聖女様の物理学 後日譚
スティーブ中元
第1話 引っ越し
三月初め、修二くんは東海村に行ってしまった。
その準備は私をも巻き込み、それはそれは大変だった。
一月、二月と、修二くんは五日くらいずつ榊原先生とともに東海村に出張した。もちろん中性子分光器で実験してくるのであるが、実質的には部屋探しに行っていたようなものだ。
一月の出張の際は、実験の合間合間に研究所から外出して内見したアパートの写真を頻々と私に送ってきた。どれも一長一短で、修二くんも中々決断がつかないらしい。
もちろん居室で計算中にも写真が着信する。
「こんなの、写真だけじゃわかんないよ」
などと半分惚気でカサドンにボヤいていたら、
「次回の出張、ついて行ったらどうですか」
などと言われてしまった。もちろん池田先生を強引に口説いてそうした。
二月の出張は、私については実は出張ではない。ただの私的な旅行だ。
金曜の夕方便で苫小牧を発つと大洗に土曜の午後に着く。もちろん車で行く。
東海村近辺を車で走り回って、土地勘をみがく。
土曜は夕方修二くんと合流して夕食をとり、ビジネスホテルに泊まる。
日曜一日かけて修二くんと物件をあたって、ようやく新居を見つけることができた。
日曜夕方大洗を発てば月曜午後に苫小牧着。
運悪くこの日は悪天で、高速道路は大雪通行止めになってしまった。もともと大学を休む気でいたが、大雪の一般道は時間がかかって、家にたどり着いたときは寂しさを感じる余裕もないほど疲れてしまった。
火曜日に大学に顔を出したらのぞみと真美ちゃんにつかまった。
「新婚旅行はどうだった」
と二人そろっていやらしい顔で聞いてくる。
「そんなロマンチックなもんじゃないよ」
と、私は嘘をついた。
新居が決まれば引っ越し準備である。ただし、修二くんは完全に札幌を引き払うわけにはいかない。あくまで学籍は札幌国立大学にあるからだ。
「そんときは明のところにでも転がり込むから、大丈夫だよ」
と言って、修二くんははじめ荷物を全部東海村に送る気でいた。
私はこれに大反対した。
「荷物はある程度こっちでも必要でしょう。私部屋余裕あるからうちに置いといてよ」
「でも、僕、杏の部屋入れないよ」
これの解決に私は大技を使った。
名字を変えたのである。
まず根回しだ。自分の両親、修二くんのご両親に電話をかけ、入籍を迫った。修二くんのご両親は二度ほどお会いしていたので、案外あっさりとOKしてくれた。父が若干ごねたが、
「そこまでお父さんが言うなら、親子の縁を切ってもいい」
といったら、渋々許してくれた。
赤い例の用紙はダウンロードもできるが、わざわざ区役所まで貰いに行って、のぞみと明くんにハンコを押してもらった。これを修二くんにつきつけたら、
「いいのかなぁ」
といいながら記入、捺印した。その足で区役所に提出しに行った。年金の切り替えも行う。健康保険は扶養のままにしておくが、名前の変更を改めて父にお願いした。
次に不動産屋に行って名字の変更を伝えた。私の住むアパートは女性専用だから、男性は親族しか入れない。法的には問題ないが、予想通り不動産屋さんは難色を示した。
「オーナーがなんというか。もともと夫婦もんを考えてないから」
私は事情を話し、一年だけだからとか、月に数日もいないから、とか説明したら不動産屋さんはかえって同情してくれ、大家さんにかけあってくれた。最終的には大家さんも祝福してくれた。
二月半ばに私は名字をかえてしまったが、大学では名字で呼ばれるときはあいかわらず「神崎さん」と呼ばれる。確かに「唐沢」が二人ではややこしいだろう。
ただ腹が立つのはときどき修二くんが私のことを「神崎さん」と呼んでしまうことで、そのときは無視している。大体三回に一回くらいだ。多すぎる。
多すぎて頭にくるので、次の論文からはA.Karasawa名義で投稿してやろうと思う。まだA.Kanzaki名義で出版された論文も少ないから、あまり問題にならないだろう。物理学会にはとっとと名字変更の届けをしてしまいたいが、念の為三月の学会発表のあとにすることにした。
いずれ物理の世界で「神崎さん」と呼ばれることは無くなるだろうが、淋しくはない。知り合いからはどうせ聖女様と呼ばれるだろうから。
修二くんが札幌を引き払う前日午後、私は修二くんの家に押しかけた。名目はあくまでお手伝いなので、掃除道具を持参した。それと家で作ったおかずとおにぎり、お茶をいれた魔法瓶も持っていったから、けっこう大荷物だった。
家に入れてもらうと、もうほとんど片付いている。
「なんか、荷物多いね」
「うん、夕食用のお弁当と、あと掃除道具。いらなかった?」
「いや、助かるよ。今夜外食かと思ってたから」
「今夜、泊まっていっていい?」
「うん、ありがとう」
翌朝は早くから置きて、しっかり掃除した。
片付けが終わり、あとは業者さんを待つだけだ。
「私、今のうちに自分の荷物置いてくる」
そう言って掃除道具などを置きに行ったのだが、その道はとても長く感じられた。こんなことで明日からちゃんとやっていけるか不安になる。
思いついて車を出し、修二くんの家の近くのコインパーキングに停めた。
修二くんの家は、ちょうど業者さんが荷物を出している最中だった。作業はあっさり終わり、荷物が行ってしまう。がらんとした部屋に二人立ち尽くす。
修二くんは大きく息をついて、
「じゃ、行こうかな」
と言って最後に残ったカバンを持ち上げた。そのカバンに、去年渡したクマのぬいぐるみが入っていることを私は知っている。
「私、車まわしてきた。空港まで一緒に行かせて」
「ありがとう」
もう夫婦なのだから、変な遠慮はいらない。
空港での別れは辛かった。泣きそうになるのを必死に堪える。ゲートに向かう直前、修二くんは右手を伸ばして握手しようとした。
私は無視して修二くんに抱きついた。
泣き顔を見られたくなかったから。
帰りの運転はとにかく慎重にした。かなり時間がかかって自宅駐車場にたどり着くと、なんとのぞみと真美ちゃんが待っていた。三月だけど相当寒かったに違いない。
三人抱き合って泣いた。
のぞみも真美ちゃんも、私の気持ちを近い将来味わうかもしれないから。
もちろんその後は女子会だ。
はじめは静かに飲んでいた。
私は寂しかったので、青いシャツを着たクマのぬいぐるみを膝に抱いた。
そうしたらのぞみがそのクマを買った経緯を真美ちゃんに教えた。
「聖女様さ、私に隠れて扶桑女子大の売店行って、赤と青セットで買ったんだよ。でね、赤だけ修二くんに渡したんだよ」
「のぞみずるい、自分だっておなじことしたくせに」
「え、そうなの? 明くんちにもあるの?」
「そうだよ、のぞみ、明くん待ち伏せして渡したんだよ」
暴露大会になった。
しばらくしたら、のぞみはシマエナガのぬいぐるみ、真美ちゃんはピンクのかっぱを膝に抱いて飲んでいた。
酔っ払った真美ちゃんは、修二くんの荷物を勝手に開けた。
修二くんの服を取り出して、私の顔に押し付ける。
「ほりゃ、クンカクンカせんか」
「やめてよ」
「ええんやで、ええんやで」
このあたりで記憶がない。
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