第12話 位置情報アプリ

 8月の終わり、居室で勉強していると私の指導教官池田先生に「ちょっと」とゼミ室に呼び出された。就職した友人の話では、上司の「ちょっと」のあとには必ず小言が含まれるということだったので、それこそ「ちょっと」嫌だった。呼び出されてゼミ室に行くとのぞみも呼び出されており、二人でなにか注意されるのかと思っていた。

 

 しばらくするとのぞみの指導教官である網浜先生もやってきた。網浜先生の笑顔が不気味に感じられた。

 網浜先生が話し始めた。

「来月SHELの一般公開があるだろう、君たち去年行ったよね」

 網浜先生のおっしゃるとおり私とのぞみは去年の9月、SHELの一般公開に里帰りを兼ねて手伝いとして出張していた。SHELとはSuper High Energy physics Laboratoryの略で、高エネルギー系の物理学の研究施設だ。茨城県は東海村にある。

「今年もどうだい、ただし今回は一週間くらい前乗りしてさ」

 それでピンときた。のぞみのつくったサンプルは、ちょうどその頃SHELで榊原先生と修二くんの手により測定されることになっている。のぞみは日頃から試料作成ばっかりで、たまには測定もやりたいとこぼしていたところだった。しかし私が行く理由は特にない。まぁ修二くんと過ごせる時間が増えるだろうから異論はないが。

 のぞみも同じ考えだったらしく口を開いた。

「わかりました。でも、なんで聖女様も行く必要があるんですか?」

 今度は池田先生が答えた。

「うん、榊原先生がね、今までの測定と理論のすり合わせをしたいと言っててね、僕が行ってもいいんだけど講義もあるしさ、かんざ、いや唐澤さんなら僕の代わりに行ってもらってもいいんじゃないかと思ってね」

「そうですか、ありがとうございます」

 まぁ理由はどうあれ、修二くんの近くに行けるなら行くまでだ。

「聖女様、顔、にやけてるよ」

「あ」

 のぞみに注意されてしまった。

「とにかくさ、榊原先生が来てくれっていってるんだから。あぁ、榊原先生って、いいひとだなぁ」

 まったくである。適当に理由をつけて私達の新婚生活を応援してくれているのだから、神様のような人である。


 私はこのとき、かつて榊原先生が超電導磁石をクエンチさせてしまった原因を私に押し付けようとしたり、修二くんと私の東海村の新婚家庭に転がり込んでいたりしていたことなど、すっかり忘れていた。

 

「そう言えばね、扶桑の伊達先生とね、お弟子さんの高木さんだったかな、同じ時期にSHEL来るらしいよ」

 伊達先生は日本強磁場界の大家、高木さんは扶桑の後輩で4年時は伊達研、今は大学をうつって柏の強磁場施設にいるはずである。高木さんには進路について相談されたこともあった。

「のぞみ、高木さんだって、元気してるかなぁ」

「うん、そうだね」

 のぞみはあまりうれしくなさそうだ。

「何、のぞみ、のり悪いね。明くんのこと」

「それもあるけど、なんかね」

「なんかって、何?」

「いや、確証はない」

「ふーん」

 私は修二くんとゆっくり過ごせそうだし、伊達先生や高木さんにも会いたい。のぞみは明くんとしばらく離れ離れで気の毒だな、と思っていた。

 

 のぞみと二人飛行機で茨城入りし、修二くんに迎えに来てもらった。9月の茨城は暑い。真夏の札幌より遥かに暑い。修二くんの車はもちろん冷房を入れていたが、後席にすわったのぞみにまでは冷風が届きにくく、のぞみはずっとうちわで扇いでいた。

 その日の夕食は、私達の家でのぞみを交えて三人で食べた。のぞみがわざわざ夕食を作ってくれた。私はのぞみのテクニックをコピーすべく、しっかり手伝った。

 夕食時、修二くんは明くんの様子を聞きたがった。友人の近況を気遣う修二くんを見て、男の友情っていいな、と思った。

 

 私も一応鬼じゃないから、のぞみには形だけ泊まっていけとさそった。のぞみはもちろんそれを断ったのでSHELの宿泊施設に送った。家で二人だけになったら、修二くんは不思議なことを言い出した。

「杏、位置情報アプリってあるじゃん。お互いのためにインストールしとこうよ」

「え、そんなの要る?」

「基本いらないけどさ、非常事態のときのためとかさ、あったほうが安心じゃん。やっぱ杏が遠くにいると、不安だよ」

「不安って、私は浮気とかしないよ」

「浮気とかじゃなくてさ、地震とかね」

 よくわからないが修二くんに言われるまま、そのアプリをスマホにインストールした。

 

「そういえばGPSって、相対論つかわないと測定誤差がとんでもなく大きくなるんだってね」

「ふーん、そうなんだ」

 修二くんの情報に私は冷たく応じた。その話題は聞いたことがあったし、修二くんが話題をそらそうとするとき物理の話題をふってくるので警戒していたのだ。

 ただ、その夜は久しぶりの修二くんとの大切な時間をしっかりとすごしたので、翌朝にはアプリのことはきれいさっぱり忘れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る