第22話

「……え?」


 ――嘘?

 思いがけない言葉に、頭の中が真っ白になる。


 それからゆっくりと、状況が飲み込めていく。


 つまり、失恋の話は嘘だったってことか?

 じゃあ本当は何があったんだ?


 かがみはぽつりぽつりと、言葉を零すようにして語り始めた。


「長いことそれしか見てなかったっていうのは本当だけどね。わたしね、お医者さんになりたくて、医学部目指してたんだ。……で、頑張って勉強して、高二になったくらいからは受験モードで遊ぶこともほとんどなくって」


 かがみの話を聞いていくうちに、少しずつ合点がいった。

 医学部を目指していたなんて知らなかった。


 あのとき失恋に例えたのは、それだけ本気だったってことなんだろう。

 それがどうして……と思っていると、かがみが続ける。


「でも落ちちゃってさ。それで浪人してまた頑張って、模試ではいつもA判定をとれて。今度こそって思ってたんだけど、どじっちゃってさ、当日体調不良で受験できなかったんだよね」

「それは……」


 言葉にならなかった。


 俺が受験に本腰を入れたのは高三の夏からだけど、それでも根を上げたくなるくらい辛かった。

 かがみはその何倍もの時間、努力を重ねて、重ねて、ようやく届きそうなところまで迫ったのに、戦いの舞台にすら登れなかったのだ。


 想像するだけで胸が締め付けられるように痛む。


「もう浪人は出来ないって親にも言われてたし、さすがに後期試験でチャレンジするわけにもいかなくてさ。薬学部とかも考えたんだけど、もういっそ全然違うところ行っちゃえって気持ちでここにきたの。変に未練残しちゃったり、ましてや妬んじゃったりしても嫌だから。ほら、どうしても同じキャンパスにいると目に入るでしょ? 工学部は場所自体が別だもんね」


 うちの大学にはキャンパスが二つある。

 一つは文系棟、理系棟のある山の上のキャンパス。

 もう一つが医薬看護系の集まった大学病院横のキャンパスだ。


 俺なんかだと学部自体に大して思い入れがないから気にならないが、かがみのように本気で目指していたところが近くにあったら、確かに直視し続けるのは酷かもしれない。


 そこまでひと息に言ったかがみは、ふーっと深く息を吐いた。

 吐き出した息が空気に溶け込み、足元のおぼつかないような曖昧さの中に溶けて消えていった。

 世界にただ二人だけしかいないように錯覚した。


「あー、スッキリした」


 かがみは手を組んで、ぐぐぐっと前に向かって伸びをする。

 手を下ろして肩をほぐすように回して前を向いて、目が合った。

 視線が定まり、急にゴンドラが現実に戻ってきた。


「それであんな感じだったんだ」

「そう」


 かがみは照れを隠すように頬を掻く。

 ゆるゆるとしていて、飲んだくれていて、ふと目を離すとどこかに消えてしまいそうだったのが、今は懐かしい。


 纏う空気は変わっていないけれど、今では地に足をつけて前を向いている。

 その理由を、訊いてみたくなった。


「じゃあ今はなんで?」

「前にも言ったかもしれないけど、やりたいことが見つかったから。――それは凡夫のおかげでもあるんだよ」

「……俺?」

「うん。だから、ありがとうって言いたくて」


 かがみの口が改めて、ありがとう、を紡いだ。

 しかしまさかここで俺の名前が出てくるとは思わなかった。


 身に覚えがない。

 その正体を知りたい。

 教えてくれるだろうか。


「ちなみにそのやりたいことっていうのは――」

「今はまだ、ちょっとね。もう少ししたら教えられると思う。わたしの中の折り合いの問題だから」

「そっか」


 それなら無理に聞き出す必要はない。

 時が来ればきちんと教えてくれるはずだ。


 俺もスッキリした気分で外を見る。

 いつの間にか下降し始めていた観覧車は、残り四分の一を残すのみとなっていた。


 空は夜を深めていく。

 眼下の街の灯りは、まるで星屑を散りばめたみたいにきらめいていた。


 それをかがみと眺め、きれいだな、そうだね、と中身のない会話をした。


 それだけのことが、無性に心地よかった。

 満たされていると思った。


 園内に灯った人工光で照らされたかがみの横顔は、とてもきれいだった。

 もう一度、きれいだな、と言ってみた。

 かがみは外を見たまま、そうだね、と言った。


 胸の鼓動が徐々に、激しく加速していくのが分かった。

 サイカの言葉が頭をよぎる。


 ――基本的に人とは一緒に過ごす時間の長い人ほど好きになりやすいものです。


 その通りだった。

 今、ようやく自覚した。


 いつからだったかわからない。

 これといったきっかけなんてない。

 いつの間にかきっと、ただ自然に、そうなっていたのだと思う。



 俺は、月並かがみのことが好きだ。



 観覧車を降りると、先に降りた爽太と渚が待っていた。

 なんとなくだけど、その立ち位置がいつもより半歩くらい近い気がする。


 かがみが二人を観覧車に押し込めたのは、二人の関係の進展を考えてのことなのか、それとも本当に俺と話がしたかっただけなのか、未だにわからないが、いずれにせよ良好に働いたようだった。


