棘
千石綾子
ささくれだってるトイレ
「いてっ」
思わず叫んで、俺は人差し指を見る。すると指先にはどでかい棘が突き刺さっていた。いや、それは棘なんて可愛い代物じゃない。小さい木片と言ってもいいだろう。
「またかよ」
そっと棘を抜くと、指先に赤い球体が浮き上がる。俺はそれをティッシュで吸い取り、常備してある軟膏を塗った。
「そろそろやっつけないとイカンな」
トイレのドアを眺めながらため息交じりに呟くと、俺は工具箱を物置から出してきた。
小さいグラインダーで、ドア一面にできたささくれを大まかに削り落とす。なにせ素人の作業だ。慣れているとはいえ、我ながら手元も危なっかしい。
ささくれがあらかた削れた後は、目の粗いサンドペーパーをかける。次にもう少し目の細かいサンドペーパーをかける。
飛び出たささくれはこうして取り去ることができるが、削られて出来た縦の溝はどうしようもない。まあ、害はないのでとりあえずこれで良しとする。
そしてその翌日。トイレに座ってドアを眺める。うん、なかなか上手く修繕できている。そんなことを考えていると、ドアの向こうからトントン、カリカリ、と音がする。
俺は無視を決め込んだが、それで済むはずがなかった。
「うにゃぁぁぁぁぁぁん、にゃおぉぉぉぉぉぉぉん」
恨めしそうな悲痛な鳴き声と共に、カリカリとドアを開けようとする音がする。こう鳴かれると俺も弱い。仕方なくトイレのドアをちょっと開けた。
するとすかさずその狭い隙間に頭を突っ込み、こじ開けるようにして飼い猫のゴン太が入って来た。体が大きく毛艶の良い茶トラだ。自慢じゃないが、とっても可愛いうちの子だ。いや、自慢だ。ゴン太は間違いなく世界一可愛い。
「おはようゴン太。ご機嫌いかがかね」
撫でようと伸ばした俺の手をするりとかわし、狭いトイレの中をぐるりと一周して、ゴン太はトイレのドアに向かって伸びあがった。
がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり。
ああ、まただ。
苦労して直したドアが目の前でどんどんささくれていき、俺の心は折れそうになる。
何故だかゴン太はこのトイレのドアがお気に入りだ。色々な種類の爪とぎを買ってきても、必ずここで爪をとぐ。
おかげでドアの内側はバリバリに傷がつき、ささくれだって凶器と化す。
やけに狭い我が家のトイレのドアにこのささくれがあると、ちょっとしたアイアンメイデン状態になる。
だからささくれが酷くなる度に、グラインダーとサンドペーパーの出番となる。月に二度くらいのペースで、この不毛な戦いは繰り返されるのだ。
そして今朝のこと。
「いてっ」
不用意に触ったドアのささくれ。また俺は棘を抜き、薬を塗る。
でももう俺はこのささくれを削ることはない。
トイレのドアを閉めても鳴き叫ぶ声はもう聞こえない。
13歳の誕生日を目前に、ゴン太が突然の病気で逝ってしまって、もう3か月になる。
懐かしさにトイレのドアを撫でるのが習慣になってしまい、近頃はしょっちゅうこの棘を指に刺してしまっている。
それでもゴン太の思い出が消えないように、ドアのささくれはそのままだ。
彼が作ったひっかき傷は、ドアにも俺の心にも永遠に残るのだ。
了
※お題:「ささくれ」
棘 千石綾子 @sengoku1111
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