《第三章》大学生活と自覚
第16話
サイカの存在がバレてから、早一か月ほどが過ぎた。
当初、心配していた噂が広がる事態は起きず、至って平和である。
強いて言えば、渚は未だ俺が家出少女を匿っている説を捨てきれていないようで、ときどきそれとなく探りを入れてくる(ような気がする)けど、そのくらいだろうか。
家にも爽太やかがみを伴って何度か来たし、そのときはサイカと話したりもしていたけど、直接何か言ってくるようなことはない。
思っていた以上に何も変わらず、拍子抜けしているくらいだ。これもかがみ様のご尽力のおかげだろうか。ありがたや。
そのかがみと言えば、このところ講義が終わった後は家に帰らず、大学併設の図書館へ行くことが増えた。
シリーズものの小説にハマっているとかではなく、どうやら熱心に勉強をしているらしい。
期末試験までまだまだ日があるのに、勤勉なことだ。
前はどこかダウナーな印象だったけど、それもだんだんとなくなってきた。
ゆるりとした雰囲気は共通だが、目に生気が宿っている気がする。
何かあったのだろうか。
何か目的を見つけて努力を始めたのであれば、それは素晴らしいことだと思う。
俺はひたむきに何かを出来る熱意を持ったことはないから、はっきり言って羨ましいし憧れる。
俺の場合は、目の前にわかりやすい目的がないと頑張れない。
そして大学受験を終えてしまった今、これから先そういうものが現れる機会なんてあるのだろうか。
いや、大学受験もそれなりにやっただけで、わき目もふらず熱心に取り組んだわけではなかったけど。
そんなことを丸っと家でサイカに話してみたら、「凡夫さまもかがみさまを見習って勉強でも始めてみたらいかがですか? 案外ハマるかもしれませんよ?」と言われてしまった。
ちょっと考えてみたけど、うーん、やっぱり無理かなぁ。
教科書を見ようとしても五分で寝てしまいそうだ。
とか考えていたのだが――
*
「――では、本日はここまでとする。なお、次回は中間試験を行う。これまで教えた範囲から出題するからよく復習しておくように」
六月前半を迎え、梅雨入りを目前に控えてきた今日。
喧騒冷めやらぬ講義室で、俺たちは雑談を交わしていた。
話題はもちろん、先ほど担当教員が言い残していった中間試験だ。
「やばいよー。全然わかんないよー」
「オレも。何もわかんねぇわ」
「俺もヤバい」
渚が恐怖に身を震わすようなジェスチャーをし、爽太と俺が追随した。
まだ一年生の前期ということもあり、ほとんどの講義は高校までの復習のような内容であったり、逆に高校まで学ぶような内容とはまるで趣を異にするような――例えば、紅茶の成り立ちや歴史を学びつつ、いかに美味しく紅茶を飲むかを追求する『紅茶学入門』という科目なんかもある――内容であったりするのだが、それでもいくつかある専門科目は大学らしくかなりハイレベルだ。
本当に学生に教える気があるのか疑わしいくらい、のっけからろくな説明をせず謎ワードを連発しながらガンガン進んでいく講義も決して珍しくない。
四月の当初ですらひーひー言いながらやっとやっと着いて行っていたのに、講義開始から二か月も経った現在ではもう常時顔面宇宙猫だ。
ただでさえ、うっすらと背中の見えてきた七月の期末試験から目を背けることで必死だったのに、ここにきて突然の中間試験の告知だ。戦慄するしかない。
そういえば、履修登録のときにかがみに見せてもらった裏シラバスに書いてあった気がなんとなーくするけど、今の今まで完璧に忘れていた。
多分渚と爽太も俺と同じで、余裕のありそうなのはただ一名。その例外であるかがみは、震えあがる俺たちを見て苦笑していた。
「噂によると、この講義の中間試験は期末試験の救済のためらしいから、今回点数がとれなくても落単しないみたいだけどね」
落単とは文字通り、単位を落とすことだ。
これを専門科目でやらかすと、他で優秀な成績を取れていても一気に留年が濃厚になる。
二年や三年で取る予定の講義は、そもそも一年次に学ぶ全専門科目の単位取得が、履修登録の前提条件のものも多いのだ。
各科目の単位付与条件は講義ごとに担当教員に一任されていて、そもそも中間試験なんて実施されず、期末試験一発のものも多い。
成績の付け方もさまざまで、中間試験と期末試験の点数を合算して評価したり、細かく小テストを実施して期末試験は実施しなかったり(サボりがダイレクトに評価に響くため地味に恐ろしい)、今回のように中間試験は期末試験で赤点(六〇点未満らしい)をとった際に加点するための救済要素として準備してくれる、ありがたさの極みのような講義もあったりする。
「じゃあいいか」
「だな」
かがみの言葉に先ほどまでの震えを放り出し、気楽な調子で頷きあった俺と爽太を見た渚は「いや、勉強しようよ……」と呆れ顔だった。
だってほら、期末試験では約一か月半後の俺たちがなんとかするだろうし。へーき、へーき。
とはいえ一旦、目を逸らしただけで危機感をひしひしと感じているのもまた事実で
「渚、わたしでよかったら教えるけど」
「いいの? かがみ、ありがと〜! ホント助かる!」
と前向きに話を進める勤勉学生の模範たる女性陣に
「え、じゃあ俺もお願いしようかな」
俺は即座に相乗りすることを決めたのだった。
「いいよー」
「あ、てめぇコラ、凡夫。この裏切り者が。かがみ、オレも頼むわ」
「わかった。それなら、みんなで勉強会しようか。いつする? わたしはいつでもいいけど」
「結局こうなるんなら最初から勉強するって言えばいいのに……」
渚はそう言うが、こういうものはもはや様式美というものだろう。
人間誰だって嫌なことからは逃げたい。
だが、先に小さなコストを払えば解決するのなら、その限りではない。
かがみの『いつにする?』という問いにスケジュールを確認した渚は顔を顰めた。
「あたし今日と明日はバイトだ」
「オレもサークルあるわ。まあ、自由参加だしサボってもいいけど」
「俺はいつでも大丈夫」
俺たちの都合を一通り聞いたかがみが「じゃあ明後日かな。ちょうど土曜だし、わたしも教えるなら復習する時間欲しいからちょうどいいかも」とまとめ、その場はお開きとなった。
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