残業

 職場には一つの噂があった。

 それは一人で残業していると、必ず幽霊をドア付近で見る、と言ったものだった。

 そのドアは職場の入り口にある。何てことのない普通のドアで、頑丈そうではあるが上部にガラスがはめ込まれている。

 噂では、そのガラスを外からのぞきこむように、黒い人影がぼうっと現れ、職場で残業している人をじっと見ているというのである。


 職場は昔、古い印刷工場が建っていたらしく、かなり建て直されてはいるが、その頃の職人の魂が今もさまよっているのだと噂されている。


 その日、わたしは職場で残業をしていた。

 一人、また一人と職場を後にして行き、気づけば、職場に残っているのはわたしと主任の二人だけだった。


「それじゃあ、俺、先に帰るから」

 主任がわたしに帰りの挨拶をしてくる。

「戸締りは頼んだ。連続の残業は根を詰めてもろくなことないし、家庭を持ったら怒られるだけ。早く帰った方が良いぞ」

 主任の言葉にわたしは内心、苦笑した。

 いつも残業している主任の言葉には妙に説得力がある。そう思いつつ、わたしは言った。

「わかってますって。あと、もう少しで終わりますから」


 主任が帰った後、わたしは椅子の上で背伸びをしつつ、時計を眺めた。もう十一時近くになっていた。

 人手不足で伝票作業はかなりの時間がかかっていた。他の仕事も同時進行で進めているから、どうしても誰かが集中して仕事を片付けなくてはいけないことになる。

 大口の客と会話できる言語能力を持っているのは、チームでわたし一人だったため、仕事を進めるためには残業を連続して続けざるを得なかった。


 わたしは椅子から立ち上がると、職場の壁際に設置された飲料の自動販売機に近寄った。

 小銭を投下してからレモンティーのボタンを押し、下方の蓋を開けてペットボトルを受け取った。


 あと、もう少しだけ作業を続けてから帰ろう。

 ペットボトルを手にしながら席へ戻ろうとしたときだった。

 職場の入り口。

 ドアの上部のガラス窓から、誰かがこちらをのぞいている。

 警備員? わたしは、ふと思った。

 夜になると、警備員がああいう風に戸締りを確認していることがある。

 だが、どうも違うようだ。

 ドアの入り口から明かりが少し離れているため、人物の顔は逆光になって、黒い影のようにしか見えなかった。

 輪郭もぼんやりしていて、性別もよくわからない。

 知っている人物のようにも思えなかった。


 もしかして――。

 わたしの脳裏にある可能性が浮かぶ。

 職場で噂されている幽霊。

 一人で残業していると、ドアからこちらをのぞきこんでくる人影。

 まさか、今、見えたのが――その幽霊なのか。


 わたしは弾けるようにドアへと駆け寄り、ドアを押した。

 だが、ドアを開けても、そこには誰もいない。

 そもそも、ドアの上、天井付近には防犯カメラがついているのだ。不審人物などいたら、それこそ、警備員が真っ先に来て捕えているはずだ。


 わたしは半分がっかりして席へと戻った。

 伝票作業を事務的に進め、キリの良いところで終わらせると、パソコンを閉じた。手早く机上を片付け、職場の戸締りを確認する。


 ちらっとドアの方に視線を向け、最後の戸締りを、と思ったときだった。

 まただ。

 ドアの上部のガラス窓から、誰かがこちらをのぞいている。その人物は、今度は横目でこちらをのぞいているように見える。


「誰なの」

 わたしは言った。

 ドアの側へ近づいてみる。わたしは横側から近づいているため、相手には見えない死角にいる。

 一歩一歩、息を殺すような気持ちで幽霊に近づく。

 黒い影はぼやっとした輪郭を窓の上に落としたまま、動かずにいる。

 あと数歩を残して、わたしはドアに近づく。覚悟を決めるとドアノブに手を伸ばして、さっと押した。


 開いたドアの先を、わたしは急いで見渡した。

 誰もいない。

 おかしい。先ほどまで確かに誰かがいたのに。

 キィとドアが蝶番の掠れた音を立てた。

 依然として、そこには誰かがいる気配がなかった。

 見間違いだったのだろうかと、わたしはほっと溜息をついて踵を返した。

 トン、と誰かが肩に触れる。

 瞬時にわたしは後ろをふり返った。


 光がわたしを照らす。

 眩しさにわたしは目がくらむ思いがした。とっさに腕で視界を覆う。

「残業中ですか?」

 光が言った。いや、言ったように思う。

「消灯の時間はとっくに過ぎていますので、早くお帰りください」

 声の主は警備員だった。わたしは、すぐさまうなずいた。

 職場の手狭なロッカールームから荷物を取り出すと、明かりを消し、ドアの鍵を外から閉めた。後は鍵をセキュリティに預かってもらうだけである。

 ドアの上部にある窓を見ると、ガラスだけあってわたしの顔が遠くの光を受けて、ぼんやりと映り込んでいる。

 案外、幽霊の正体はこれだったのかもしれない。近くに寄った警備員の影が逆光を受けて映り込んだだけだったのだ。

 職場のみんなに武勇伝の一つとして、明日になったら披露するのも悪くない。そう考えて、わたしはドアを離れ、少々暗くなった廊下へと足を向けた。


 突然、気配を感じて、わたしは驚きに飛びのいた。

 然程離れていない距離の場所に、一人の女性が立っている。明かりがまばらに消されているため、相手の顔に影が当たり、よく見ることができない。

「職場、閉めたんですね」

 甘ったるい、砂糖をまぶしたような、キーの高い声が鼻につく。

 女性が明かりの下へ一歩進み出た。

「残業、お疲れ様です」

 声が聞こえはしたが、女性の顔には何の表情も浮かんでいなかった。

 どことなく無機質な、内にこもった感情の一切を押さえつけたような表情なのだ。声音とは違って。


 わたしは声を発しようとした。

 だが、なぜかできない。

 喉が渇いたように、または灼けたように声を発することができないでいる。

 女性はまた一歩、わたしに歩み寄る。


 わたしは、あまりの恐怖に全身の力を込め、すぐにその場から走り去った。

 女性をどこかで見たことはなかったし、彼女は職場で働いている人でもなかった。

 ただ、彼女を見た瞬間、わたしには痛切なほど、これまでの事情が理解できたのだ。


 幽霊の噂。その、あまりにも有名な噂を、よく考えてみれば頻繁に残業をする主任が知らなかったはずはない。

 それなのに、一言もその噂を口にしなかったのはなぜか。

 その上、先ほどの女性の声と表情。

 あれでは、まるで――。


 わたしはエレベーターで一階へと降りた。

 荒い息が後に続く。

 エレベーターを出て、わたしは思う。

 このことは、わたしの心の内に留めておくべきだ、と。

 主任がよく残業をしている理由。

 それが、やっとわかったかもしれない。



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