「お待たせー」


 二人に近づく。

 傍まで寄ると渚が「凡夫に話って、なんだったの?」と訊ねてきた。


「んー。秘密、かな」


 かがみがはぐらかす。

 そして「ね?」と俺の方を見て、意味深に笑った。

 不意に向けられた悪戯っぽい笑顔に心臓が跳ね、「あ、ああ……」と歯切れの悪い返事をしてしまった。


「えー、怪しい~~」


 渚がそんな俺とかがみを半眼で見る。


「もしかして告白とかしちゃったり?」


 またまた心臓が跳ねる。

 かがみへの気持ちを意識してギクリと固まった俺を見て、渚が「お?」と目を丸くした。が、すぐさまかがみの否定が入った。


「してないしてない。そういう色っぽい話じゃないよ」

「本当に?」

「本当、本当」

「ふ~ん」


 渚はなおも疑わし気な目を向けてきていた。

 納得はしていないようだ。

 しかしそれ以上の追及は諦めたようで、深堀りしようとはしなかった。


 正直助かった。

 何もなかったのは本当のことだが、これ以上追及されたらぼろをださずに対応しきれる自信がない。


 俺自身、自覚したばかりの恋愛感情をうまく飲み込めていないのだ。

 全身が妙な高揚感に満たされていて、足元がふわふわとおぼつかない。


 世界がフィルターを通して見ているように感じられて、現実感があまりない。

 同時に、悩んでいる。かがみは俺のことをどう思っているのだろう?


 悪い感情は抱いていないと思う。

 そうでなければ、渚と爽太には秘密で、俺だけにあんな話をしないはずだ。


 けれど、それが恋愛感情に起因するものかと問われれば、首を捻るしかない。


 ときどきそれらしい言動はある、と思う。

 けど、いざ近づこうとしたら、するすると逃げられているような気がする。


 ただ、そういう距離感で接する性格の人間なのか、何かの駆け引きでそういうことをやっているのか、俺には判断がつかない。

 恋愛ってめちゃくちゃ難しいな!


「というかさ、そういう二人こそどうなの?」


 思考に耽っていると、かがみが爽太と渚を交互に見て言った。

 すると渚がめちゃくちゃ気まずそうに目を逸らした。


 お?


「まさか……付き合うことになったとか?」


 俺が訊くと、爽太と渚は互いに目配せをした後に、はにかみながら頷いた。

 俺とかがみの口から歓声が上がる。


「おめでとー!」

「おめでと!」


 俺たちが口々に祝いの言葉を言うと、渚の顔が暗い中でもわかるくらいに赤くなった。

 普段そういう顔を見せない爽太まで、照れくさそうにしている。


 幸せそうな二人を見ていると、こちらまで嬉しくなって顔がニヤけてきた。

 すると渚が誤魔化すように早口でまくし立てた。


「さっきまでそんな気はなかったんだよ!? でもほら、『凡夫とかがみ、ふたりで話したいことがあるって、何か怪しくない?』とか話していたらいつの間にか『じゃああたしたちも』って空気になってたって言うか……」


 まさにあれだな。サイカの言っていたセリフ通りだ。


 ――片思いをしている人は、周囲の人に恋人が出来たり出来そうだったりすると、自らも焦ったり欲しくなったりするものと聞き及んでいます。


「へぇ~」

「なるほどなぁ~」


 恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、渚は「ほ、ほら。それはもういいから、帰ろ!」と出口に向かって歩き出した。

 爽太が駆け足気味に近づき、横に並ぶ。内容は聞こえないが、二人は楽しそうに会話をし始めた。


 後ろからその姿を眺めていると、肩の辺りを引っ張られた。

 かがみが内緒話のようなジェスチャーをしていたので、少し屈んで高さを合わせると、顔を近づけてくる。


「――作戦、成功だね」


 心臓が跳ねる。

 耳元で囁かれるのは、わかっていても心臓に悪い。


 めちゃくちゃドキドキした。

 恋心ってすごいですね(?)。

 これだけで死にそうなんだけど。


「や、やったな」


 歯切れこそ悪くなったけれど、なんとかそれだけ返した。

 前方に視線を戻したかがみは顔にニコニコと笑みを湛えていて、心の底から嬉しく思っているのがわかる。

 いつもより数段増しに可愛く見えて、顔が赤くなるのを抑えられない。


 今が夜でよかった。

 この気持ちがバレないで済む。

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