第34話 女神の科
「――ひどい顔ですね。少し休んだほうがいいのでは?」
教会で待ち合わせていたルートにさえも指摘されて、隈の浮かぶヨアの目元が細く歪む。
「考えることが多すぎて、休むに休めないんですよ。」
「疲れが溜まっていると思考も碌に回らないでしょ。いい睡眠法教えてあげましょうか?」
「いや、遠慮しておきます」
遠慮しないで欲しい。あとでこっそりレイが聞いてヨアに調教しておこうか本気で考えた。割と本気で。
ヨアはまっすぐ教会の最奥、女神像の前まで進む。
「聖杯が、棺の中に」
ルートの声を背にし、女神の足元に置かれた棺を迷いなく開けた。
キラと聖杯が光る。宝石で彩られた黄金の器だ。
ヨアがハンカチ越しにそれを持ち上げる。今日の天気は曇りだが、晴れた日に光に晒したらきっともっと美しいだろう。
それを見つめたまま彼は微かに掠れた声で呟く。
「魔王を封印するための強い聖なる力は、王が代わるごとに受け継がれてきたものだけど、女神より授かった光の加護――砂漠の民の魔術と同様の力は王家の血筋に現れる。王族は、幼い頃からそれを習わされる。」
聖杯を掲げた彼は徐に振り向いて、こちらに微笑みかけた。
「数々の先祖が、何か災厄が起こる度ここで女神の預言を聞いたという。きっと俺にも応えてくれる」
途端に、彼の手が淡く光を発し始める。星を集めたように渦を巻いて、器の上に集まっていく。それがまあるい形を成した瞬間、トプンと水のように杯の中に収まった。
聖杯が棺の上に置かれると、パッと一筋の光が女神像を照らし出す。女神像にスポットを当てた光に、人の影が浮かぶ。じっと見つめていると、だんだん輪郭を成してきた。
美しい、という言葉をそのまま人の形にしたみたいだ。
初めにレイが思ったのはそんなことだった。ヨアもなかなか美しいが、彼は歴とした人間の形をしている。ここに映ったのはどこか違う。人の形をした、人ではない何か。それでいて人に親しみを覚えさせる何か。なんだか神秘的で、あまりにも素敵で、目を、耳を、心を、惹きつけていく。奪っていく。
存在だけで、人を圧倒的に左右する。かの正体は明白だった。
「女神ルクス様、ですか?」
「ええ。貴方は王子ルナ、ですね。」
「…はい。」
女神は微笑んで、ゆっくりと瞬きし、少し悲しげに目を伏せた。その動作ひとつひとつが魅力的に見えた。
「では、そろそろ戦争が始まるのですね。」
「やはり戦争は避けられませんか」
「はい。国境を開けばこうなることはわかっていました。けれど、私にはそれを止めるより成すべきことがあったのです。」
その原因には覚えがあった。
「貴方の、”科”の話ですか?」
女神は、ゆっくりと瞼をあげ、ヨアを見つめた。
ヨアとよく似た、金色の瞳だった。
けれどそれは、ガラス玉みたいに作り物めいていて、ヨアとはやはりどこか違った。
「私が地上に戻って行うのは、魔王の魂の根絶のみ、です。それ以上のことは私には出来ません。」
――どうして。
心に浮かんだ疑問に答えるように、女神はゆるゆると首を振る。
「本来、私はもうこの世に携わることを許されていません。けれど、私たち神々の争った名残が人の子を苦しめる以上、私はそれを絶やさなければならなかった。魔王の――ザートの輪廻は、私たちのせいです。最期にそれだけ片付けて、私はこの地を去ります。」
「貴方がいなくなった後の地上はどうなるのですか」
「光が永劫に世界を包むことは金輪際ないでしょう。ただ、ひと時の闇に全てを飲まれてしまうこともないはずです。必ず、乗り越えられる。」
女神が言うのならそうなのだろう。そうですか、とヨアは呟く。
「待ってください。貴方の”科”とはなんですか。人間を巻き込んでしまったこと?」
ルートが捲し立てる。
女神は、肩をすくめて見せる。そこに、先程までの物憂げな雰囲気はもうなかった。
「私は、敗れたのです。」
「引き分けの間違いでは。」
「いいえ。闇は賢かった。私は闇に負けたから、自身の誤りを知ったから、ここを去るのです。」
これが全てだとでもいうように、女神は笑った。憂のない、カラッとした笑みだった。
「そろそろ、限界ですね。今度は三月に、またお会いしましょう。」
女神がチラリとヨアを見て、面々を見渡した後、その影は見えなくなる。
聖杯が照らしていたスポットライトは消え、それと同時に、ヨアの身体が崩れ落ちた。
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