第29話
どうしても家にいられず、重い足を引きずりながら外をさまよい歩いた。
先の見通せない闇に囚われているようで、どこを向けばいいかわからなかった。
サイカは記憶を蓄積していなかった。
記録はあるが経験が欠けている。
それを記憶とはとても呼べない。
サイカは毎日サイカというキャラクターの登場する小説を読んでその役割を演じている――みたいなものだろうか。
俺たちが一本の線ならサイカは連続した点だ。
一見繋がっているように見えるが、拡大していけばそれぞれは離れている。
サイカは今日の感情を引きずらない。
また明日、新たに植え付けられる。
同じようでも、それは異なるものだ。
結果として、サイカの人格は更新されない。
周りの人間が繋がりを増すほど、サイカは孤独を強めていくのだろう。
だって自分だけは、決してそこに交われないのだから。
「なんだよ……それ……っ!」
ブロック塀に拳を叩きつけた。
擦りむいて血が滲んだが、どうでもよかった。
先ほど聞いた現実に比べれば、こんな痛みなんて無いも同然だ。
結局一人で抱えきれなくなった俺がたどり着いた先は、かがみの家だった。
体が鉛のように重く感じられ、インターフォンを押す指先も微かに震えてしまった。
「あれ、凡夫? ――え、ちょっとっ! どうしたの!?」
インターフォン越しに、かがみの驚いた声が聞こえてくる。
それはそうだろう。
こんな夜遅くに突然来るなんて、普通じゃない。
けれど、今の俺にはここに来る以外の選択肢が思い浮かばなかった。
かがみが慌てて飛び出してきて、ドアを開けた。
「ごめん、かがみ……。突然来たりなんかして……俺……」
「そんなこといいから! とりあえず入んなよ。凡夫、相当ひどい顔してるよ」
俺を気遣うかがみに、小さく頷いた。
あまりにも情けなく思ったが、取り繕うような余裕はなかった。
ただ、圧倒的な疲労感と虚脱感が全身を支配していた。
「ありがとう……」
力なく礼を言って、招かれるがまま部屋に入った。
カーペットに腰を下ろすと、かがみもそっと隣に座った。
「手、見せて」
かがみが救急箱を持ってきて、手当てしてくれた。
その間も何度か何か言いたげに視線を寄越したが、俺は何も応えられなかった。
「なにがあったの?」
ついに口に出されたその問いに、俺は覚悟を決めて大きく息を吐いた。
胸の奥に溜まっていたわだかまりを少しずつ、震える声で、ゆっくりと吐き出した。
「ああ、うん……。実は――」
俺は先ほどサイカから聞いた、記憶の真実をかがみに語った。
かがみもさすがに予想外だったらしく、かなりショックを受けていた。
部屋に沈鬱な空気が流れる。
「確かに会話にときどき違和感はあったけど……まさかそんな理由だったなんてね」
かがみが悔しさを滲ませる。
俺はあれだけ一緒だったのにかがみと同じ場所に留まっていた。
自分の不甲斐なさに、拳を握りしめた。
こんなに身近にいるサイカのことを、何も理解できていなかったのだ。
胸の奥がずきずきと痛み、目頭が熱くなった。
「俺……これからサイカにどう接すればいいのかわかんなくてさ。今まで通りに接するのが、サイカにとっては一番いいってわかってるんだけど……」
「そうだね……」
かがみの表情も複雑そうだった。
サイカのことを思えば、今まで通りが一番いいのは間違いないと思う。
当のサイカが「これでいい」と言い切ったのだ。
けれど、そんな簡単には割り切れない。割り切れるわけがなかった。
「わたしもその方がいいと思う。だって他ならぬサイカちゃん自身がそれでいいって言ったんだから。でも――」
言葉を切ったかがみは、俺を見つめた。
ぼんやりと目が合う。
かがみの瞳は、強い意志が篭められている一方で、何もかも見透かしているようにも見えた。
「凡夫はそれでいいって思ってないんだよね?」
「……うん」
「サイカちゃんに、どうなってほしいの?」
どうなって欲しいんだろう。
こうなった以上、俺はサイカに何を望むのだろう。
わからなかった。
黙り込む俺を、かがみは急かすわけでもなく、ただ待っていてくれた。
そしてじっくり、じっくり考えて得た結論は、以前の俺が持っていたものと変わるものではなかった。
「――……道具じゃなくて家族だって、サイカにも実感して欲しい」
結局のところ、これしかないと思った。けれど、それは……。
「でもそれは俺のエゴで――」
「それでいいんだよ」
かがみの言葉の響きは優しかった。
俺は俯いていた顔を上げた。
「だってサイカちゃんが、寂しそうにしていたんでしょ?」
サイカの寂しげな表情を思い出す。
……うん。
やっぱりそれだけはどう考えても間違いない。
「家族が寂しい思いをしているかもしれないのに、放っておいちゃダメだよ」
「あ……」
先ほどの喫茶での、かがみの言葉が蘇る。
「思い出した?」
「ごめん。さっきも同じことを言われたんだった」
二度も同じことを言われて、また同じように気付かされるなんて。
でも、こうして声に出して見てようやく俺は自分の気持ちが分かった。
少しだけ、視界が開けた。
「……ありがとう」
「ううん、わたしは何もしてないから」
かがみが優しく微笑んだ。
そんなことはない。
もしかがみがいなかったら、俺は今でもダメだった。
でも、これから何をすればいいんだろう。
俺はサイカのために何かをしたい。
けれど、それしかわからない。
そもそも俺に、何か出来ることなんてあるのかな。
「――と、意気込んではみたものの……」
「ん?」
「今の状況を解決することは、凡夫には出来ないよね?」
「う……」
「じゃあさ、ひとつ提案があるんだけど」
思わず言葉を詰まらせた俺に、かがみが悪戯っぽく言う。
「凡夫に出来ないなら、出来るかもしれない人に訊いてみようよ」
――考えてもわからないことは、調べるかわかる人に訊く。小学生でも知っていることです。
「あー……」
再びサイカの言葉を思い出し、俺は頭を抱えた。
またこのパターンかよ……。
「俺、こんなのばっかだな……」
自嘲混じりに呟いた俺を、かがみはクスリと笑って見ていた。
でもそうやって笑ってもらえると、つられて俺の方まで楽になった気がする。
「あはは。じゃあ、やることは決まったよね」
「だな」
俺は頷いた。
「爺ちゃんに連絡を取ってみる」
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