械が沢山含まれていて、それらは飲んだ人たちの体の中で連結して(体内の塩分で動くのだ、と誰かが言った)、山奥に建つ二本の幽霊電波塔から発せられた電波を受信し、街の人々の頭の中に非実在のアイドルの像を結ぶのだ。
アイドルの名前はセロリモネ。
僕のなくしたアイドル。
僕の頭の中の機械たちが再び連結される。遠く幽かな電波がモネを形作る。
電波のモネがこちらに笑いかける。
質量のない笑顔。均一に輝く肌。汚れ一つない白のワンピース。頭には燃えるような髪飾りが揺れる。真っ赤で柔らかな唇が動く。
「やあ、ひさしぶり」
声は耳もとで聞こえた。脳を痺れさせる甘く透き通った声。
「ずっと探してくれてたんだ」
ありがとう、とモネが笑う。
「こんなところにいたんだ」
ひきつったように固まった喉から声を絞り出す。それを聞いてモネは笑みをこぼす。
「うん、いたよ。ここにずっといた。なのに見つけてくれないんだもの」
モネは口を尖らせる。
モネの言葉を聞いて、笑顔を見ていると、心がゆっくりと落ち着いていくのを感じた。燃えさかり降りかかっていた灰は消え去り、何もない世界で、ただモネの笑顔だけが世界にあった。
再起動され、再結成されたモネ。
けれども、と疑問が頭に浮かぶ。
今僕に微笑むこのモネと、以前僕の頭の中にいたモネは同じなのだろうか。
そう尋ねてみる。勿論、モネはこう答えた。
「違ったら駄目?」
それで、僕はどうでもいいと思う。どうであってもモネは僕に微笑んでくれている。それだけでいい。
本当に? 本当だとも。
僕は手を伸ばす。モネに向かって。手はもうすぐ届きそうで、でもわずかに届かない。
顔を上げる。
モネはいたずらっぽく笑って振り返る。そのまま重力を感じせない足取りで駆けだした。少し先まで走って振り返る。
「こないの?」
僕は走り出す。
どこか遠くで声が聞こえた。
「走れ、少年」
◆◆◆
走り出し、すぐに踏み出した足が止まる。
見失ったわけではない。失うわけがない。
少し離れたところで不思議そうな顔で振り向く。
「どうしたの?」
首を振る。
「ごめんなさい」
「なにさ」
モネは近づいてきて、僕の顔を下から覗き込む。慎み深く手の届かない距離。屈託のない笑顔が首を傾げる。
「君じゃなかったみたいなんだ」
「ああ」
モネは頷く。いつも見ていたのと同じ笑顔のまま。
「君はそう思うんだね」
「ごめん」
「謝んないでよ」
変わらない自然な笑顔。見るだけで勇気が湧いてくる。
失いたくないと思う。それでも。
「さよなら」
「うん、さよなら」
そう言ったときにはモネは向こうに。手の届かないところ。笑顔で、たしかに悲しそうに見える。僕は笑顔を作って手を振った。
電車の揺れに目を開ける。 目を覆う赤い布を手探りに解く。色のついた世界が戻ってくる。
「よかったのかい?」
女性が片眉を上げてたずねてくる。
見つめられて、首を振る。
「違ったみたいです。いや、違うな。見つけたのですけれど、変わっていて」
もう一度首を振る。できるだけ本当の言葉を探す。
「モネが?」
「変わったのはモネじゃなくて、僕の方かもしれないのですけれど」
「じゃあ、そのままいればよかったのに」
羨ましそうな声。
「あれは僕の探していたモネじゃなかったように思えるのです」
「そうかい、じゃあ仕方ないね」
女性はふん、と鼻を鳴らして、肩をすくめた。
「もう」
窓の外から声が聞こえた。聞いたことのある声。窓の外に目を凝らす。
見えたのは紫。丸々と太った紫色の馬が電車に並んで走っている。
「あ」
馬の上に誰か乗っている。赤い布、透き通る笑顔。僕はその姿を知っている。
「モネ」
窓から手を伸ばす。届かない。
モネは笑って馬の首を叩く。馬は足を早める。電車を追い越して駈けて行った。
薄紫の曙光の中へ。
僕らを載せた電車も馬の後を追ってどこまでも走っていく。
【おしまい】
電波鉄道の夜 海月里ほとり @kuragesatohotri
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