けんか別れ

 その日は小雨の降る土曜日の朝だった。

 週五勤務を終えて、ゆっくりと二度寝できる。そう思いながら俺はベッドに横になっていた。

 だが、あいにくその目論見は長くは続かない。


 甲高かんだかい悲鳴が隣の部屋から聞こえた。

 続けて、食器の割れる音。


 勘弁かんべんしてくれ、と思いながら布団を頭の近くに寄せる。

 身を縮めるようにして、騒動が長く続かないことを祈った。

 だが、なおも怒声が隣室との壁を通して聞こえる。

 女の泣き声が上がる。

 どうもカップルの別れ話が、喧嘩けんかに発展しているようだ。


 勘弁してくれ。

 俺は布団にくるまったまま、隣室に背を向けた。

 せっかくの休日が台無しだった。

 ベランダの窓からはしとしとと、小雨の降り続く様子が耳に入る。

 俺はまぶたを閉じ、何とか二度寝しようと、まどろみに身をまかせた。


「やめてぇ!」

 女の声が玄関付近から聞こえる。

 その後、どたどたと廊下を走る音。

 何人いるのか、さっぱりわからない。だが、廊下を行ったり来たり、何回も走り回っているようだ。


「もう浮気なんてしないから! ごめんなさい――絶対にしないから!」


 女の甲高かんだかい悲鳴が上がる。

 壁を殴るような低音。

 俺は布団を頭からはねのけ、枕元に置いてある携帯の充電器をちらっと見た。


 そこには毎夜眠る前に携帯を置いているから、手を伸ばせば容易に携帯に指が届く。


 警察に電話すべきだろうかと思う。

 だが、もし、警察が来る前に二人が部屋に引っ込んで、大した事件性もないと判断されてしまったら。

 いや、ここは外に出て、まずは様子を見るべきか。


 俺は携帯片手に玄関の方へと進んだ。

 いつも部屋着のスウェットを着ているから、少し外に出るくらいなら着替えはしない。


 スコープから外をのぞき誰もいないのを確かめ、俺は玄関の外に踏み出した。


「ううっ、ううっ……」

 外には、派手に茶髪を巻いた女性が顔を両手で押さえ、涙を流している。向かい側には髪を短く刈上かりあげげた男が鋭い目で女を見ている。


 何も言わずにその場に立ち尽くしていると、男が視線に気づいて、こちらを見た。

 俺の姿に舌打ちをする。


「あの――」

「行くぞ」


 俺の言葉を無視して、相手の男は女性の腕を引っ張った。女は泣きながらも男性の後ろをついていく。


 何なんだよ、もう。

 俺はあきれた思いを抱きながら、部屋に戻った。

 再びベッドの中に潜ると、布団を首元まで引っ掛け、心地よいまどろみの中に落ちていこうと目を閉じた。


「許してぇ! もう、二度としないからぁ!」

 女の絶叫に近い金切り声が、今度はベランダの窓の奥から聞こえた。

 俺は目を開ける。


 あの女の声で、辺り一帯の住人が目を覚ましたに違いない。

 眠気もどこかに吹き飛んでしまった。

 窓の奥には駐車場が位置しており、おそらく今度はそこで喧嘩けんかを再び始めたのだろう。

 今度こそ、警察を呼んだ方が良いだろうか。


「ねえ」

 背後から女の声がした。

 どうして。

 俺は反射的に、さっと後ろをふり返る。


 見たことのない女が俺の部屋にいて、背後から俺をのぞきこんでいた。


 いつの間に、俺の部屋に入り込んで――。

「警察を呼ぶのは止めて」


 さっと女の手が充電器の上の携帯をかすめ取った。

「これ。取って来いって、あなたの元カノに頼まれたの。もう二度と写真でおどしてほしくないからって」


 女の顔がニヤッと笑った。

 その視線に俺は凍りつく。

 一瞬後に頭部を激しい衝撃が襲い、俺の意識は永遠に遠のいていった。 




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