ハーブ園
その日、わたしは大学で取るべき講義もなく、彼氏と一緒に植物園に来ていた。
植物園と言っても、動画サイトで取り上げるような大々的なものではない。
もっと小さい、市の公園に併設された、さっと見て回れるものである。
春半ばと言うこともあり、色鮮やかな花が花壇を埋め尽くし、公園入口から植物園に着くまで、何回も写真を撮り、彼氏とポーズを撮って写真を撮った。
花に顔を近づけると甘い香りがする。わたしは、普段できない体験に心底、今日ここへ来て良かったと思った。
華やかな赤や黄色の薔薇だけでなく、水色や深い藍色をした珍しい品種も咲いており、わたしは携帯片手に何度も写真を撮り、花の姿にうっとりと心をときめかせた。
薔薇園の近くにはハーブ園もあった。
一通り薔薇園をのぞいた後は、ハーブ園に二人で進んでいった。
ハーブ園では代表的なハーブがいくつか植えられ、標識が土に刺さっている。
見れば、ラベンダーやセージなど、どこでも見かけるようなハーブばかりである。
ここには来なくても良かったかな。
見慣れたハーブばかりがあるのを見ると、別段、特別な感情も感慨も浮かばなかった。
先ほどの薔薇園とは大違いである。
だからだろうか、ハーブ園には、わたし達の他に人が訪れている様子はない。
それとも、タイミングとして人気のない時間帯なのだろうか。
次はどこに行こうか、と、わたしは彼氏に聞くためにふり返った。
そのとき、ハーブ園の奥の方に中年の女性の姿があるのが目についた。
彼女は一人きりでハーブ園にいて、先ほどから特定の一角を行ったり来たりしている。
わたしは彼氏の手を引き、街路樹の影に隠れると、中年女性から見えない立ち位置で彼女を観察した。
「どうしたの」
彼氏は小声で言う。
「少し静かにして。あの人、様子がおかしい」
わたしは口元に人差し指を当てると、彼氏に向けて、そう言った。
中年女性は行ったり来たりするのを止め、周囲をきょろきょろと見渡している。
ハーブ園には誰もいない。そのことを十分に確認すると、彼女はある一角まで進むと、突然、腰をかがめ、しゃがみこんだ。
その後、手をチャイブの青い茎に持っていくと、急にチャイブを引っこ抜きはじめた。
「え、あの人何しているの」
彼氏がささやくように、わたしに言った。顔つきを見ると、少し驚いているようだ。
わたしは何も言わず、中年女性の方に視線を向けた。
彼女はチャイブを引っこ抜くと、もう片方の手に持ったビニール袋に土がついたままの状態で突っ込んでいる。
窃盗だ。
わたしは中年女性のしていることを見て思った。
記憶の片隅にある知識によれば、公園の植物を盗むのは、器物損壊罪にもあたる犯罪だ。
公園内に外から持ち込んだ植物を植えたとしても、公園を占用しているとみなされ、都市公園法に
動画を撮って、後で植物園の職員に見せた方が良い。
わたしは、バッグにある携帯に手を近づけた。
「何、しているんですか!」
女性の怒声が聞こえ、わたしはそちらに視線を向けた。
公園の職員らしい女性が驚いた顔で中年女性を見ている。
中年女性はさっと声のした方を見ると、うるさそうに言った。
「これくらい良いじゃないの。この公園の植物は市の税金で植えられているものでしょ。私はね、もう何十年も市に住んでいるの。ハーブの一本か二本、盗っても文句言わないでほしいわ」
「お願いですから、止めてください!」
職員の女性は金切り声になりそうなのを何とか抑えつつ言った。
「ここの植物は大切な市の財産です。『これくらい良いじゃないの』じゃ、ありません!」
「じゃあ、何? 戻せば良いわけ? はいはい、わかったわよ」
中年女性はチャイブをビニール袋から取り出すと、土の上にぽんと置いた。
職員の女性は怒りで体を震えさせているように見える。
わたしは彼女に同情した。
横を見ると、彼氏が表情に
「どうしたの」
「いや……」
彼はなぜだか言葉を
「こんな所に来るんじゃなかったね。せっかくのデートなのに」
わたしは顔を横に振った。
「全然気にしていないから。むしろ、おばさんが怒られてスカッとした気分」
彼はしばらく顔をうつむかせた後、ようやくにして「帰ろうか」とだけ言った。
数日経った日の午後、わたしは予約していた歯医者に向かった。
治療も滞りなく進み、あともう少しで本日の治療も終了というところで口をゆすぐ。そのときだった。
「止めて!」
女性の声に、わたしは咄嗟にふり返った。
周囲を隈なく見回したが、白い壁とパーテーションによって区画分けされているため、声の持ち主がどこにいるかはわからない。
ただ、わたしはどうにも彼女の声に面食らってしまった。
誰も何も言わないため、そのまま落ち着いて治療を受けて会計のために受付近くの席へ足を進めた。
そこには二人、または三人掛けできるソファが、いくつか置いてある。
受付の側にある二人掛けソファに座って備え付けの雑誌を読んだり、携帯画面をのぞいて暇つぶしをするのがわたしの定番だった。
ただし、今回は違った。
二人掛けソファの真ん中辺りに陣取った、中年女性がいる。
彼女は黒いサングラスをかけてはいるが、髪型と言い、体形と言い、共通する服装のコーディネートと言い、この前のチャイブを盗もうとした中年女性ではないだろうか。
少し苛ただしいような表情を浮かべて、彼女はさっと立ち上がると受付に向かって言った。
「あのねえ、悪いけど旦那が車で来るよう呼んでくれる? 疲れちゃって、どうにも自分じゃできないのよ」
「は、はあ……」
受付の女性は目を点にさせた後、画面をしばらく覗き込んだ。おそらく、中年女性の言う旦那の情報を調べているのだろう。
わたしは内心、呆れかえってしまった。
旦那の電話番号。
身内に電話をかけることくらい、携帯を取り出して画面を数回触るだけ。
それだけで呼び出せるだろう。何が、疲れちゃった、だ。
さっと立ち上がって受付に迷いなく進んでいたくせに、白々しい。いくら年を取ったとしても、ああはなりたくない。
彼女のように図々しく浅ましい人間のようには。
受付の女性が旦那の電話番号にかけ、車でこちらに来るよう何回か呼び掛けている。
だが、
わたしの会計も当然のごとく遅れる。
だが、もうその頃になると、わたしは意識的に中年女性の話をシャットアウトし、雑誌を読みながら気をまぎらわせていた。
しばらくするとわたしの会計も終わり、直後に受付から保険証と診察券を受け取った。
わたしは治療について礼を述べた後、ドアを開けてその場を離れた。外に出て、診察券を財布にしまい、次いで保険証に視線を移した。
わたしは咄嗟に保険証のある部分を指の腹で隠す。
いつ見ても良い気分ではない。
わたしの心の内に、よどんだ感情が
とっくの昔に、入れ替わりのように短期間で姿を消した元号を見るなんて。
わたしは誰にも見られないように保険証を財布にしまった。
そこには、わたしの実年齢が疑いようもなく、はっきりと刻印されている。
彼氏に伝えてある年齢よりも、十五歳は上の年齢が。
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