3 働き口ではあるけど……

「水無月、それ、退職願な。今すぐ名前書いてデスク置いて帰れ」


 会社に到着して早々、社長は翔の足元に一枚の白紙を投げ捨てた。


「え、でも……」

「でもじゃねぇよ。無断で遅刻する奴はうちにいらねぇんだよ」


 地面に落ちた退職願をあえて靴で踏み潰し、翔のデスクを蹴り飛ばしててから、社長は去っていった。

 同僚は何も言わない。みんな疲れておかしくなって、周りを見る余裕がないのだ。

 翔は反論もできないまま、退職願を書き終えた。社長の言うことは絶対。ブラック企業に洗脳された翔の脳内にあったのは、その一文だけだった。

 元々会社の備品が多かったこともあり、持ってかえる物もカバンに詰め込めるほどしかなかった。

 帰りの電車の中、翔のスマホが震える。


「ん……あぁ、大津さんか」


 先輩の大津が翔のスマホにメッセージを送ってくれていた。


『逃げ出せたんだからこれからも頑張れよ』


 その一文で、翔の正気が少しだけ戻る。


「そうか、俺って無職になったのか」


 突然家に異世界への扉が現れて、その上突然無職になってしまった男がどうすれば良いというのだろうか。

 犯罪者、無職、さらには不摂生が祟って体重は三桁を越え始めた体では彼女すらできなさそうだ、なんてことを考えながら翔がスマホを触っていると、動画配信アプリからの通知が飛んできた。


「そういえば、ここ最近動画とか全然見れてなかったな……」


 そう呟きながら翔は配信アプリをスクロールし続ける。最近流行りのダンジョン攻略や、討伐前に魔王に直接インタビューなんて動画が流れる中で、翔はある生配信を発見した。


「うっわ、久々に見たなこれ」


 日本のどこかの高原のライブカメラだ。景色の良い森の中にポツンと置かれたカメラと、その前に置かれた水飲み場と餌箱。定期的に職員が餌を補充すると、近隣の野生動物たちがそれを食べにくる様子を眺めることができる。

 動物が昔から好きだった翔にとって、大学卒業まで何度も見ていた光景だった。

 家に着くまで、翔はずっとそれを眺め続けていた。


・・・


「というわけで、無職になっちゃいました」


 マルハスと呼ばれたまん丸の犬を膝に乗せ、撫で回しながら翔は言った。恍惚を表情にしたような顔で、翔の太ももの上に短い足を投げ出している。

 そんな様子を見ながらエプロン姿の女の子がいいアイデアを思いついたとばかりに手を打った。


「そうだ! じゃあうちの農園で働けば良いじゃないですか! ちょうど人手が欲しかったところなんですよねぇ」

「働くそれもありなんですかねぇ。もうなんか、働きたくなくて……うっ……」


 翔は社長の言葉を思い出して自分の座っている場所の横に向かってえずいた。が、胃のなかは空なのか何も出てこず、危険を察知した周囲のマルハスたちが逃げて何もなくなった草原の地面だけが翔の視界いっぱいにうつっていた。


「あ、えーと……じゃあそう! お手伝い! お手伝いをしてもらえませんか? 三食ご飯は出せますし、毎日そこまで忙しくもないですし。それにほら! マルハスたちもこんなに懐いちゃってて」


 翔の足元に何匹ものマルハスたちが「次はワシを撫でろ」と言わんばかりに集合していることに、翔はそこで初めて気がついた。


「うーん……」


 翔にとっては願ってもない好条件だった。昔から動物の世話は好きだったし、やけに懐かれる性格はここでは大いに役立つだろう。

 問題は金銭面だ。家賃と保険料と税金、それに、スマホの通信費なんかも合わせるとバカにならない。


「けど、バイトとかするって考えたら……ワンチャンあるか……」


 あの社長の元で何年も働いていたんだ。この程度のことであれば苦労でもなんでもないかもしれない。

 そんなことを熟考する翔の顎を、マルハスが何もわかっていないといった表情で舐めていた。


「とりあえず一ヶ月だけ、まずはそこから考えても良いですか?」

「ええ! ぜひ! じゃあまず自己紹介からですね。私はアーミアって言います。あなたは?」

「翔。水無月 翔です」

「わかりました! あと、これからは一緒に仕事をするんですから、敬語じゃないように。いい?」

「はいはい」


 ひょんなこと、なんて言葉があるが、まさにそれが似合うのが現状だろう。社畜からドロップアウトしたかと思ったら、謎の異世界での仕事を行うことになるなんてと翔は思った。

 俺はアーミアに促されるままに、近くに立っていた建物の中に入っていった。歩きながら、アーミアは翔にここが『コティーナ農園』という名前だということを伝えた。

 木製で、複数人が住んでいるような広い家だった。


「他にも従業員がいたんですけど、今はちょっと……いなくなっちゃってて。好きな部屋を自由に使っちゃっていいんで、とりあえず着替えてきてもらえますか? これ、多分サイズは合うと思うんですけど……」


 アーミアが渡してきた服は男性用の大きなサイズのオーバーオールと中に着る白いシャツだった。翔は適当な部屋に入ると、渡された服を着て外に出た。


「お、似合ってますねぇ。じゃあちょっとついてきてもらってもいいですか?」

「あの、力仕事とかはあんまり得意じゃないんだけど……」

「ん? 大丈夫ですよ! ほら! カケルさん男性なんですから!」


 人の話を聞かないまま、アーミアはカケルの手を引き外へと飛び出した。

 もう一度撫でてもらえるのかと期待したマルハス達が追いかけてくるが、翔には撫でる余裕はなかった。

 最初の仕事は、草かりからだった。

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