名前のないディストピア
ぼくたちには名前がない。
いつから。
おそらく、生まれたときから。
名前がないだけではない。
ぼくたちの心臓は右胸に存在している。
それは昔、頭がずば抜けて賢い科学者が突然、左胸に心臓があると、ぼくたちは感情に支配され過ぎた一生を送ってしまうと言ったからだ。
心臓は左胸ではなく右胸にあるようにデザインドすべきだ。科学者はそう提唱し、群衆はなぜか熱狂的にそれを受け入れてしまった。
だから、ぼくたちが、もし左胸に手を当てたとしても、鼓動を聞くことはない。みんな、心臓は右胸に位置している。
元々、心臓が右胸にあった人もいたらしいが、遺伝子をデザインドされるにしたがい、そういう人も徐々に減っていったという話だ。
ぼくたちの肌は生まれつき、全体的に灰色がかった、岸辺に打ちつけられたクラゲのような色だ。瞳孔の色も同じ色だし、髪の毛も同じ色。
みんな、外見はデザインド。デザインド。デザインド。
名前もネームレス。ネームレス。ネームレス。
今日も与えられた『役割』を果たすため、ぼく――いや、ぼくたちは畑に出ていた。
ぼくたちは、サラダの材料を畑でつくり、出荷してはまた、つくる。
そういう『役割』だ。
毎日同じことの繰り返しだが、ぼくたちは『役割』のために生きているため、特に不満に思うことはない。
大体、この世界には支配者と言う存在がいないのだ。
みんなが何かしらの『役割』を持っているため、昔の言葉で言う、『
ぼくたちが教育機関で教わったところによれば、この世界は隅々までデザインドされ、ネームレスを図った世界だから、これが普通なのだそうだ。
授業が終わっても誰かが口を開いて質問したり、会話をすることもない。授業が終われば黙って自室に帰るだけだ。
ぼくたちはそのようにデザインドされ、したがってお互いにトークレスだ。
ある日、ぼくたちはいつものように『役割』のため、畑に出た。
畑は昨日と同じ姿であったが、一点だけ違うところがあった。
誰かが畑の一角にうずくまり、ぼくたちの収穫物であるキャベツを持ち上げ、かじりついて食べている。
だが、その一瞬後。
ぼくたちは平常心のまま、『役割』をこなすべく農作業にいそしんだ。
誰かが、その人物をふり返って凝視することはない。
農作物を荒らしたり、盗む者がいたとして、捕まえるのは『役割』を持った者でなければならない。
この場にいるぼくたちは、誰もそのようにデザインドされていない。
だから、『透明人間』が何をしても、ぼくたちには見えないのと同じなのだ。
だが――。
ぼくたち――いや、ぼくは何を思ったか、こっそりキャベツをかじる者の姿を横目で見た。
それは、今までに見たことのない外見だった。
端的に言って、ぼくたちとは全然違う。
ぼくたちは――いや、ぼくに言えるのはそこまでだ。
外見を口にすることは禁忌だとされている。
ぼくは、その人物を横目で見るのを止め、農作業にいそしんだ。
翌日、ぼくたちは、いつものように『役割』のために畑に出た。
だが、畑には既に何者かの姿がいくつもあった。
その人物たちは畑を行き来しながら、一角に座り込み、キャベツをかじっている。
ぼくたちは何も構わず、農作業をいつも通りに始めた。
今日からはキャベツの出荷だ。
ぼくたち――いや、ぼくは近くにあったキャベツに手を伸ばし、鎌で茎を切った。
「触るな」
突然、声がして腹を蹴られた。
ぼくたち――いや、ぼくは、その場にすっころんだ。
声の持ち主は、ぼくからキャベツを奪い取ると、こちらをじろりと
その人物の外見と言ったら――いや、そのことは口にしないでおこう。
外見について語ることは
ぼくたちは、そう教育機関で習ったし、ぼくたちの外見がみんなデザインドされたのは何かしらの悲しい事件があったために、公平を期するために行われたことなのだ。
頭がずば抜けて賢い科学者が、そう提唱した。
教育機関が、そう教えた。
だから、外見について語ることは禁忌だ。
ぼくは何度も心の中で、そう繰り返した。
どさ、とキャベツが転がって、ぼくのそばに落ちる。
ぼくたちの内の一人が誰かに殴られていた。
気がつけば乱闘が始まり、キャベツはどんどんと何者かに奪われていった。
ぼくたちは畑にしゃがみこんだまま反抗しない。
『役割』を持つ者が来るまで、待っていなければならないのだ。
ぼくは呆然と、繰り広げられる光景を見ていた。
こんなことが起こるのは初めてだ。
「ごめんね」
急に頭上から声が降ってきた。
見上げると、何者かが、ぼくを見つめていた。
なぜだろうか。
その人物は優しげな表情でぼくを見ているのだ。
なぜだ。
きみはデザインドされていないのか。
「みんな、お腹が空いているの」
その人物はぼくのそばに座り込み、そう言った。
「畑で作業するのは本当に大変だったはずなのに……ごめんね」
手が触れる。
温かい手のひらが、ぼくの手をそっと包んだ。
なぜだろう。
なぜ、この人物の手はこんなにも温かく感じるのだろう。
「早く、逃げろ」
誰かの声が言い、ぼくたち以外の何者かは、みんな畑を走って去って行く。
ぼくの手の上を温かい手がさっと滑った。
ぼくはその人物の顔を見た。
その昔。
ぼくたちがデザインドされるよりも前にいた人たち。
目にするまでは信じられなかった。
彼らは世界の隅々に確かに存在していたのだ。
いや、この言葉も考え方も、元々は彼らが生み出したことをすっかり忘れていた。
彼らの目を感じ取ることなく、ぼくは『役割』をこなすだけの日常を送っていたのだ。
ぼくは温かい手のひらが触れた手を、そっと左胸に当てる。
そこには心臓はない。
けれども。
ぼくの隅々までデザインドされた体は、やっと初めて、ディストピアが生まれる前の世界を感じ取ったのだった。
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