第34話

「あ、凡夫。このあとさ――」

「わ、悪い、爽太! また今度で!」


 あれから数日経った。

 講義終了後、何かに誘ってくれようとした爽太に断りを入れ、大学に併設された図書館へ急ぐ。

 かがみと待ち合わせているのだ。


 二か月半もサボったツケはやはり大きく、常に危機感がじりじりと身を焼いてくる感覚がある。

 少しでも早く勉強しないとまずい。


 図書館に到着した俺はサービスカウンターの前を通過して、エスカレーターを登る。

 自習フロアを横目に見ながら角まで歩くとリフレッシュルームが見えてきた。


 館内は基本的に私語禁止だが、このリフレッシュルームでだけは許されている。

 もちろん、大声をだしてはいけないけど。

 あくまでも常識の範囲で。


 まだ試験も近くないからか、図書館にあまり人はいなかった。

 ここに来るまでもほとんど見かけなかったが、ここリフレッシュルームに至っては、たったの一人しかいなかった。


 その一人は最奥のテーブルに座って大判の本を読んでいた。

 かがみだ。


 何かの専門書らしく小難しそうなことがいろいろ書いてある。

 見覚えはない。


「お待たせ」

「ん」


 かがみは視線を上げて俺の姿を確認すると、脇に置いてあったノートをスッと前に差し出してくる。

 俺は「ありがとう、助かる」と受け取った。


「まさかノートまでとっていないとはさすがに思わなかったなー」

「面目ない……」

「今度何か奢ってね」


 もちろん、と返すと、かがみは再び手元の本へと視線を移した。


「そんなの講義で使ってたっけ?」


 まさか俺が忘れているだけなのでは、と思い聞いてみた。

 そんなはずはないと思いたいけど、我が家の本棚には大学入学以降に買った、未だ手付かずの教科書や学術書の類いがいくつも並んでいるので完全にないとは言えないのが恐ろしいところだ。


「これは趣味の――っていうのもおかしいか。別にそれほど好きなわけじゃないし。いつか何かの役に立てばいいなと思って読んでるだけだから、凡夫は気にしなくていいよ」

「何かの役にって例の目標の?」


 かがみは頷いた。


「何が役に立つかわからないから適当に読んでいるだけだけどね。買ったら高いし。図書館なら無料だから使えるものは使わないと」

「えらい……」

「まぁわたし、期末試験は特に問題なさそうだしね。ほら、入学式のときに学長式辞でも言ってたでしょ? 『大学は人生の興味関心を満たす場です。君たちには四年間という短くも長い時間がある。生かすも殺すも自分次第です』って」

「あー……」


 言っていたような、言っていなかったような……。

 俺としては後半に言っていたことの方が頭に残っているんだけど。

 ……まぁいいや。


「じゃあちゃっちゃと写しちゃうわ」

「中間試験のときはあげたけど、今回ばかりはコピー禁止だからね。ちゃんと書き写すこと。それもまた勉強になるんだから」

「はい……」

「わからないところがあったらいつでも訊いてね~」


 借りたノートは相変わらずめちゃくちゃわかりやすかった。

 講義の板書そのままでなく、まるで誰かに見せるために作ったんじゃないかってくらいの出来だ。


 ノート作りが上手い人イコール勉強ができる人だとは思わないけど、板書で足りないところを補足したり、わかりやすく再構成したりすることはきちんと内容がわかっていないと出来ないだろう。


 本当になんというか……俺が言うのもなんだけど、爺ちゃんは絶対に俺よりかがみを助手にした方がいいんじゃないかな。

 紹介するときは強く推しておこう……。



 その夜のこと。

 かがみの(と同じ内容が書いてある)ノートという力強い味方を手に入れた俺は、ここ数日の間に始まった習慣の勉強をしていた。

 すると部屋がノックされる。

 サイカだ。


「すみません、凡夫さま。先に休ませていただきますね」

「あ、あぁ。もうそんな時間か」


 携帯端末の画面をつけると、時刻はそろそろ一時になろうとしていた。

 時間を意識すると、身体が急激に重くなっていく気がする。

 昨夜も寝たのは三時を回ってからだった。


「なぜそこまでされているのか存じませんが、くれぐれも無理はなさらいでくださいね」

「わかってるよ」


 サイカの口調は淡々としているが、心配してくれている。

 その心遣いが、嬉しかった。


 ふと見れば、サイカの服がだいぶ傷んできていた。

 それもそのはずで、今サイカが着ているのは最初に出会ったときにクローゼットから引っ張り出してきたメイド服だ。


 サイカは代謝しないので、ただ着ているだけで汚れることはない。

 だから数日に一度ほど洗っていて、そのときだけは別の服を着ている。

 しかしそれ以外で基本的にメイド服を脱ぐことはない。


「前も聞いたけどさ、他の服はいらないのか……?」

「いえ、これで大丈夫です」

「ならいいけど……」


 釈然としない。

 気に入っているのならいいんだけど、それならそう言って欲しいものだ。

 というかサイカは、今日この一日がすべてのためか、かなり自分については無頓着である。


 以前、自分のことは役に立つ道具だと思え、とかそんな感じのことも言っていたけど、どうにかならないものだろうか。

 かといって、今何か言ったところで明日には忘れていそうだし。

 うーん、難しい……。


「では、失礼します」


 サイカが恭しく頭を下げたことで、ハッと思考の海に沈んでいたことを自覚した。

 やっぱり寝不足になると途端にこういうことが多くなるな。

 気を付けないと。


 パタン、とドアの閉じる音がして、また部屋にしんとした響きが帰って来る。

 顔を叩いて気合を入れ直した。


 よし、もうひと頑張り!

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